不器用なココロ


「俺の酒が飲めないのか?」

  丑久保寛隆(うしくぼひろたか)の目の前にある上司の顔はそう語っていた。
  会社の飲み会。同じ課の女性が今週いっぱいで寿退社をする。その送別会が会社近くの小料理屋で行われていた。
  丑久保は下戸だ。まったく酒が飲めない。アルコールを一口でも飲んだら、30分もしないうちに吐き気をもよおす。体質的にアルコールを受け付けないらしい。
  社会人になって4年。会社でも丑久保が飲めないことは周知の事実。入社してすぐの歓迎会で、無理矢理飲まされてひどい状態になった。それ以来、誰も飲み会で丑久保に酒を勧めなくなっていた。
  ところが、つい一月前この支店にやってきて、丑久保のいる部署に配属された部長は
「酒が飲めない者は一人前の社会人じゃない」
  という考えの人だったのだ。
  部長の歓迎会では当たり前のように飲まされ、地獄の苦しみを味わったというのに、またしても丑久保は酒を飲まなければならない状況になっていた。丑久保を睨むようにビール瓶を差し出す部長に、丑久保は仕方なくグラスを持った。だが、それだけでは部長は許してくれなかった。

「なんだ……中身が残ってるじゃないか」

  かろうじてビールが注げるくらいの隙間しかない丑久保のグラスを見て、部長はそれを飲み干せという意味を込めてそう言っていた。これを全部飲んだら、きっと……いや必ずトイレに直行だろう。そう丑久保は思った。
  周りの同僚たちは、その様子を気の毒そうに見ている。しかし、見ているだけで助けようとはしない。皆、自分が部長の次のターゲットになることを恐れていた。部長はとにかくしつこいのだ。ザルと言われてる者でも、部長のお酌には閉口していた。アルコールが入る前はそうでもないのに、酔いが回り始めると同時にだんだんしつこくなる。はっきり言えば、あまり・・・いや、絶対に一緒に飲みたくないタイプの上司だった。
  逃げられない。
  丑久保は覚悟を決めて、グラスのビールを一気に飲み干した。それを見て部長は

「飲めないとか言ってイケるじゃないか、ほらもっと飲め」

  などど言いながら、満足そうに丑久保のグラスにまた並々とビールを注いだ。
  どうにでもなれ…そんな気持ちだった。丑久保は注がれたビールをまた飲み干した。そして、ダンッとテーブルにグラスを置いた。

「失礼します!!」

  唖然としている部長に半ばヤケクソ気味にそう一言放ち、自分の荷物を持って宴会場となっている和室を出た。多分、もうかなりアルコールが効いている。
  カウンターにいた女将に一言挨拶をして、丑久保はそのまま店を出た。
  外はビル風が吹き抜けてとても寒かった。11月のこの時期、夜は結構冷え込む。丑久保は宴会場にコートを置いてきてしまったことに気付いた。だが、今更あの場に戻れるはずもなく、コートは諦めることにした。誰かが持って返ってくれるだろう。そうでなければ、明日にでも店に取りに行けばいい。
  駅に向かって歩き始めて数分、一月前に体験したあの胃のムカツキが丑久保を襲った。ビール2杯を一気飲みなんて、大学時代にサークルでバカをやっていた時以来だった。その時に、自分がアルコールを受け付けない体質だとわかったのだ。よく考えてみたら、両親も親戚も、丑久保のまわりで酒を飲む者はほとんどいなかった。多分、弱いのは家系なのだろう。
  とにかく路上で吐くわけにはいかない。少し先に公園がある。とりあえず、そこまでなんとか我慢をしなくてはと、丑久保は口元を抑え、公園を目指して足を速めた。
  なんとかそのまま公園にたどり着き、トイレで吐く。胃の中のものを全部出し切ってもまだ嘔吐感は無くならなかった。最後には胃液を吐いた。それでも気分は良くならない。フラフラになりながらトイレを出ると、水道で汚れてしまった顔と手を洗う。そしてそのままベンチに倒れ込んだ。身体がひどく重くて、もう少しも動けそうになかった。

「なんでこんな思いをしなくちゃならないんだよ」

  口をついて出たのは弱音だった。ベンチに仰向けになり、両手で顔を覆う。こんな自分が情けなくて、悔しくて、丑久保は泣きたくなった。
  両親の反対を押し切って、デザイン系の大学へすすんだ。卒業後は広告関係の仕事に就きたかった。だが、不況下での就職難で人気の高い広告代理店からは、内定どころか1次試験合格の通知さえもらえなかった。仕方なく受けた、今のイベント企画会社からなんとか内定をもらい就職した。名古屋に本社のあるこの会社は、大阪と東京に支社があり、丑久保は入社以来ずっと東京支社の第二企画部で、企業から依頼されたイベントのポスターなどのデザインをしている。
  元々、何かを作り上げることが好きだったので、今の仕事に不満はない。だが、やはり広告代理店への憧れは捨てきれず、同じオフィスビルにある広告代理店の社員を、羨望の眼差しで見つめてしまうことがあった。
  考えているうちに、自然と涙が流れてきた。アルコールの所為だ。丑久保はそう思うことにした。飲めない酒を飲まされ、公園のトイレで吐いて、ベンチに倒れこんで泣いているなんて、あまりにも情けなさすぎだ。
  左手でまだムカムカする胃の辺りを押さえ、右手でゴシゴシと無造作に涙を拭く。
  目を開けると、生い茂る木々の間からオフィスビルが見える。金曜日だと言うのに、いくつかの窓にはまだ灯りが点いてた。ぼんやり見ていると、それが徐々に滲んでいく。また、涙が溢れてきたのだ。
  丑久保はズズッと鼻をすすった。と、突然、視界が暗くなった。

「あの……大丈夫ですか?」

  影が喋った。
  驚いて、丑久保はガバッと起き上がる。自分を見下ろす影を見つめる。それは、グレーのコートを着た男だった。長身で、丑久保から見てもとてもカッコイイ整った顔をしていた。なんとなくその顔に見覚えがあった。それを思い出そうと記憶を探り始めた時、またあの吐き気が丑久保を襲った。
  あまりにも勢いよく起き上がったためだろう、胃が悲鳴をあげた。慌てて口を押さえて蹲る。
  その丑久保の様子に、男は

「吐いてしまいなさい……その方が楽になります」

と言って、丑久保を抱きかかえるようにしてトイレに連れて行った。
  またも胃液を吐いて、丑久保は気分も気力もボロボロになっていた。先程とは違った意味で、涙が溢れてくる。 男はしばらく丑久保の背中をさすっていたが、丑久保が落ち着いてきたのを見て、また抱きかかえてるようにさっきのベンチに戻る。

「あの、家は遠いんですか?」

  男の問いに、丑久保は地下鉄で4つ先の駅だと言った。それを聞いて男は、「電車に乗るのは、ムリそうだな・・・タクシーもこの状態じゃ乗せてもらえないよな。」と小さな声で呟いて、こう言った。

「俺の部屋、すぐそこですから」

  丑久保の返事も待たず、男は丑久保を抱えて歩き出した。
  一瞬、何が言いたいのかわからなかった丑久保も、公園を出る頃には男の行動を理解した。通りがかりの見ず知らずの男の家に、行ってもいいのだろうか?そう思った。だが、身体は言う事をきかず、もう自分で歩くことも出来ない。それに、男に支えられているとなんとなく安心できるのだ。初めて会った人なのに、そう思える自分がおかしい気がする。
  支える手から伝わる男の温もりを感じて、丑久保はそのまま倒れこむように意識を手放した。ビルの間を抜ける風は、また一層強くなっていった。






  辻森亜矢斗(つじもりあやと)には、気になる男がいた。
  辻森の出向している広告代理店のあるオフィスビル、そこの8階に入っているオオシロ企画いう会社の男だ。
  辻森がその男に出会ったのは、そのオフィスビルのエントランスだった。一ヶ月の期限で出向してきて10日後、11月下旬のこと。
  辻森のオフィスは横浜にあり、辻森の住むマンションは逗子にあった。そこから出向先へ通えなくもないのだが、近いほうがいいだろうと会社が用意してくれたウイークリーマンションは、そのオフィスビルから歩いて15分ほどの場所にある。
  その日は何故かいつもより30分ほど早く目が覚め、一人の部屋でやることもないのでそのまま出社したのだ。途中のコンビニで朝食を買い、まだ通い慣れていない通勤路を初めてゆっくり観察しながら歩いた。そうして、歩いて15分の道のりをたっぷり30分ほどかけてオフィスビルに着いたとき、彼に出会ったのだ。
  その時、辻森は全身に電流が走るのを感じた。何年か前に、元アイドルの歌手が言った「ビビビッ」を、辻森は身をもって体験したと言ってもよかった。
  チノパンに淡いグリーンのシャツ、清潔感のあるカジュアルな服装に身を包んだその男は、エントランスにいる誰よりも一目を引いた。というよりも、辻森の目には彼だけが際立って見えていたのだ。服装の所為か、またはどこどなく幼さの残る顔の所為か、まだ大学生といっても通用するような感じだ。ただ、大きいのに少しばかり切れ上がった目の鋭さが、その幼さを打ち消しているようだ。
  このビルには広告関係の会社が多く、営業や管理職を除くとほとんどの者がラフな服装で出勤している。辻森も普段はジーンズにシャツという、大学時代とまったく変わらない出で立ちで会社に行っていたが、さすがにここは出向している他の会社、仕方なくあまり着慣れていないスーツで通っている。
  彼から視線をはずすことが出来ないまま、同じエレベータに乗り込んだ。彼は8階のボタンを押してエレベータの一番奥に立った。辻森はその隣にさりげなく立つ。辻森より、頭一つ分ほど背が低かった。込み合うエレベータの中、辻森の腕が彼の肩に触れた。その時、辻森は自分がこの隣にいる男に一目惚れをしたこと確信した。相手も自分も男だと言うことは、辻森にはまったく気にならなかった。その時はただ、高鳴る心臓の音を聞かれやしないかと、そればかりが気になっていた。
  顔が好みだとかそういうことで惚れたのではない。彼の持つ全体的な雰囲気に、辻森は魅せられたのだ。今まで経験した恋愛とはまるで違う。それは何かとても切ないそんな感じがした。 それから辻森は、少し早い時間に出勤するようになった。彼に会うために。

  辻森が勤めているのは、業界で上位に位置する大手広告代理店だ。入社して3年目。
  今、辻森が進めているのは、箱根の老舗温泉旅館の若年層向けのポスター作成だった。このポスター企画の担当は、辻森のほかのもう二人いた。二人とも辻森よりも7年先輩で、企画制作の現場では、中心的存在だ。その二人から、辻森は、今回一人で若年層向けのポスター作成を任されたのだ。もちろん、温泉旅館のターゲットは中高年層にあたるので、そちらの方はベテランの二人が担当している。
  夏の終わり頃までは、確かにすべてが順調に進んでいた。ところが、発注していた下請けの広告代理店が、この企画の意図をきちんと理解していなかったのだ。その微妙なズレは出来上がったポスターにはっきりと現れ、クライアントも企画をした辻森自身も納得のいかないものが出来上がってきた。それが9月下旬。
  完全に辻森のミスだった。
  ポスターは来年春に向けてのものなので、幸いなことに納期までに猶予があった。辻森は課長命令で、下請け先に一ヶ月の出向を言い渡された。さすがにもうミスは許されないという状況だからだ。
  自分のミスなので仕方が無いが、あまり気乗りしない出向先で、彼に出会ったのは辻森にとってラッキーだったかも知れない。出向先のオフィスビルに行くのに、楽しみが出来たから。
  ただ、一ヶ月の期限での出向である。毎日、エレベータの中で想い人と肩を並べながら、辻森はかなり焦っていた。こうして毎朝一緒にいながら、まだ一度も話したこともないのだ。時々、一緒に乗った彼の会社の同僚との会話から、彼の名前が「ウシクボ」というのはわかった。でも本当にそれだけで、辻森の切ない思いは日に日に増していくばかりだった。彼にとって辻森は、たまたまエレベータで一緒になる途中の会社の人としか認識されていないだろう。

  12月に入り、年末に向けて各会社とも少しせわしなくなってきた。辻森の出向も来週の水曜日までになっていた。そんな時、辻森はエレベータの中で、今夜、彼が同僚の送別会だということを聞いた。ラッキーなことに、時間も場所もその場で話題に上がった。
  辻森は、今日、その店に行こうと、その時心に決めていた。
  聞いた時間より少し遅れて、辻森はその小料理屋の暖簾をくぐった。
  送別会は奥の座敷で行われているらしく、賑やかな声が聞こえてくる。
  金曜日だからだろう、店の中はけっこう混んでいた。出迎えた女将に一人だと告げると、入り口に近いカウンター席に案内された。そこからは店全体が見渡せた。中々落ち着いた雰囲気のいい感じの店である。今日は奥で宴会が行われているので少し賑やかだが、普段はおそらく静かな雰囲気の中で飲める店だと思われた。
  ビールと女将おすすめの煮物を注文して、辻森は奥から聞こえる宴会の様子に耳を傾ける。
  そうして、40分ほどが過ぎた時、辻森の耳に「ウシクボ」という声が聞こえてきた。全神経を集中させ、奥の様子をうかがう。しばらくして「失礼します!!」というかなり大きな彼の声が聞こえた。そして、すぐに彼が荷物を持って奥から姿を現した。
  顔はかなり不機嫌な様子だった。それでも女将に一言声を掛けて、一人店を出て行った。

(なにがあったんだ?)

  辻森はすぐに追いかけようと、女将に「お勘定」と言って席を立った。慌てて店を出たが、支払いに少し手間取っている間に、彼の姿は見えなくなっていた。
  行き先は多分駅だろうと、辻森は地下鉄の駅に向かう。明日が休日と言うこともあって、オフィス街近くの飲み屋が建ち並ぶこの通りには、けっこう人通りがあった。それを掻き分けて、辻森は彼を探して走った。
  そして、駅近くの公園の前を通った時、ベンチにキャメル色のなにかが横たわっているのが目に入った。すぐに彼だとわかった。今日、彼はキャメルのブレザーを着ていたのだ。
  息を整え、ゆっくりとベンチに近付く。彼は涙を流して、空を見つめていた。
  辻森は息を飲んだ。自分の好きな相手が泣いている姿が、とても美しかったから。でも、それは一瞬のことで、すぐにベンチの傍に立ち、覗き込むようにして声を掛けた。

「あの……大丈夫ですか?」






  辻森のベッドに彼が寝ていた。
  半ば強引に部屋へ連れてきてしまった。 あのまま公園のベンチに寝かせておくことなんてもちろん出来ないし、このまま彼を帰してしまったら、この先何の接点も無い二人が再会する可能性は低い。そんな考えが過ぎったのも事実だ。
  部屋まで運ぶと、彼は意識を取り戻した。 話を聞くと、どうやら酒に弱いのに、上司に無理に飲まされああいう状況になったらしい。
  とりあえず、血中のアルコール濃度を下げるため、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲ませた。 そして、少し落ち着くと彼はそのまま眠ってしまったのだ。 最初は苦しそうにしていたが、そのうち落ち着いた寝息に変わっていった。辻森はそんな彼の寝顔を見つめたまま、土曜日の朝を迎えたのだ。


  丑久保が目を開けると、見慣れない天井が目に入った
  ここは何処だろう…ゆっくりと起き上がると、頭に鈍い痛みが走った。 そういえば、店を飛び出して、公園のベンチに倒れこんだところまでは覚えている。 そのあと、そう確か、誰かに声を掛けられたのだ。どこかで見たことのある男に……。

「気分はどうですか?」

  記憶の糸を手繰り寄せていた丑久保に、不意に声がかかった。昨夜の男だろうか。
  そして、丑久保は思い出した。声を掛けてきた男は、見ず知らずの自分を部屋まで運んで介抱してくれたのだ。

「あの…ありがとうございました」

  丑久保は頭を下げた。その時、自分がベッドに入ったままだったことに気付いた。 そして、ワンルームのこの部屋にはベッドが一つしかないことにも気付く。

「あっあの!すみません!!俺、ベッドを占領してしまったみたいで…」

  そう言うと、男はニカッと笑って「気にしてしないでください。」と言った。<
  それでも恐縮して丑久保がベッドから出ようとした。すると。

「まだ寝ていてください。二日酔いになってるんじゃありませんか」

  彼にそう言われて、丑久保はベッドから出れなくなった。実際に、二日酔いで頭痛がしている。 この状態では、家に帰るのは少し無理なような気がした。 だから、丑久保は彼の言葉に素直に甘えることにした。
  男は、キッチンからマグカップに入ったホットミルクを運んできた。

「飲めたら飲んでください」
「ありがとうございます」

  丑久保はカップを受け取ると、程よく暖められたミルクを飲む。 昨夜、食べたのもを全て吐いてしまった所為でかなり空腹だった。 ミルクがとても美味しく感じられた。
  ミルクを飲みながら、丑久保は男にもう一度お礼を言った。

「本当に気にしないでください。それにまるっきり知らない人ってわけでもないですから」
「え!?」

  丑久保が驚くと、男は少し傷ついたような顔をした。しかし、すぐに笑みを浮かべて言った。

「あ…やっぱりわかりませんか?会社のエレベータでよく一緒になるんですけど」
「…………あ!」

  男に言われて、丑久保は気付いた。そう、確かにどこかで見たことある訳だ。 いつも途中の階で降りて行く人だったのだ。
  丑久保が憧れている広告代理店に勤める人。 背も高く羨ましいくらいに整った顔をした、センスのいいスーツに身を包んだ男。 丑久保はいつからか、エレベータの中で彼を意識するようになっていた。 肩を並べて立っている時にはそ知らぬ振りをして、彼が丑久保に背を向けてエレベータを降りて行くときだけ丑久保は熱いまなざしを向けていた。 エレベータの扉が閉まるその瞬間まで……。 なのに、何で気付かなかったんだろう。
  昨日、公園ではそんなことを思い出している余裕が無かったから。 そして今は、トレーナーにジーンズとというラフなスタイルに、いつもはキッチリ撫で付けられている髪が下ろされ、雰囲気がまったく違うからだろうか。


  そしてやっと二人はお互いの名前を知ることが出来た。 名前だけではなく、色々なことを二人は話した。 辻森は丑久保が自分よりも2つ年上だと聞いて驚き、丑久保は辻森が業界のトップを争う広告代理店の社員だと聞いて憧れの気持ちをもっと強くしていた。 二人は時間を忘れて、窓の外でネオンが灯るまでずっと二人ですごした。
  暗くなった窓の外を見て、丑久保はいつまでもここにいるわけにも行かない、そう思った。 帰りたくない気持ちを押し留めて「帰ります。」と言う丑久保に、辻森も頷いた。
  玄関で見送る辻森に、丑久保はまたお礼を言った。 そして「後日改めて、お礼をさせてください」と言った。
  その言葉に辻森は返事もせず、丑久保を見つめた。 黙って見つめられているのに耐えられなくなった 丑久保が、どうしたのかと口を開こうとした時、辻森はいきなり丑久保を抱きしめた。<
  突然のことに驚く丑久保の耳元で、辻森は呟いた。

「お礼なら、今すぐここでください。……あなたを俺にください」

  丑久保は頭の中が真っ白になった。コノヒトハナニヲイッテイルンダロウ………。
  思考が停止したように、なにも考えられなくなった。 でも、何故か丑久保は頷いていた。 息が止まるほどきつく抱きしめていた辻森の腕が解かれる。 そして、二人はキスをした。 口付けは唇がふれるだけの軽いものから、徐々に深くなって行く。
  丑久保はその日も、辻森の部屋に泊まることになった。 昨夜丑久保が一人で寝たベッドで、今夜は二人……。






  辻森が出向期間を終えるまでの3日間、丑久保は辻森の部屋から会社へ通った。 丑久保がそこを離れがたかったのと、辻森がいて欲しいと言ったからだった。
  日曜日に、丑久保の会社用のシャツと着替えを買った。 そして、そのまま二人は会社にいる時以外はずっと二人ですごした。
  お互いに何も語らず、ただ身体を重ねるだけの時間。

  丑久保は辻森がなぜ自分を抱くのかわからなかった。 最初の時、「お礼なら…」と言った辻森の言葉が頭から離れない。 辻森が自分を抱くのは、恋愛感情からではないだろう。 そう丑久保は思っていた。
  辻森は丑久保が自分に抱かれるのは、あの夜、辻森に迷惑を掛けたからだと思っていた。 丑久保が「お礼を…」と言ったのを逆手にとって、あの日辻森は丑久保を抱いた。 一方通行の想いを持ったまま抱いたら、後で辛くなると頭でわかってはいた。 だが、どうしてもこのまま出向を終え、ここを去るのがイヤだったのだ。

  二人の想いは交わることもなく、3日間はあっという間に過ぎた。
  水曜日、丑久保はエレベータで辻森と別れた。 たまたまエレベータに乗っていたのは、二人の他は4階の会社の社員だった。 二人きりになったエレベータの中で、二人は6階までの短い時間、名残を惜しむように口付けを交わした。
  チンと音がして、エレベータが6回に到着したことを告げる。 自然と二人は離れ、辻森はエレベータのドアの向こうに消えていった。
  その日、丑久保は久しぶりに自分の部屋へ帰った。
  辻森のいたウィークリーマンションより広い1LDKの賃貸マンション。 いつもはそんなこと思わないのに、今日はこの部屋がものすごく広く、寂しく感じた。 そしてそこはとても寒かった。






  辻森は、会社で何度目かの溜息をついた。
  出向期間を終え、1日おいた金曜から横浜の会社に戻っていた。 だが、いつもの元気のある辻森はとは別人のように静かで、しかもデスクに座ったまま溜息ばかりついている。
  それこそ、同僚たちがあきれるくらい、心ここにあらずという感じだった。
  出向先で製作したポスターは、辻森が直接製作にかかわったこともあり、完璧といえる出来だった。 チームリーダーと課長に出向の報告をして、1ヶ月留守にした自分のデスクに座ると、辻森はパソコンの電源を入れた。 だが、何をするわけでもなくただ見つめるだけ。 そして、ディスプレイはすぐにハムスターが走り回るスクリーンセーバーに変わってしまった。
  納得のいく仕事も出来、慣れた会社に戻れて嬉しいはずなのに、心が曇っている。

「どうした辻森ー。向こうで好きなヤツでもできたのか?」

  同僚が心配してか、少しからかうように辻森に言った。その言葉が辻森の胸に刺さる。
  そうなのだ。とても好きな人がいた。 どうして好きなのか理由なんてわからなかったが、それでもいつもそばにいて欲しいと思える人がいた。 なのに、自分は何も言わずに彼から離れてきた。
  ……そう、何も言ってないことに辻森は気付いた。

(言わなかったら伝わらない!)

  玉砕覚悟で気持ちを伝えるべきだったのだ。そう気付いたら、いても立ってもいられなかった。 幸い、急ぎの仕事は入ってない。 というより、出向していた辻森には、今担当してる企画自体ないのだ。 課長には週明けからまた新たなチームを組んで、TVCMの企画に入ると言われていた。
  定時になるのがこれほど待ち遠しかったことはない。
  時計の針が5時を指すのと同時に、「失礼します!」と言って辻森は企画制作部を、文字通り飛び出して行った。
  さっき辻森をからかった同僚の「あれ〜?本当だったのか!?」と言う声が部屋の中に響いたが、辻森にその声は届かなかった。






  辻森がいなくなって、丑久保の心は風邪を引きそうなくらい寒かった。
  辻森と過ごした5日間、丑久保はとても幸せだった。 だが、水曜日の夜からは、幸せの絶頂から不幸のどん底へ落とされた、そんな想いでいっぱいだった。たった5日間一緒にいた相手。 会えなくなって2日しか経ってないのに、心が身体が彼に会いたいと訴えている。
  オフィスで一人残業をしながら、丑久保は最後のキスを思い出し指先で自分の唇をなぞった。

「会いたい…」

  声に出すと、その気持ちはいっそう強くなる。
  これから、辻森の会社まで行ってみようか。 そう思ったが、時刻はすでに9時を回っていた。 いくらなんでもこれから横浜に行っても、もう辻森が会社にいるとは思えない。 いくら時間の感覚が普通の企業と違う業界とはいえ、出向から帰ったばかりの社員に残業をさせるようなことはしないだろう。
  この、仕事さえ突然入らなかったら、きっと丑久保は定時で会社を飛び出して、横浜に向かっていただろう。
  明日開催されるイベント用の看板にミスがあり、明日の朝までに直しておかなければならなかった。 担当は丑久保ではないのだが、実際の担当者が来週まで名古屋の本社に出張なのだ。 そこで丑久保にその作業が回ってきたのだ。
  朝までかかると思えた訂正作業もそれほど時間もかからず終わりそうで、つい丑久保は辻森のことを考えてしまっていた。 でも、いつまでも会社にいるわけにも行かない。 最後の部分の訂正を手早くやってしまうと、丑久保は入り口近くの壁に看板を立てかけた。 ここなら、朝イチで取りに来る、会場設営の者にもわかるだろう。

  丑久保がオフィスビルのエントランスに下りてきたのは、10時を回った頃だった。 このビルに入っている会社はどこも時間が不規則で、フロアに誰もいなくなることがない。 だからエントランスは出入り自由のままだ。 だが、午後9時から午前8時までは、エントランスに警備員が立ち、出入りする者のチェックを行っていた。
  丑久保は警備員に社員証を提示し、軽く頭を下げてビルを出た。
  外は寒かった。丑久保の心の中くらい寒かった。 身体を縮めて、地下鉄へ向かおうとした丑久保は、ふと誰かの視線を感じて振り向いた。自分の目を疑った。
  ビルの前の大きなケヤキの下に、この2日間、ずっと会いたいと思っていた辻森がいたのだ。
  駆け寄りたいのに、丑久保の身体は動けない。 もしかしたら、会いたいと願う自分の想いが見せた幻かもしれない。 そう思うと消えてしまうのが怖くて動けなかったのだ。
  辻森はゆっくりと丑久保に向かって歩いてくる。 そして、立ち尽くす丑久保を抱きしめた。抱きしめられて、丑久保はそれが幻でないとわかった。

「あ…会いたかった」
「俺も…。どうしても言わなくちゃならないことを思い出して、会社を飛び出して来た」

 少し身体を離し、お互いに至近距離で見詰め合う。

「丑久保さん。あなたが好きです。……俺と、付き合ってくれませんか」

  辻森の言葉に、丑久保はすぐに頷いた。
  迷うはずなんてない。だって丑久保は、辻森を憧れの眼差しで見つめていた時から、きっと辻森を好きだったのだから。
  これは不器用な二人の、恋人として本当の出発点だ。 これからたくさん、自分の思いを言葉にして相手に伝えていけばいい。そこから幸せが生まれるはずだから……。

< 終わり >







2001.11.28 / 12.02 UP





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