2002年7月19日
柳下毅一郎さんが〈文藝〉誌に連載している「オレにやらせろ」は、題名どおり、柳下さんが「オレが訳したい」と切望している本を紹介するコラムで、実におもしろい。アルフレッド・ベスターのTender Loving Rapeがとりあげられたときはうれしくなったし、著者名を失念したけれど、Cuntというめちゃくちゃな題名の小説のめちゃくちゃなあらすじを読んだときは、いったいどこからこんなヘンな本を見つけてくるんだろう、と舌をまいた。映画ファンなら、クラウス・キンスキーやエド・ウッドの著書の紹介に狂喜したことだろう。
現在発売中の2002年秋号掲載分では、ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』がとりあげられている。柳下さんの簡潔にして的確な紹介文を読めば、SFファンはもちろん、〈文藝〉を読んでいる文学愛好家も、きっと興味をそそられるに違いない。そこで、ここではわたしの専門分野である本格ミステリファン向けに、『ケルベロス第五の首』の魅力をお伝えしたいと思う。というのは、この作品は本当に傑作であり、ぜひ「オレにやってもらいたい」からで、ささやかながら提灯を持たせていただく次第。
以前、このページに書いたけれど、『ケルベロス第五の首』は拙著『鏡の中は日曜日』の元ネタ(もっと正確に言うと、発想源のひとつ)である。なぜ、遠未来の異星を舞台にしたSFが本格ミステリの元ネタになり得るのかというと、理由は簡単で、『ケルベロス第五の首』は本格ミステリだからだ。
柳下さんはコラムでこう書いている。
ウルフの最大の魔法は、語られていることと起きていることが違う状況を文章力だけで表現してしまうところにある。一人称の主人公はもちろん自分の信じていることを語る。だが、その語りの中からもうひとつの真実が浮かび上がってくる。二つの事実のはざまに魔法が生まれるのだ。
本格ミステリファンなら、柳下さんが何を説明しようとしているかを正確に理解できるはずだ。本格ミステリというジャンルには、この「魔法」をひと言でいいあらわす専門用語が存在する。
『ケルベロス第五の首』は、本格ミステリとして読んでも、ほとんど完璧な出来映えに仕上がっている。ウルフが仕掛けた「魔法」に気づきさえすれば、「第三話の囚人は自分が告発されているのは自分殺しの罪であること」は明白だし、その「自分殺し」の動機さえも推定することができる。さらに、なぜ第一話が「一人称の主人公の語り」なのか、なぜ第三話が「日記や尋問記録などの断片」で構成されているかまでわかる。恐ろしいことに、フェアプレイや伏線の張り方といった、本格ミステリのゲームの規則までもきちんと遵守しているのだ。(『鏡の中は日曜日』について「アンフェアである」とのお叱りを多数ちょうだいし、それはそのとおりだと思ってますが、『ケルベロス第五の首』は拙著の100倍フェアプレイです)
したがって、熟練した本格ミステリファンなら、比較的たやすく『ケルベロス第五の首』の「真相」を見抜くことができるだろう。そして、読了した瞬間、「ここまで精緻に謎を設定し、伏線まで張っておきながら、なぜ謎解きがないのか?」と首をひねるだろう。実際、初読時のわたしが、そうだった。
しかし、柳下さんの紹介記事を読んで、その理由がよくわかるようになった。『ケルベロス第五の首』に謎解きがないのは、ウルフが本格ミステリ的な「真相」を否定しているからだ。ウルフは「『真相』などというものは存在しない」と言っているのである。
本格ミステリとして緻密に組み立てられていながら、本格ミステリ的な「真相」を否定する小説。ラストに明かされる「真相」を期待しながら読みすすめ、宙ぶらりんのままにほうり出された初読時の読後感を思い起こすと、『ケルベロス第五の首』を「アンチミステリ」と呼びたい誘惑にも駆られる。
(ただし、めでたく翻訳されたあかつきには、解説で本格ミステリ的な「真相」を紹介したほうがいいと思いますよ。そのほうが『ケルベロス第五の首』がいかにすごいか、よくわかりますから)