エアフルトのホテルに集合し、バスで出発、ゲーテ街道を行く事約45分間、途中ブーヒェンヴァルト強制収容所を遠望しながらワイマルの町に着く。 

 ゲーテ(1749〜1832)、シラー、バッハ、リスト、画家のクラーナハが活躍したワイマールは、1547年以來ザクセン・ワイマル公国の首都で「すべてのドイツ人の祖国」あるいは「ドイツのアテネ」といわれている。 1999年、EUはこの町を「欧州文化首都」に選び、ヒューマニズムによるEU統合のシンボル都市にと位置付けている。

 古代ドイツ語ではワイ=きれいな、マル=水・海を意味するので、ここはイルム川沿いの美しい土地だったのだろう。 ワイマールは、近代デザインのバウハウス学校の発祥地でもある。 またリスト音楽院に学ぶ日本人留学生も多い。 なお、町の名はドイツ語では「ヴァイマール」と発音する方が正しい。

ゲーテ・ハウス(ゲーテ博物館)

 1775年、ワイマル公国々王のカール・アウグスト公(位1758〜1828)に招かれた26歳のゲーテは、この町に移り住み首相格の大臣になる。 1832年、82歳のゲーテは、ゲーテハウスで有名な「もっと光を」の言葉を残し世を去る。 肺炎を病んだゲーテに、医師は明るすぎないように部屋のカーテンを閉めていた。 「もっと光を」は、単純に「部屋を明るくして欲しい」と言う状況で言った言葉で、永遠の青年ゲーテが、遣り残した時間を「光」に置き換えて言ったものではない。

ゲーテはこの家に、ほぼ50年にわたって住んだ。 2階の黄色の間 Gelber Saal の入り口の床に書かれた SALVE の文字はラテン語で、「ようこそ」と言う意味、息を引き取った寝室や『詩と真実』や『ファウスト』をはじめとする数々の名作が書かれた書斎など、ゲーテの暮らし振りがわかり興味深い。

シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人の館

 ゲーテの愛人、シャルロッテ・フォン・シュタインの館。 公国の役人の妻で才色兼備のシャルロッテ・フォン・シュタインらとの交際で、ゲーテの知的生活は、ますます広がりをもつことになった。枢密顧問官など、ワイマール政府の数々の要職を体験したことで、ゲーテは実務に関する豊かな知識をも身につけた。

カールアウグスト大公像

民主広場(Platz der Demokratie)に面して、立つカール・アウグスト大公の騎馬像、画面後ろはアンナ・アマリーア図書館、右はヨハン・シュトラウス音楽学校(旧議事堂)。 

市宮殿 (Stadtschloss)

 民主広場 (Platz der Demokratie) から見た市宮殿 (Stadsschloss)、ワイマール公の城は、1774年の火災で塔だけを残して焼失したが、1803年に再建された。 当時建築委員会の一人であったゲーテの意見が、再建に当たってかなりの影響を与えたといわれている。 内部はクラーナハのコレクションを誇る美術館になっている。

 

バッハの家の跡

 民主広場からマルクと広場に移る途中に
バッハの家の跡があり、今は銅像がある。

 

市庁舎(Rathaus)

 マルクト広場を取り巻く立派な建物で、取り分け目を
引くのは金文字の時計を持つ市庁舎(Rathaus)だ。

  

 

クラーナハの家

 市庁舎の向かいのクラーナハの家もまた目立つ。 彼はデューラーと並ぶドイツルネサンスの巨匠ではあるが、画家のみならず実業家としての才にも恵まれ、人気画家として稼いだ金で薬屋もこの広場で営んでいる。 ルターと親交のあった彼は、ルターのドイツ語版聖書が完成すると、早速印刷機を買い求め、ドイツ語版の印刷に専念し、この普及に努めたという。 ここでも抜け目なく稼ぎまくった、とは書いてありません。 念の為。

ホテル・エレファント

 広場の南側にあるホテル・エレファントは、メンデルスゾーン、バッハ、リスト、ワグナー、トルストイ、トーマス・マンも泊った由緒あるホテルだ。 ヒットラーもバルコニーから演説をしたことで知られる。 トーマス・マンの「ワイマールのシャルロッテ」(まだ読んでません)の舞台となった。

   

シラーの家記念館 (Schillerhaus)

 ゲーテの招きでワイマールにやって来たシラーが、1802年から亡くなる1805年まで住んだ家。 有名な「ウイリアム・テル」を執筆した。 スイスの英雄ウイリアム・テルは、ワイマールの机上で生まれた架空の人物だが、スイスのルツェルンの近くに彼の故郷とされた村がある。

 

国民劇場 (Nationaltheater)

 シラーの「ウイリアム・テル」、ゲーテの「ファウスト」、ワグナーの「ローエングリン」などが初演された。 この他、リスト、シューマン、リヒャルト・シュトラウスもここで活躍した。 劇場は何度か焼失し、現在の姿となったのは1907年の事である。 その後1919年にワイマール憲法もこの劇場で採択されたことから、ワイマールの芸術と政治の舞台として、重要な役割を果たしてきた。

  

 

国民劇場の前のゲーテとシラー像

 国民劇場の前で手を取り合って立つ像は、ゲーテとシラーの像(Goethe-Schiller Denkmal)で、1857年の作。 


バウハウス博物館 (bauhaus-Museum)

 ワイマールは近代デザインのバウハウス学校の発祥地でもある。 その理念とは、芸術は社会の要求にこたえるべきであり、美術と工芸を区別すべきではないとするものであった。 産業界の要求や影響にも積極的に対応し、美的基準と技術的基準を同時にみたすデザインをめざそうとした。 1930年、建築家ミース・ファン・デル・ローエが校長となったが、32年にはナチスの弾圧によってベルリンへ移転、さらには33年、閉鎖を余儀なくされた。 やがて教授陣の多くはアメリカに移住した。 以後数十年間、バウハウスの教えはアメリカの建築・美術界で主流となり、国際様式の普及に大きく貢献する。


ワイマル憲法とワイマル共和国

 ワイマル憲法は @国民主権の原則 A20歳以上の男女の選挙権 B労働者の権利の援護を掲げるなど、当時としては最も民主的なものとして高く評価された。 この憲法のもとでドイツは「ワイマル共和国」として出発するが、第一次世界大戦の過酷な賠償金の取り立て、植民地や国境周辺など多くの領土を失った事などから経済が破綻し、史上空前の悪性インフレを引き起こす。

 このインフレにより物価は一兆倍に高騰し、主婦が野菜を買うのにスーツケース一杯いっぱいの札束が必要であったと言われる。 郵便にしても相次ぐ値上げに切手の印刷が間に合わず、従来の切手の上に金額を加刷したものが今も残っている。

 世界一民主的な憲法によって、新生ドイツとしてスタートしたワイマル共和国は、「レンテン・マルクの奇跡」と言う言葉を残してインフレの鎮圧に成功するが、ドイツ帝国の復活を夢見る保守派や右翼たちは、軍備を否定されたワイマル共和国そのものを認めようとはせず、無政府的な煽動を繰り返す。 国民の間に生まれた隙を突きヒトラーのナチズムが台頭し、1933年、ヒトラーに乗っ取られたワイマル共和国は14年の短い生涯を終わる。   



とーるくん