河 口 家 の 歴 史
 
 
 
 
一.河口姓の起源
 

 河口家の初代は久家である。幼名を松千代丸という。

 久家は武蔵の国に本城を置く安東氏の出身で、安東氏は代々北条氏へ仕えていた。すなわち祖父義範の時代には、かの新田義貞と力を合わせて、後醍醐天皇のさし向けられた北条高時討伐の軍を鎌倉で迎え討ち撃退させている。義範はこの戦で戦死したが、義貞は無事、後に北条氏の覇権を奪取すべく、謀反をくわだてるに至った。

 元弘三年五月、義貞鎌倉攻めの折りには、父聖秀は義貞と敵対することになり、三千余騎を率いて極楽寺に陣していた。義貞の一隊が稲村ケ崎方面を制し、鎌倉の前浜に達したので、聖秀の軍は急遽稲瀬川へ転進し、ここで諏訪・長崎らの勇士と共に決死の防戦につとめ、敵を撃退した。この戦で聖秀は身に薄手を負い、身方の陣営にようやく辿り着いた。そこには義貞の使者が薄様に書かれた書状を持参していた。その内容は知る由もないが、聖秀の姪である義貞の妻が、「北条氏の命運もつきたので、こちらにおいでください。生命の安全はまもりますから・・・・」概容そんなことを書き添えていた。聖秀は武士としてこの上ない恥辱を味わい、義貞がそんな行為を呵止しなかった事を憤り、使者の前で割腹して、高時への忠誠を示した。関東武士の名に恥じない最期であった。この後、高時も北条氏代々の墓所・東勝寺で自害している。一門・身内の者も腹を切り、あるいは刀を刺し違えて死んだ。「従死する者六千八百余人」とある。元弘三年五月、松千代丸が十三歳の時のことである。同月二十五日、松千代丸は後日一家を再興する時のために、系図他証拠となる品々を持って、母と共に本城を立ち退く。流浪の末に、建武元年(1334年)一月十五日、常陸国河内郡河口荘にたどり着きここに居住する。この時安東を改め、地名から河口を名乗ることとなる。河口姓の起源である。

 
 
二.河口としての一家の再興

 松千代丸は性温順で才知があり、武術にも長けていた。母は松千代丸が早く成人し一家を再興することを強く望んでいた。やがて、成人した松千代丸は、幼名を廃し河口図書久家を名乗る。

 延元二年(1337年)、久家二十一歳の時、足利尊氏の九州西下に従って筑前赤坂に陣を張った。仁木義長、細川顕氏の陣営に加わり、多々良の浜で菊池勢と戦い撃破する。この勝利は足利尊氏が再起する上で大きな転機となる。その功績が顕著であったため、伯耆国に三千五百貫を賜り、河村郡戸麻利山に城を築く。暦応三年(1340年)三月二十四日、久家が二十五歳の時に常陸の国から家財を全部取り寄せ、この地に移り住む。当時の城は主目的が戦いの為のものであり、日常生活は平地に屋形(館)を構えた。

 久家は一代で河口一家を興し、六十三歳でこの世を去った。

 
 
三.河口家の家督争い

 久家の没後、河口家の家督は久續が相続する。以後、秀久、久信と家督が相続される。しかし、秀久は身体が弱く、武術を学ぶが実らず、学ぶことすらやめてしまう。次代久信も性格は温順であったが、狩猟や漁を好み兵法や武術を真剣に学ぼうとせず、重臣に諌められる事もあった。

 延徳三年(1491年)五月より、久信は病床に伏す。明応元年(1492年)三月に佐藤綱俊以下老臣五十二人が集まり、跡継について論議する席が設けられた。長男久光は「才知に乏しく能力がない。久光を世襲とすることは河口家が断絶する事と同じ」などの意見が相次ぎ、「次男の光長に相続させるべき」との意見が大勢を占めた。しかし、「この家において未だかつて長男がありながら、次男が家督を相続した事はない。」と長男久光が家を継ぐことに決まった。明応五年(1496年)久信が没す。その後、尼子方に与するが良しとする兄久光と毛利方になびくが良しとする弟光長の対立が激化する。文亀三年(1503年)三月十九日、弟光長は兵百五十騎を率いて、兄の家に夜襲をかけ久光を殺す。よって、光長は河口家の家督を相続し、この時以降河口家は毛利に属する事になる。

 
 
四.河口刑部少輔久氏と戦乱の時代
 
一.河口城落城するも奪回

 天文二十一年(1552年)一月三十日光長が七十九歳で没す。その跡を継いで久氏が河口家を相続する。この頃は山名も名乗る。

 大永四年(1524年)五月、新宮党の尼子経久が伯耆に侵入し、伯耆の諸城を攻略する。西伯郡尾高泉山城の行松入道・東伯郡小鴨岩倉城の小鴨掃部助・同郡北条堤城の山田重直・同郡羽衣石の南条宗勝、倉吉打吹城の伯耆守護山名澄之らと共に西伯郡泊の河口城にいた山名久氏も尼子に追われ、因幡気高郡布施の山名氏や但馬守護山名誠豊を頼って流浪した。「大永の五月崩れ」と呼ばれるものである。その後新宮党の首領尼子国久は羽衣石城で、全般を指揮し、その子誠久を泊の河口城に置いて因幡の山名氏に備えさせた。

 天文九年(1540年)八月、因幡・但馬の両山名氏の支援によって伯耆衆(大永の五月崩れで城を追われた諸将)が旧城奪回作戦に出る。一旦は河口城の奪回に成功するが、尼子国久の奮戦により、河口城は再び制圧される。天文二十三年(1554年)、国久が晴久に謀反の心ありとする毛利元就の謀略にかかる。尼子一門、家老衆が富田城に参集したときに晴久は国久、誠久親子を殺し、新宮党を滅亡させる。

 伯耆衆は毛利の援助を受け、永禄五年(1562年)六月武田山城を大将として七千余りの兵を挙げ切り入り、泊の城を攻め、河口刑部少輔久氏は家城の泊城に帰り旧領を回復する。

 
二.尼子の動向と久氏の役割

 永禄六年(1563年)十一月十五日、弓ヶ浜合戦始まる。富田城の兵糧は因幡・但馬から海路で輸送、伯耆弓ヶ浜に陸揚げされていたが、海上権を毛利に押さえられた尼子勢が弓ヶ浜に打って出た。しかし戦に敗れ、富田城への伯耆方面からの糧道が断たれた。

 尼子を倒そうと毛利の全軍が永禄八年(1565年)四月出雲に集結する。翌九年十一月二十一日月山富田城は落城し、尼子は滅亡する。吉川元春が入城し、伯耆は吉川の支配下に置かれる。永禄十二年 (1569年)、山中幸盛らは還俗させた誠久の末子・尼子勝久を擁して尼子家の再興を図り出雲に入国して、末次城に土塁を築き富田城を包囲する。元亀元年(1570年)二月十四日毛利軍は末次城を奪取し、河口久氏は小鴨四郎次郎とともにこの城の守備を命ぜられる。同年十月三日、尼子勝久は城奪還のため末次城に迫ったが、杉原・南条・三刀屋・益田ら諸将の援軍を得て河口・小鴨両氏が死守する。天正二年(1574年)難を逃れて京にいた尼子勝久・山中幸盛らは再び因幡に侵入する。私都城を落として、亀井茲矩に守らせ翌三年二月には若桜城も攻略するが、同年十月には吉川元春・小早川隆景が両城を奪取。勝久・幸盛らは脱出して再び京へ逃げる。

 天正五年(1577年)十一月、羽柴秀吉は織田信長の命を受けて播磨に軍を進め、上月城を攻略する。この城に秀吉は毛利の仇敵である尼子勝久、山中幸盛らを入れて守らせた。

 翌六年四月、吉川元春、小早川隆景の軍勢が上月城を包囲し、秀吉勢を退ける。落城を前にした六月二十八日、秀吉は軍を立て直し、三万の兵を以て再度上月城の奪取を試みる。急を聞いて南条伯耆守小鴨左エ門が兵一千を率いて救援に訪れるがどうしようもなかった。この時杉原盛重の聟河口刑部少輔久氏の兵二万が南条のもう一方の兵一万と合わさり、計三万で上月城に駆けつける。河口刑部少輔久氏は兵三千を率いて秀吉の軍と戦うが、戦えば勝ち、攻めれば敵陣を取り、たった一度も負けることがなかった。こうして戦いを有利に進め、上月城は七月三日遂に毛利の手に落ちた。尼子勝久は自刃し、降伏を許された山中幸盛も暗殺されて、ここに尼子再興の運動は終末を告げた。

 この頃、月山富田城に毛利元就の五男杉杜元秋が城主として入り、「富田」を称している。

 
三.南条氏との関係

 天正三年(1575年)十月羽衣石城主南条宗勝は、月山富田城からの帰途、尾高城に立ち寄り、饗応を受けるが、帰城後急死する。南条氏は杉原氏の毒殺によるものとし、疑惑を深める。毛利氏では、尾高の杉原盛重を八橋へ、盛重の長男元盛を尾高へ、杉原の臣木梨某を由良へ、盛重の娘婿である河口刑部を泊に配置し、南条氏の監視にあたらせた。その後南条氏は元続が跡を継ぎ毛利氏に対応する。

 天正六年、羽衣石城の南条氏は、尼子の遺臣福田光定のすすめにより、秀吉を通じて信長に与することを明らかにし、南条元続・小鴨元清は上方勢に加わった。元続は羽衣石四十八谷の口々を固め、高野宮城に小森和泉守、河口城に山名刑部久氏、田尻城に南条兵庫守元周、堤城に山田出雲守重直、倉吉城に山名小三郎民豊、岩倉城に小鴨左衛門元清をそれぞれ配置し吉川氏に備えた。

 天正七年(1579年)五月、南条の旗下ながら毛利に心を寄せていた山田重直・子息信直は、福田光定を討ち、羽衣石城の大手にあたる高野宮城を攻めたが、このことを予知していた老臣山田佐助はこれを迎撃し、南条元続は山田重直の堤城を攻略する。同年七月、吉川元春は杉原盛重を大手より、吉川元長を搦手より攻めさせ、羽衣石城を攻略する。南条元続は城を脱出して因幡へ逃れるが、八月には秀吉の援助を受けて、亀井茲矩らと羽衣石城を奪還する。

 天正八年(1580年)一月、羽柴秀吉は三木城を落とし、山名祐豊を降伏させ但馬を平定する。同年六月秀吉は毛利の武将の守る鹿野城を落とし、鳥取城の豊国を降伏させ、因幡・伯耆を共に制圧し、配下の武将を各城に配置して備えを固めた。

 同年八月吉川元春は羽衣石城を攻める。河口久氏の軍は長瀬川中ノ瀬を渡渉して南条勢に猛襲を加える。鳥取城ではこれに勢いを得て老臣森下・中村らが豊国を追放し、山名豊弘を城主として、秀吉に反旗を翻す。

 また、天正八年十二月には泊の河口城においても河口・南条の合戦があった。十二月二日南条元続兄弟が一夜で戸麻利の城を落とそうと兵三千騎を率いて攻めてきた。河口刑部少輔久氏は、僅か兵百五十騎で城に立て籠もるが、久氏は敵兵を一ヶ所に集まるよう謀り、一斉に矢を放たせ、敵陣の怯んだ隙に門を開き兵百余騎で攻撃させた。南条勢は一旦引くが、今は城中は手薄と引き返し城に入ろうとする。大弓手利きの勇士と知られる刑部少輔久氏が、門前でその大弓を構えているので、皆恐れて岩陰に隠れた。中原市太夫が一人、逃げ遅れた兵を追って門前まで来て、その兵の首を刎ねた。これを見た久氏は五人張りの大弓から三條の矢を放って中原市太夫に命中させた。市太夫は南条の中でも強者で、久氏の矢を受けながらも怯まず、「久氏の矢を受けながらも首をもらって帰る剛の者は中原市太夫である。」と名乗り偽りを言って引き上げて行った。これに奮起した南条の勢は再び攻撃を開始するが、その夜は雪が降り、寒風が激しく吹き頬を突き刺し、手は凍えて思うようににならないため、南条の兵は攻めることを止め引き上げた。市太夫が偽って逃げたことを知らない久氏は「夜の事とはいえども十間先の目前の敵を三條まで射外したとは、我一生の恥である。」と悔しがり、弓を折り捨てた。

 
四.秀吉の傘下に

 天正九年(1581年)一月森下・中村らは鳥取城番に毛利一族の派遣を要請した。吉川元春はこれに吉川経家を任命し、三月十八日に入城させる。同年七月秀吉の大軍が鳥取城を包囲し、兵糧攻めを開始する。九月には秀吉の軍が泊の河口城を攻め、泊港内にあった毛利水軍の船舶六十五隻を破壊沈没させた。毛利方にとって、泊城は重要であり、鳥取城応援のための最前線になっていたのである。伯耆での毛利の力は衰え、同年十月二十四日鳥取城内で森下・中村ら老臣が切腹。翌日には吉川経家も切腹し、鳥取城は落城した。

 この年の暮れ十二月二十五日、毛利の猛将と呼ばれた久氏の義父杉原播磨守盛重が尾高城で病没した。

 明けた天正十年(1582年)二月吉川元春は因幡を奪回しようと、八橋城に入り、杉原盛重の子元盛・景盛を先鋒として、大崎城を攻略した後、諸将を追い落として鳥取城を攻撃する。同年五月、秀吉は備中高松城を落とし、城将清水宗治は自刃する。本能寺の悲報を知った秀吉は毛利輝元と和睦し、伯耆の東部久米・河村・八橋の三郡を南条氏に、西部の汗入・会見・日野三郡を吉川氏が領有することを定めた。天正十三年(1585年)富田城主元秋没す。その跡を末次城主元康(元就八男)が継ぐ。天正十九年(1591年)には南条元続が病没し、元忠が家督を継ぐ。

 慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いが始まる。南条氏は西軍に与すが、敗れたので城を追われ、羽衣石城は廃城となる。泊では兵火により、倭文神社社殿・河口城・長清寺など焼失する。天正十年秀吉、輝元の和睦後、南条配下にあった河口刑部少輔久氏が豊臣方についたのは勿論である。

 元和元年(1615年)五月、河口刑部少輔久氏は南条元忠らと共に大阪夏の役に加わり、大阪城に籠もるが大阪城落城により、主君秀頼が没し、久氏も自刃した。

 
 
五.長州長門国厚狭郡有帆中村へ

 河口刑部少輔久氏が大阪城で討ち死にしたことを知った久氏の妻(杉原盛重の娘)は、幼い河口家の嗣子久吉を伴い戸麻利の城を後にした。家康の大阪城残党の捜査追求はことの外きびしかったのである。あちこち徘徊すれど、誰一人知る者もなく、長門国厚狭郡有帆中村(現山口県小野田市大字有帆字中村)という所に辿りついて、系図や家財道具、河口の家督を証明する物も持参し、ここに居住する。元和二年(1616年)八月の事であった。蓋し、久氏の代にできた厚狭毛利氏との姻戚関係を頼ったものであろうか。

 久吉は成人して農業を生業とする。

 
 
六.吉部田に本拠を構える

 久吉の没後を継いだ徳丸はこの地に二十町を下らないという多くの田圃を買い求め、農業を本業とした。家督を証明する物があり、常々元の地位に戻ることを願っていたが、河口を名乗ることができなかった。

 徳丸を継いだ孫左衛門は、更に農業に勤しみ、有帆中村で一番の豪農となった。孫左衛門の弟である六郎兵衛は、田圃十町余りを分けて新宅をなし、この時より河口の姓復活した。

 孫左衛門を継いだ與三右エ門は、家が繁栄していることを良いことに、その権威を欲しいままにしていた。そのため村人から恨みをかうことが多かったが、最後には庄屋と喧嘩をして中村の田圃をすべて売り払って、鳥越という所へ移ってしまう。この地で田圃を買って、農業を始めるが、鳥越には與三右エ門の家を含め三軒しかないという、小さな村であった。鳥越に移住してからしばらくは、家を建てたり、田圃を買い求めたり、更にはその耕作にも追われて、河口家にとっては苦難の時期であったようである。当時の鳥越は、湿地で地味もやせており作物の育ちにくい土地であった。その上、厚狭川の氾濫による被害も大きかったようで、與三右エ門は財を注ぎ込むに値しないこの土地を早々に見切りをつけ、吉部田へ移った。

 與三右エ門の後を継いだ五左衛門の時代には、かなりの田圃を所有し、次の甚五左衛門の代には、三兄弟結束して家の繁栄に努め、財産の蓄積に成功したようである。山を背にした小高いの場所(現在地)に、本家を中にして両脇に分家が置かれる形で、三軒並んで家を構えた。この頃は、系譜を書き継いでいく精神的な余裕がなく、この間の系譜が、名前のみで詳細が書き記されていない理由と思われる。

 
 
七.吉部田の本家

 五左衛門を継いだ長男甚五左衛門は、「周平」という弟のことで、國主毛利氏の信頼を失い、下津に幽閉されてしまう。この周平は、先祖からの口伝えに「将棋の駒に碁盤の台」と言われて家を傾ける程の放蕩息子であった(京都通妙寺の過去帳に「長門国厚狭 河口周平」の記載があり、その戒名は「不守銭院破産揚名居士」と記録されている。先年、後裔の者たちが同寺を訪れ、碁盤の台の上に将棋の駒を乗せ、戒名を彫って墓を建てねんごろに供養したとの事である。)。前掲載の「河口家系譜」は書写した物でありオリジナルではない。大元の系譜は、この周平が持ち出して、豊前国(北九州市小倉)の人に売ってしまった。これを知った一族の人(五左衛門たちと思われる)が、買い戻しに赴き交渉したが果たせず、書写する事を許されて持ち帰った。現在残っている系譜はこの時に書き写された物である。本来は漢文で書かれていたが、この時に書き下ろし文にした物と思われる。後に毛利氏に無断で「京師ニ至リ、禁裏様(朝廷)ノ臣トナ」ったことが、系譜の端に記されている。この事を咎められ、甚五左衛門は長男の職権を取り上げられ、下津に幽閉されてしまう。甚五左右衛門の孫、久之丞の代まで河口姓を名乗るが、その長男、甚五郎が林姓に変えた。林家の墓地に河口の姓があるのはこのためである。甚五左衛門の家にはその後「猪俣」という毛利に使える武士が住むようになる。これ以来、吉部田の本家を「東の河口」、下津の家を「西の河口」と呼ばれるようになった。我が家は「東の河口」の後裔である。

 甚五左右衛門が幽閉されて、五左衛門の次男、惣左衛門が、家督を継ぐことになった。しかし惣左衛門は五左衛門よりも5年早く死去している。没年齢も不詳で、その子喜市郎がこの時何歳であったかもわからない。幼少だったためか、その器になかったためか、ともかく五左衛門は三男の五兵衛に家全般の世話を命じた(系譜には特別な者以外は、直系のみを記しているため、惣左衛門の弟に五兵衛がいたことは記載されていない)。五兵衛は、教養、人格ともに優れ、後には「秀夫」と号して、深く仏法に帰依している。先祖の墓地を整備し、善教寺を菩提寺としたのもこの人である。この時以来、墓地の管理、先祖の法事などは、すべて五兵衛の子孫が行っている。

 その後、五右衛門・五兵衛・平太郎・小右衛門・精輔と五代にわたって、吉部田の地で堅実に農業を営み、財産を守り、河口家の家督を嗣いでいった。

 
 
八.資一新家を分ける

 資一は精輔の四男として生まれた。東京獣医学校(現大学)を卒業し、後に朝鮮へ渡り畜産関係の仕事に携わるが、子供が多かった上に次々と病気にかかってしまう。当時は病院がどこにでもある訳ではない上、現在のような保険制度もなかった。別々に二人(英子、敬)が入院するという事態が発生するが、家には幼い子がおり看病もできない有様であった。そこで故郷に帰る決心を固めるが、四男で家を嗣ぐことはならず、杣尻に土地を買い求め古い家を移築して分家した。杣尻に戻った資一は農業を営む。物見山の墓は、資一が杉山の墓地の傍らを譲り受け、資一が死去した折り、三人の息子が費用を出し合って建立したものである。現在分家の仏壇は山陽小野田市上木屋の達を経て、平成二十三年八月から有帆の正の家に移り正が護っている。

 
 
 
 
「河口家の歴史」について     系譜を調べることになった経緯
 
 

 河口家の祖先は、山陰(鳥取の方)に住んでいたが、故あって山口県に移住することになったという事を、英子・(茂)・敬・達・正・美子の兄弟が幼少の頃、父資一や祖父精輔から耳にしていた。どのような事情で山口県に移住することになったのかは、分からなかった。最初は兄弟で、吉部田にあった鬼籍から系図を作成したが、それ以上先祖をたどる仕事が進まず、しばらく放置されていた。

 ところが偶然、藤井の進君(美子の次男)が野球の遠征で倉吉へ行くことがあり、美子も父兄の応援団の一員としてこの地を訪れた。その折、泊村に「河口城」のあることを知る。先祖からの言い伝えが、急に真実性を帯びてきたため、一度兄弟が元気な内にこの地を訪れようと言うことになった。

 どうせ訪れるのならば、前もって手に入る資料や地方史を研究している人などを紹介してもらおうと言うことになり、正が中心となって泊村の教育委員会に手紙を送って、河口氏の歴史を遡る作業が始まった。これと同時に、「西の河口」(泰典氏宅)には昔からの系図が現存するということもわかるが、泰典氏はこれを門外不出として、誰にも見せないとの事も知った。とにかく分かる範囲で調べてみようと、泊村の中世の記事を基に「山名久氏」と呼ばれる人物から取りかかるが、その前も後も皆目見当がつかなかった。

 杉山の政次氏(英子の夫)と河口泰典氏の妻とは、又従兄弟の関係で、とにかく幼少の頃から面識があったため、泰典宅を訪れて系譜を見せてもらい、これをメモして帰ることができた(後日この系譜を借り受けることができたため、系譜をこの「河口家の歴史」に掲載することができた)。このメモを基に少しずつではあるが調査も進み、厚狭毛利との関係なども図書館で調べ分かってきた。

 平成八年八月二十六日から二十八日までの三日間、兄弟会と称して泊村の河口城趾を訪れることができた。この折りにも、河口久氏や河口城に関わる多くの資料を入手する事ができた。

 この後も資料収集は行われ、ともかく安東義範までの系図が完成し、それぞれの時代の河口家の姿が見えてきた。せっかく集まった資料であるがまとまっていないために一連の全体像がつかめず、このままでは再び言い伝えに終わりそうであった。そのため、文献や資料等を一旦デジタル画像に取り込み永久に残す事を考え、攻(正の長男)が作業に当たることになった。

 この「河口家の歴史」は平成十一年(1999年)十二月二十日までにまとめられた資料を編集し、まとめたものである。

 
 
平成 十二 年 一 月 一 日
                          
河 口 正 ・ 河 口 攻