歴史小説のタブーと快楽

〜塩見鮮一郎の時代小説から賤民史を読み解く〜

第一章 浅草弾左衛門  最後の弾左衛門 

 

『浅草弾左衛門』は教養小説か 

さて、それではいよいよ、小説『浅草弾左衛門』をひもといてみよう。

この小説は、先にも述べたように、一応は教養小説[1]のスタイルで書かれていると言える。江戸三大飢饉のひとつ、天保の飢饉があった時代、摂津国住吉村から江戸へ出て、最後の弾左衛門となった寺田小太郎の一生を物語の軸にしているからだ。

小説は全三巻[2]、12章。文政6年(1823年)生まれの小太郎が、天保10年(1839年)に江戸に出府して50年、明治22年(1889年)に亡くなるまでを描く。

全体を眺めれば、以下のようになる。

テキスト ボックス:

天保青春篇

その一 小太郎出府の巻

その二 車善七反攻の巻

その三 改革津波の巻

 その四 鼻緒騒動の巻

幕末躍動篇 

その一 世相転形の巻

その二 天変地異の巻

その三 日暮れ前の巻

     その四 身分引上の巻

明治苦闘篇 

その一 御一新の巻

     その二 賤称廃止の巻

     その三 西洋靴事始の巻

その四 直樹退場の巻

小説『浅草弾左衛門 第1部〜3部』
       批評社刊(後小学館文庫 全6巻)

 

小太郎は、住吉村(現神戸市東灘区)の貧しい穢多身分の子だった[3]

賢い少年だったようだが、彼がどのようにして、第十二代集司の養子として江戸に呼ばれ、第十三代弾左衛門となったかは、「その一 小太郎出府の巻」に詳しく書かれている。

そもそもは、直系尊属だった弾左衛門家だが、十代目で途絶えてからは、安芸、信濃、そして小太郎の摂津と、江戸からなるべく遠い地を選んで養子縁組したようだ。

その理由については、弾左衛門の支配の及ぶ地域が、おおむね江戸を中心にした関八州(今のほぼ関東地方全域と重なる)だったため、その外の地からトップを選ぶことで、実務的に弾左衛門を支える手代や組頭同士の内紛を避けたのだと、説明されているようだ。

どこかの政党の派閥のように、自分たちの親分が首領になれば、利益誘導が容易になるとでも思ったのか。それを避けるために、江戸より遠隔地の出身で、利害関係の薄い人物を呼び寄せトップに据えた。実に賢明な処置ではないか。現代の政治家たちに、耳をかっぽじって聞いてもらいたい話だ。

 

小太郎の幼少時代に関する資料はほとんどないだろうから、塩見鮮一郎は小説家の想像力を存分に駆使して、六甲と瀬戸内に挟まれた土地で育った少年を、家族や初恋の少女との絡みで生き生きと描いてみせている。

印象的なのは、ちょうど小太郎思春期の頃、天保の飢饉に触発されて起こった大塩平八郎の乱を、小太郎に強く印象付けた出来事として描いていることだ。このとき小太郎は、まだ十代の少年。しかし、物語の時計を一気に進めた維新後の明治4年、かつての小太郎こと弾左衛門が願い続けてやまなかった賤称廃止の解放令が出た。後に詳しく述べるつもりだが、これに込めた彼のヒューマニズムは、十代の少年のとき萌芽したのではないか。そんなふうに思えてならない。

余談になるが、小太郎の住吉村と、住吉川を挟んで対岸に魚崎という土地がある。今は埋め立てが進み海までの距離はかなりあるが、かつての住吉村や魚崎村は、瀬戸内の穏やかな波が砂浜を洗う土地だった。「うおざき」という地名に、かろうじてその記憶が刻まれている。[4]

塩見氏はこの魚崎にかつて親戚がいた。高校生の頃何度か訪ねてきたことを、後に小説を書くため訪れたとき、感慨深く思い出しながら歩いている。[5]

実は筆者も、かつて姉が魚崎に住んでいたことがあった。阪神淡路大震災の犠牲者の一人となってしまったが、震災以前、二度ほど魚崎に会いに行った。阪神電鉄の魚崎駅近く、バラックのようなマーケットが活況を呈していたり、木造の旧い住宅が建ち並んでいたことを懐かしく思い出す。

そんなこともあり、住吉川の河原を姉といっしょに散歩した記憶をたどりながら、塩見鮮一郎が描く小太郎の青春時代を読むことができた。海と山と川と街が、コンパクトな空間に凝縮された、関東にはあまりない風景。姉と共に関西で育ち、成人後すぐにひとり上京した筆者は、この土地から、箱根を越えて大江戸浅草に向かった小太郎の気持ちが、少しは分かる気がした。

 

さて、この小説が、小太郎→弾左衛門の成長の物語であって、その意味ではゲーテに始まる西洋近代の教養小説の範疇であるといえなくもないと、先に書いた。

若き小太郎の性の目覚めや、身分外の少女との恋も描かれる。幕末の激動の世を、弾左衛門という奇異な職制のトップを生き抜く彼の孤独と苦悩。明治の開化にともない、自己否定に等しい弾左衛門制度消滅となった、賤称廃止の解放令と、それにともなう彼の悲哀。そして明治22年、小太郎としてでも弾左衛門としてでもなく、弾直樹(維新後改名)というひとりの老人として、ひそかにその波乱の生涯を閉じる。

これだけなら、弾左衛門という特異なモチーフはともかく、スタンダードな教養小説にちがいない。

だが作者は、物語の最初から最後まで、小太郎と同郷の幼なじみ、余(あまり)という架空の人物を登場させている。やがて、弾左衛門となるべく郷関を旅立った小太郎を、追いかけるようにして江戸に出てくる無頼漢だ。弾左衛門と、もうひとつの物語の軸になる人物である。

余は、江戸で非人に身をやつし、弾左衛門が余と知らずに放った非人狩りの浪人に片腕を切られてしまう。非人という最底辺の身分になった上、利き腕が金属の鍵という障害者でもある余は、それでも、その身ひとつで自由と無頼の生を荒々しく生き抜いていく。作者の想像力が生みだした、大変魅力的な人物だ。

弾左衛門と余の生は、両者が江戸に出て以降、微妙な距離を保ちつつ重なるようで重ならない。これもまた物語の妙である。二人の全く異なる生は、最後の最後まで、ふたつの捻れたらせん階段のように延々と描かれる。弾左衛門は、余が終生手放さなかった自由と無頼の引き換えに、差別を受けながらも、幕府から莫大な権益を保障される穢多頭という身分を得ることが出来たのだ。余が自由な無頼漢としてふるまえばふるまうほど、弾左衛門という職制の重苦しさが際立つという仕掛けになっている。

このコントラストは見事としか言いようがない。史実や資料に縛られながらも、想像力と創造力を駆使できる、まさに歴史小説の快楽だ。

また、余だけでなく、この小説にはたくさんの賤民たちが登場し、物語の舞台を闊歩する。

弾左衛門配下の穢多身分の者たち。その支配を受ける非人。辻々で芸を披露し日銭を稼ぐ乞胸。そして猿飼という、一応は現代の猿廻しにつながる芸人たち[6]

だからこの小説は、単なる教養小説の枠組みを超えて、弾左衛門・余を筆頭に繰り広げられる、幕末維新期の様々な賤民たちの織りなす、壮大なスケールの群像劇でもあるのだ。幕末維新期の小説は数多あるが、賤民とされる身分の者たちの視点だけで描ききった小説は、かつてもなかったし、今もないだろう。

 

ところで、余と同じく、全編を通して登場する架空の人物がもう一人いる。「サル」という名の、忍び、忍者のようにすばしこい小男だ。箱根で手代たちと一緒に小太郎を迎えてから、終生、小太郎・弾左衛門を、影で守り抜く忠実な僕となる。

長い長い物語は、明治22年、主人公の弾左衛門が没した後も終らなかった。サルと余が、弾左衛門の四十九日に偶然出会う場面が、最後に付け加えられたのだ。小説は、史実を大きく越えて、作者の想像力の中で幕を閉じる。これもまた、歴史小説の快楽に違いない。

このサルと余のラストシーンがとてもよい。やはりこれは、教養小説ではないのだ。一人の人物の成長物語なら、この場面の前に書かれた、弾左衛門最期のシーンで終わるのがセオリーだろう。

ただ、この弾左衛門の没する場面もまた、非常に印象的だ。哲学的と言っていい。死にゆく老人の深い孤独と悲哀を、突き放し、最後まで乾いた文体で、情緒に訴えることなく描き切っている。

 

 つぎに目覚めたとき、まわりに光が満ちていた。

 蚊帳はたたまれ、朝の冷気が流れた。

 おさと[7]も身づくろいをしたのか、白粉のにおいがした。

 だが、瞼が重く、薄く開けて光を吸い込むと、それはすぐに閉じられた。

 記憶にはないが、この世に誕生してくるとき母の産道を必死に抜けた。住吉村のあの部屋で、母のせん[8]も苦しみ、彼ももがいた。そしていま、この世を出て行くために、最後の難行が待っていた。

 どこへ行くのかはわからないが、行かねばならない。ぼろぼろに朽ちた肉体でこの世に居つづけるわけにはいかない。

 おさとや謙之助、弁三郎に弟利左衛門の彼を呼ぶ声が、耳底にまで達していた。

 しかし、彼直樹はもはやそれにはこたえなかった。

 たったひとりでやりとげねばならない最後の苦行にとりかかっていた。

 それを成就したのは、明治二十二年【一八八九年】七月九日午前九時であった。

 

人は結局、それがどんな人生であろうと、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。

他の動物や生物と違い、人という存在の本質は、「単独者」であることだ。それが、生の始まりと終わりに、ひときわ際立つ。だがそれは、長い人生に比べるとほんの一瞬だ。普段は、人と交わり、人にまみれて、単独者であることを忘れがちになる。

弾左衛門という不可思議な人生を送った男は、終生、この単独者としての孤独を抱き続けてきたのだ。それが、この人生最後のシーンで象徴的に描かれている。

もしかすると、江戸という封建制の世において、制度や関係性に最も束縛された人生を余儀なくされた弾左衛門に、逆説的な「個」の目覚めを感じ取っているところは、塩見鮮一郎ならではの解釈なのかもしれない。塩見鮮一郎もまた、作家として、弾左衛門と同じ「個=単独者」としての歩みを余儀なくされたのだから。

さて、この長い長い物語のラストシーンは、主人公であり歴史上の人物でもある弾左衛門ではなく、作者の想像力が生みだした無頼漢余と、忍びのような小男サルが演じる。しかも、主人公が死んだ後の後日談としてではなく、ある意味、主人公の死の意味を、読者に問いかけるような場面として描かれるのだ。弾左衛門が死んでも、物語は終わることなく続く。作者はそう訴えかけている。

 

最後の場面は、弾左衛門の四十九日の日、上野公園で二人がばったり出逢うところから始まる。

日付は明治22年8月26日。西暦で言うと1890年。上野公園では、おりしも東京開府三百年祭が開かれていた。家康が1590年に江戸に入ったとき、初代の弾左衛門が家康を出迎え、穢多頭に任命された。それから三百年。十三代続いた最後の弾左衛門も死んだ。弾左衛門という制度も、穢多という身分も消滅した。上野公園内はお祭りムード一色だが、余やサルの心は、公園の群集とは別のところを虚しく浮遊している。

かつて、余もサルも、そして弾左衛門も若かった頃、余の右腕が斬られてしまった事件に、サルも関係していた。弾左衛門が、知らずとはいえ放った浪人が、余の腕を切り落とした。サルもその現場に居合わせていた。以後、余はずっとサルを探していた。浪人に復讐するための手がかりを、サルが知っていると考えたからだ。

だが、そんなことは、もはやどうでもよくなるほど、世は移り変わり、歳月も流れた。余もサルも、解放令により賤民ではなくなった。今は、誰でも名字を名乗れる時代だ。そしてつい先ごろ、明治憲法(大日本帝国憲法)は発布された。来年から施行されるという。

もはや老いた余とサルは、杖をつき足を引きずりながら、上野公園から根岸の余の自宅に向かう。悪漢と忍びの面影は、すっかり失せている。余の家では、かつて余と組んでアウトローの限りを尽くした女、お願が、老いた身体でサルを迎えた。

 

 陸蒸気の線路を渡る。

 ときおり風に乗って、海軍楽隊の奏する音楽が聞こえた。

 畑にも屋根瓦にも夏の強い日がはねていた。葉鶏頭が赤かった。ものうい気分が漂い、蝉の声まで眠気を誘った。

 竹藪のそばの笹乃雪という豆腐料理の店をすぎた。

 その裏手の畑のなかに、生垣に囲まれた一軒家がある。余とお願の隠居処であった。

「お願。お客はんを連れてきた」

 杖を玄関に放っていった。

 「あれ、お帰りが早いと思ったら、お客さまかえ。ほんにめずらしいこと。どうぞ、どうぞ、おあがりになってくだされ」

  式台に出てきたお願は、昼寝をしていたのだろう、畳の痕が左頬に赤くついている。

 「さ、遠慮はいらん。はよ、あがれ」

  余もサルにいった。

「それで、どないでした。権現さまの憲法は」

 お願は聞いた。二月十一日の建国記念日には、絹布と法被を政府がくださると早とちりした。こんどは、祭りさわぎがその二月のおりと似ているので、徳川の憲法が発布されたと思っている。

「まあな、どんな憲法やろうと、わいらにゃ関係あらへん」

 庭に面した六畳間に、サルを案内した。

 板縁の近くにすわり、庭と、そのむこうの畑や寺の杜を眺めた。

 

ちなみに、自分でも小説を書いている身としては、お願の「畳の痕が左頬に」などという箇所に、猛烈な嫉妬を覚える。長い小説を読んでここまでたどり着くと分かることだが、若き日に余のパートナーとなったお願は、おきゃんな江戸のアネゴだ。余と同じ無頼漢でもある。そのお願が、もはや老いたこと、かつてのアネゴが、それでも若い頃から持っていた可愛らしさを失っていないこと、そういったもろもろが、説明することなく、短い一文の描写でさらりと表現されている。書き手としては、自分もこういう一文をひとつでも書き残したいものだ。

 

さて余は、この最後のシーンで、「どんな憲法やろうと、わいらにゃ関係あらへん」と言い放った。老いてもなお、無頼な余らしいセリフだ。そして、この「わいらにゃ関係あらへん」に込めた意味は、深くて重い。

弾左衛門が死んだ明治22年の頃は、明治憲法が出来、近代国家としての枠組みがようやく整った時期である。憲法は、この国が、世界の中で新興の帝国としてのし上がっていくための、ノロシのようなものだ。近代国家としての態をなすために必要な、全国共通の書き言葉を持つ近代文学[9]も、憲法の兄弟分として同時期に誕生している。

だがしかし、余やサルやお願のような江戸の賤民だった者たちにとって、それが何だというのだ。もし関係あるとすれば、その意味するところは、幕府の仕置き手伝いをさせられることで税を免除されたり、辻辻で芸をして日銭を稼ぐ許可をもらったり、灯心や皮革の専売をゆるされたりする特権を、根こそぎ剥ぎ取られるということに他ならない。

代わりに、ひとしなみに税を取られ、子どもが成長すれば学校に取られ、一人前の男になれば兵役に取られる。もし生活の手段を得ることが出来なければ、国家の救済を受ける術もなく、都市の貧民としてスラムの住民となり、貧困と困窮にあえがなければならない。[10]

つまるところ、余の「わいらにゃ関係あらへん」という言葉は、近代国家として歩みを始めた明治大日本帝国が、昭和の8・15の破滅へと向かうその未来に対して、作者が余に託して投げかけた言葉なのではないか。

最後の弾左衛門も死に、江戸は遠く過去へと葬られた。徳川の代わりに政権を握った新政府は、「わいら」こと、かつての賤民に対して、これから、どのようなふるまいを見せるだろうか。

そう、それは結局、8・15に続き、3・11でも見せた同じ態度を、明治以来繰り返しているに過ぎないのだ。あったことが、なかったことになり、存在したものが、あたかも存在しなかったかのようにふるまわれる。余の「関係あらへん」は、そのことに対して、投げかけられた言葉に違いない。

そして、文学の世界で、ほとんど塩見鮮一郎ただひとりが、「なかったもの」とされた賤民たちを掘り起こし、それらに光を当て続けている。「差別=被差別」は関係性である。その関係性を隠蔽し、差別する行為だけは温存するという最も卑劣で巧妙な行為。余の言葉は、日本人の多くが示し、容認もしてきたこの関係性の隠蔽を、逆の立場から暴いているのだ。

 

歴代弾左衛門
 

   名

在職期間

1代

集房(ちかふさ)

1590(天正18)〜1617(元和3)年

※1

 

集開(しゅうかい)

 

※1

2代

集季(ちかすえ)

1617(元和3)〜1640(寛永17)年

 

3代

集信 集春

(ちかのぶ)(ちかはる)

1640(寛永17)〜1669(寛文9)年

 

4代

集久(ちかひさ)

1669(寛文9)〜1709(宝永6)年

 

5代

吉次郎(きちじろう)

1709(宝永6)年

※2

6代

集村(ちかむら)

1709(宝永6)〜1748(延享5)年

 

7代

集囿(ちかその)

1748(延享5)〜1775(安永4)年

 

8代

集益(ちかます)

1775(安永4)〜1790(寛政2)年

 

9代

集林(ちかしげ)

1793(寛政5)〜1804(文化1)年

 

10代

集和(ちかまさ)

1804(文化1)〜1821(文政4)年

 

11代

集民(ちかたみ)

1822(文政5)〜1828(文政11)年

 

12代

集司(ちかもり)

1829(文政12)〜1838(天保9)年

 

13代

集保(ちかやす)

1840(天保11)〜1871(明治4)年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


※1 集房と集開は同一人物。
 
※2 吉次郎は「お目見え」前に死去した。従来、歴代弾左衛門に数えられていなかった。
浦本誉至史『江戸・東京の被差別部落の歴史』(明石書店)より

 

 弾左衛門とは何ものか

   

それでは、そもそも弾左衛門とは何ものなのか、詳しく見てみよう。

弾左衛門は、江戸時代を通じて、徳川将軍家が賤民支配をシステム化したいわば「弾左衛門制度」ともいうべき職制のトップの名前だ。家康の時代から最後の将軍慶喜まで、数えて十三代の弾左衛門が存在した。最後の弾左衛門が、維新後弾直樹と名乗ったため、弾は姓を表しているように思うむきもあるが、本来は《弾左衛門》でひとつの職掌を言い表している。

以下の十三代が、歴代の弾左衛門になる。[11]

小説のタイトルでは《浅草》が付いているが、それは弾左衛門が代々将軍家に命じられ、浅草新町(しんちょう)という囲い内の中に住んだことから来ている。[12]

先にも述べたが、十三代とはいえ、血縁で初代集房とつながっていたのは、十代集和までだった。十一代集民(安芸)、十二代集司(信濃)、そして我等が小説の主人公、十三代集保(摂津)は、先代の養子として跡目を継いでいる。その候補になる少年は、弾左衛門家の手代によって全国各地から捜し出され、江戸に連れて来られた。弾左衛門制度が、弾左衛門家にとっても、江戸の長吏組織や幕府にとっても、いかに重要なシステムだったかがわかる。弾左衛門家と弾左衛門制度は、途絶える訳にはいかないのだ。

それでは弾左衛門は、江戸でどのような役割を果たしていたのか。

以下は、十三代集保が、維新直後、新政府に提出した資料にもとづいた、弾左衛門の主な仕事のリストである。[13]

 

1  お仕置き御用。

2  時の太鼓、陣太鼓、西洋太鼓の革張替。

3  伴綱の御用。

  灯心御用。

5  ご法事手伝。

6  両町奉行所への人足差出と溜の御用。

7  両町奉行所や牢屋敷火災のおりの消火。

8  御用のお馬の倒れたとき、出役の者で埋葬。

9  長吏以下のお仕置。

10 ご府内の無宿取締り。

11 お尋ね者などの探索。

12 海陸軍つき病院御用。

13 犬追物御用。

14 堀や川筋の不浄物片づけ。

 

 例外的なものは、12の「海陸軍つき病院御用」で、これは幕府の奥御医師である松本良順との関係から、幕末にのみ生じた仕事である。14の「不浄物片づけ」は、本来非人の仕事で、非人が支配下にあるということを、暗に訴えているのかもしれない。[14]

そうすると、残りの12種類が弾左衛門の本来の役割となる訳だが、これらはおおむね、「皮革」と「下級警吏」の仕事に分けられる。

皮革 2、3、8、13

警吏 1、5、6、7、9、10、11

そして残る「灯心御用」は、この両者には該当しないが、家康時代から「御仕置御用」を務める代わりに得た特権、莫大な利益を生みだす利権だった。

ちなみに「御仕置き御用」とは、処刑、刑罰に関る仕事であり、「灯心御用」[15]とは、ろうそくや行灯などに火を灯す芯の専売権のことである。

灯心に関しては、大江戸百万人の需要を一手に占有したのだから、弾左衛門が、一万石に相当する財産を有していたと言われるのも納得できるし、被差別民は貧しいものという固定観念が、一気に揺らぐだろう。実際、「エタ金」などと言われながらも、お忍びで借りに来た町民や武士は多かったのだ。

  

穢多と長吏

 

かつて、学校の歴史教育で、「士農工商穢多非人」と、江戸の身分制度を習った人は多い。だが、今はこのような単純なピラミッド型身分制度は、正確ではないと否定されている。

分類するとすれば、武士、農民、町民、その他の賤民となるのだが、農民といえど、農業以外の生業も多く含まれるし、町民もまた様々である。僧侶や神官は先の分類には入らないし、漁業や林業、狩猟などを生業にする者もいる。

穢多非人とひとくくりにされた賤民層も、地域、時代によって、実に千差万別だった。町民がタブーを犯して非人に落とされることもあったし、武士が食い詰めて《乞胸》という芸人になり、非人頭車善七の支配を受けるなんてこともあった。

そして最近は、「穢多」「非人」という身分を表わす言葉も、「えた」「ひにん」と言い換えられている。特に、この穢多という身分を表す言葉は幕府側が使う蔑称で、江戸庶民もこれにならって蔑視の意味を込めて使った。だが、もちろん呼ばれる方は、この言葉を忌み嫌った。

ジプシーという言葉が蔑称で、本人たちは決して使わずロマやヒターノと称しているように、弾左衛門や弾左衛門配下の者たちは自らを長吏と称した。幕府側の書面に返答する際に、穢多と書いて来たのを、わざわざ長吏と言い換えたりもしている。それほどこの身分名を嫌った。

至極当然のことだ。現代のパンクバンドや暴走族なら、喜んで使う表現方法なのかもしれないが、近世江戸の時代に、「穢れ多し」とか、「人に非ず」などという身分名を、嬉々として受け入れる者はいない。

ただ、このことは、この身分の二重性をあらわしてもいる。先の項で、弾左衛門の仕事は「皮革」と「下級警吏」に分けられると書いたが、前者が穢多、後者が長吏と、一応は言うことが出来る。

 

穢多というのは、「ケガレ多き人」という意味になる。これは仏教伝来以降忌み嫌われた、殺生にともなう「死穢」に触れざるを得ない仕事を生業にしていることと関連がある。

弾左衛門は、江戸時代の関八州つまり関東地方のほぼ全域、および東北、上越、東海の一部の皮革産業の総元締めだ。当時、生皮を得るためや肉食のために、牛馬を勝手に殺生することは禁止されていた。徳川の鎖国政策のため、東南アジアからの生皮の輸入が途絶え、供給が激減したからである。もちろん、江戸期に入ると、戦争がなくなって武具としての需要もまた減っていくのだが。

国内では、中世の時代から、武士が賤民支配のシステムを徐々に構築していった。戦国大名は、戦力に直接関係するのだから、穢多身分の皮革のみならず、石工、鍛冶等の職人支配も強めていく。それらはみな、賤民たちであった。

賤民支配の関東における完成形態が、徳川幕府による弾左衛門制度ということになる。それまで武士階級と強く結びついていた穢多身分は、鎖国政策によって輸入皮革がなくなると、地方の農民との結びつきを強めていく。皮革の原材料が、農家で出た斃牛馬からしか得られないからだ。

草場[16]に捨てられた斃牛馬を、見回りの非人が見つけ、その縄張りを管轄とする穢多身分の頭に知らせる。東北の農民は自分たちで解体したようだが、ふつう農民たちは、死穢を恐れて手を出さなかった。そこで、穢多身分の者が、配下の非人を引き連れて解体作業に勤しんだ。そうして鞣された皮が、原材料として江戸などの町の問屋に運ばれるのだ。

小説『浅草弾左衛門』では、非人に落とされ片腕を失った余が、地方の非人小屋に身を寄せ、馬頭観音を目印にした草場を見回り中、捨てられた老馬を見つける場面がある。余は、急いで穢多の小屋頭に知らせる。斃牛馬が草場に捨てられるのは、通常数ヶ月に一度。農民にとっては大損失だが、穢多や非人身分にとっては、かきいれどきとなる。

そこで、河原での斃馬解体のシーンが始まる。

明治の部落問題を小説にした我々の大いなる先達島崎藤村も、長編『破戒』で、同じような解体場面を長々と詳細に描いて見せた。塩見鮮一郎も、そのことを、存分に意識した上での描写だろう。少し長くなるが、引用してみたい。とても印象的だし、小説ではなかなかお目にかかれない場面でもあるので。

 

 赤っぽい石の転がる水辺に、はや、人びとが集まっている。褌一丁の男たちは、黒い脚を踏んばって、とと(馬の名)の背を石の溝に固定していた。短い声がとびかい、活気がある。女たちは岩のつくる窪に火をもやしていた。河原のあちこち三ヶ所で火は燃え、風に吹かれた熱い煙が、余の顔を包んだ。鼻の奥がつんとする。咳きこんで場所を移すと、薪をかかえて河原に走りおりてきた子供にぶつかった。

 綾兵衛は河原にしゃがんで細身の包丁を砥石にあてている。

〜中略〜

 綾兵衛は愛蔵に一礼し、ととにむかった。しっかりとした足どりである。ととは水をぶっかけられ、だらりと腹に載ってる萎びた陰茎の先にまで水滴が伝わっていた。頭部に立った綾兵衛は、包丁を口にくわえ、手を合わせた。まわりの人も倣い、南無阿弥陀仏と、つぶやいた。

 これがなぜ忌み嫌われねばならぬ仕事か、と余はいつも思うことを思った。静寂のうちに、川のせせらぎが、いちだんと高く響いた。

 包丁を握った綾兵衛が、ととの長い首ちかくに立った。襷掛(たすきがけ)をした背が精気を放った。臑毛の密生した細い脚は微動だにしない。だれもが息を呑んだ。次の瞬間、包丁はおろされ、綾兵衛の肩は盛りあがった。ととの皮はゆっくりとひらかれた。赤みをおびた白い脂身が光った。二、三匹の蠅がうるさくつきまとっている。腹が二つに引き裂かれると、ぽんと気の抜ける音がし、ついで腸(はらわた)がはみだした。鼻をおさえたくなる生臭い悪臭がした。だが、綾兵衛は、汗の浮いた表情を変えることなく、陰茎の根まで包丁を進めた。見事な腕前だった。内臓を傷つけずに、真一文字に割られていた。

 休むまもなく綾兵衛は皮を剥ぐ。少し背をこごめ、左手で皮を握り、右手の包丁を肉とのあいだにすべりこませる。手慣れた見事な包丁さばきに、人びとは息を呑んだ。終わると、綾兵衛は川辺に行き、手に飛び散った血や体液を洗った。

 男たちがどっと、ととに取りついた。とぐろを巻く長い腸が桶に投げこまれる。両臂【肘】がぽきりと折られ、束ねられる。頬の皮が剥がれたあと、首が切り捨てられる。気管(のどわ)がのぞく。わいかて同じや、わいのからだかて、ばらせば、あのようなぐちゃぐちゃしたものや。

「こら、片腕、なにをぽかんとしとるべえ。荷物を、直蔵さまのとこへ運ばんかい」

  赤黒い肝をもった男が、それを桶に投げこんでいった。  

 

映画で言えば、大変な「長回し」の映像が、これ以後も続く。

四の五の解説は不要だろう。引用文中、二度心の内でつぶやく余(彼の視点でこの場面は描かれている)の短い言葉に、存分に要約されている。「これがなぜ忌み嫌われねばならぬ仕事か」、「わいかて同じや、わいのからだかて、ばらせば、あのようなぐちゃぐちゃしたものや」と。

余は、ケガレという思想に、憤りを感じている。ケガレそのものというより、ケガレを自分たちに押しつけて、自分たちはそしらぬフリをする、その欺瞞にである。仮にケガレが真実なら、そもそも人みな誰もが、ケガレているはずではないか。

 

さて、一方長吏とは何か。

幕末の弾左衛門が二本差で写真に写っているのは、穢多頭弾左衛門が賤民でありながら、武士に近い身分であったことがうかがえる。

徳川時代、江戸の穢多に該当する身分を、地方の藩では皮多(かわた)と言ったり、長吏と言ったり、様々な呼称があり統一されていなかった。だから、ここで長吏と言うときは(穢多と言うときも事情は同じ)、江戸および弾左衛門支配の及ぶ関八州に限っての話になる。江戸の弾左衛門は、穢多であり長吏でもあった。

弾左衛門が穢多という呼称を嫌い自ら長吏と名乗るとき、徳川幕府町奉行から、「御仕置御用」「捕り方御用」「野非人狩り」など、治安対策上の下級警吏業務を任されている自負と誇りが含まれている。

弾左衛門は、町奉行が江戸不在のとき、代わりに市中見廻りの役目なども務めているのである。なんと、奉行が見廻りをするときと人数的には変わらない、総勢二十六人もの供を引き連れて、江戸の町を巡回しているのだ。

ここらへんが、現代の我々からすると、最も理解しづらいのかもしれない。

江戸の町奉行といえば、大岡越前とか遠山の金さんとか、時代劇で知られたスターどころの役職だが、実は大変な権力者でもある。今で言えば、知事、裁判長、警察庁長官を一人(南町と北町で、実際は二人)で兼ねているといえば、想像しやすくなるか。その代役、ピンチヒッターとはいえ、喩えは不適当かもしれないが、広域暴力団の組長が、子分を引き連れて市中を見廻るようなものだ。

参考までに、弾左衛門の見廻り巡回行列の陣容を紹介しておこう。

刀を差した三人の侍を先頭に、若い侍三人が続き、弾左衛門が乗った駕籠には、駕籠かきが三人と交代要員三人の計六人。駕籠のうしろには、やり持ち一人、はさみ箱持ち一人、ぞうり取り二人、茶・弁当持ち一人。馬を引く者一人、雨具やたんすなどを運ぶ者六人、行列を取り仕切る宰領が一人、行列のしんがりを勤める侍一人。これで計二十六人となる。

ただし、このものものしい行列が、町奉行のものではないと、ひと目で分かるようになっている。

弾左衛門が見廻る場合、あざやかな藍色に「矢野」の文字が刻まれたハッピをはおった小者二人、番屋ごとに先回りし「ただいま弾左衛門がまわります」と、告げて回らなければならない。そして、立てたのぼりには、丸に一文字蔦の紋と違矢(ちがいや。交錯した矢の図絵)が描かれてある。また、穢多身分は、やりを肩にかけて持たなければならない。武士は立てて持つ。

これで、この行列が、浅草の浅草寺の奥、新町から来た《浅草弾左衛門》のそれと知るのである。

 

行列を眺める江戸庶民の心情は、どうだったのだろう。

江戸の町民が罪を犯した場合、市中引き回しの上、打ち首獄門や磔、火あぶり、遠島、追放等々の様々の刑が科せられる。江戸の刑罰は見せしめパフォーマンスの意味合いが強いから、特に死罪などの重罪は、江戸の誰もが何度も目にしているはずだ。

その目の先に、犯罪者を裁く主体の徳川権力の侍、与力や同心がいる。奉行はその場にお出まししないが、もちろん彼らの親分は町奉行であり、そのまた大親分は徳川の将軍様である。

しかし、江戸の庶民は、おっかない侍たちを、睨みつけたりはしないだろう。たとえ裁いた主体が彼らでも、庶民の憤懣が彼ら権力に向かわぬよう、刑罰を実際に執行する身分、穢多や非人に向かうように、パフォーマンス劇は仕組まれている。かつてはそのように解釈されていた。庶民の不満を、被差別民を差別することで、「俺たちよりもっと下がいる」と思わせてガス抜きするというやつだ。

現代のいじめの構造が、まさにそうなのだ。いじめは、学級や会社などの閉鎖的な空間において、権力ヒエラルキーの下部に向かって連鎖反応を起こす。最下部に置かれた人間が、それを全面に受ける悲惨が、いじめ自殺などの社会問題を引き起こしてきた。これは、何度繰り返されても終わらない、この社会の病理でもある。

同じ悲劇が何度も何度も起きて、さんざん議論を積み重ねて法や条例も改正し、学校の教職員はいじめについての研修を受け、市民活動家が悩み相談などの「駆け込み寺」システムを作っても、いじめは減少する傾向にない。いじめの原因になっている何かが、根本的な要因が、おそらく手つかずに放置されているのだと思う。ちなみにこれは、戦争中の軍隊のいじめ問題としても、同様にとらえることができるし、それ以前の戦前からも、ずっとずっと続いてきた、近代150年の根源的な病理なのである。

だが、現代のいじめがそうだから、江戸も同じだろうと考えるのは浅はかだ。そのひとつの反証として、弾左衛門の市中見廻り行列がある。ガス抜き対象としての穢多や非人という存在を、全面否定するわけではないが、それだけではない複雑な様相が、弾左衛門行列からは見えてこないだろうか。弾左衛門や、弾左衛門配下の穢多、非人身分の者たちは、単純に権力ヒエラルキーの最下部という存在ではなかったのである。

これはまったく想像の域を出ない話だが、江戸の庶民は通常、弾左衛門のような身分の者を蔑視していたのだろうが、例えばちょいと《傾いた(かぶいた)》ような連中が、アウトロー弾左衛門に憧れたりしなかっただろうか。数千人の手下を操る非人頭車善七に、渡世人としての別人生を、夢想したりしなかっただろうか。なんせ弾左衛門は、町奉行の代役で市中見廻りもすれば、エタ金と揶揄されているとはいえ、経営の傾いた豪商や威張りくさった侍が、こそこそと金を借りにいく相手でもあるのだから。

表向きの庶民の憧れは、いなせな江戸の火消しなのかも知れない。「火事と喧嘩は江戸の華」というときの主役だ。江戸の町火消しは、明治以降、とび職としてその伝統を継いでいる。この超現代都市東京で、今でも年中行事の折々にかかせない存在である。

祭や正月などの年中行事は、元々は神事と密接に関っていた。江戸の賤民たちも、古くはそこに、自分たちのアイデンティティがあった。現代でも、とび職だけでなく、渡世人やアウトローが集まり、近代の国家秩序とは違う独特の秩序、統制を見せている。彼らは、西国の果てからやってきたわけのわからない新政府の近代150年に与せず、いまだ徳川の世を生きているかのようだ。

現代の彼らのあり方を見ていると、先の筆者の想像が、まんざらでもないような気がしてくるのである。

 

弾左衛門の始まり

 

では、江戸徳川の世で十三代続いた弾左衛門は、いつから始まった制度なのか。

弾左衛門とは、どこから来て、いつ江戸に住むようになり、どのようにして家康に採り入れられ、穢多頭に任命されたのか。

これについては、弾左衛門自身が、町奉行に提出した由緒書がいくつか残っている。

著名なのは、享保四年(1719年)と享保十年(1725年)、将軍吉宗の時代、第六代「集村」が町奉行に提出したものと、最後の十三代「集保」つまり我らが小説の主人公が、慶応四年(1868年)新政府に提出したものである。

ただ、この由緒書自体が偽書と言われていて、そのものを真実として採用するわけにはいかない。かといって、弾左衛門に関しては、火事や災害によって消失、紛失してしまった書類がほとんどで、特に、初期の弾左衛門について、詳しいことはいまだ不明な部分が多く、研究者によっても諸説あるようだ。

由緒書には、六代集村と十三代集保の時代に150年近い時間の開きがあるものの、両者とも口をそろえて、「鎌倉時代、源頼朝公に取り立てられた」と言っている。

実は、由緒書を出す方も受け取る奉行の方も、江戸中期以降になると、もはやよくわからなくなっている。町奉行は、「頼朝公に」と言われれば、それを否定する理由はないし、弾左衛門制度を確固たるものとするために奉行が由緒書を要求したとすれば、偽書だろうが構わないわけだ。そもそも由緒書という存在自体が、そういう「あとづけ」的な性質を持っている。

しかし、我々としては、本当のところを知りたい。

塩見鮮一郎も、諸説のあいだで揺れたようだが、最終的に次のような仮説を立てている。

小説完了の後、資料編に続いて出された弾左衛門関連のエッセイ集『弾左衛門の謎』『弾左衛門とその時代』から、まとめてみる。

 

1  由緒書によると、弾左衛門の先祖は、「摂津国池田(火打村)」今の大阪府池田市から「相州鎌倉」神奈川県に来て、鎌倉幕府に勤めた。源頼朝が鎌倉幕府を開いた前後、12世紀末のことである。

2  その時頼朝から「御陣御用皮細工」と「御仕置もの一件之御役目」、つまり皮革の製造と、罪人を処罰する仕事を任せられた。

3  その後、鎌倉の極楽寺川そばに住んでお役に勤めていたが、鎌倉幕府崩壊後、北条早雲の時代から、後北条に仕えた小田原の長吏頭太郎左衛門と対立する。

4  勢力を増した太郎左衛門と対立した極楽寺の長吏一派は、三家に別れた(極楽寺由井、鎌倉山ノ内、藤沢)。これとは別に、江戸に逃げた一派がいたかもしれない。その頃の江戸には、後北条の初代早雲と対立した大田道灌が、後に家康の江戸城となる地に城を構えていた。

5  後北条が滅び家康江戸入城(1590年)のとき、日本橋尼店(あまだな)には、穢多頭の矢野なにがしがいた。4で述べた極楽寺の長吏一派かどうかは不明。大田道灌が彼の祖先の出身地、丹波国太田庄(現京都府亀岡市)から呼び寄せたのかもしれない。

6  家康は、かつて関東を制覇した後北条の影響力を一掃するため、最も勢力の大きかった小田原の太郎左衛門ではなく、まだ弱小長吏頭だった日本橋尼店の矢野を取り立てる。

7  太郎左衛門の支配する長吏勢力は、家康により矢野に譲渡され、太郎左衛門は逆に小田原の長吏小頭に過ぎなくなる。

8  家康入城当時、日本橋近辺にあった牢屋敷や処刑場は、慶長年間(1596〜1615年)に鳥越に移転する。これにつき従って、矢野も鳥越の方へ移った。

9  この移転のとき、エタ村の頭として正式に「弾左衛門」の称号が与えられた。しかし、すでに弾左衛門は、二代目、三代目の時代に入っていた。弾左衛門の由緒が、初代についての記述がはっきりしないのは、そのためである。

10 その後、江戸の町が拡張していったため、再度移転を余儀なくされ、正保二年(1645年)、浅草新町(今の台東区今戸)に移住する。後に「囲内」(カコイウチ)、「浅草新町」(シンチョウ)と呼ばれるようになる。地図には「エタ村」と表記される。ここに幕末まで穢多頭弾左衛門として、十三代まで君臨することになる。

 

これで、おおまかな弾左衛門の「由緒」が描かれたかと思う。

ただし、現在では、4から5へのつながり、鎌倉極楽寺の長吏と、家康以前の江戸にいた矢野某が、直接関係があるという説は否定されている。[17]奉行に提出された由緒書ではそう書かれているが、「頼朝以来」の由緒が欲しくて、でっちあげたのだろう。そうだとしても、大田道灌の頃、丹波国太田庄から呼び寄せられたとすれば、火打村から来た鎌倉グループと、それほど遠い間柄ではないのかもしれない。

 

興味深いのは、塩見鮮一郎が、一般的な通説とは違い「鎌倉幕府が、弾左衛門『先祖』に求めたのは、まず第一に、『御仕置』のほうであった。その者が、たまたま、火打村の洗練した皮革製作の技術も持っていた」[18]という結論に達していることだ。

通説だと、例えば、中世小田原の太郎左衛門が、皮革の生産技術で北条早雲から五代続く後北条家に仕えたように、戦国武将に皮革生産で仕える長吏頭が、やがて「御仕置」も引き受けるようになったと説明される。多くの長吏頭がそうであるなら、家康に取り立てられた江戸の弾左衛門もまたそうであろう。だが、1で弾左衛門の先祖が鎌倉幕府に取り立てられたときの事情は、そうではないのではないか、と塩見は言う。そこで注目されるのが、中世における「検非違使」の存在だ。

 

鎌倉幕府の成立前後の時期、源頼朝が必要としたのは、都と同じレベルの文化を関東でも体現できる、プロフェッショナルな集団である。頼朝や、後の北条早雲なども、都の方ばかり気にかけていた。つまらないものの極めつけは、都から関東にさえ「くだらない」という精神構造は、この頃すでに芽生えている。

様々な分野のエキスパートが、西国から箱根を越えて鎌倉に呼ばれたのだろう。それは、賤民の仕事とされる分野でも同様だった。例えば、当時の都平安京で、2の「御陣御用皮細工」と「御仕置もの一件之御役目」に深く関っていたのは誰か。

それは、中世の絵巻物などに登場する「河原者=清目(キヨメ)」であり、その頭目が検非違使尉(けびいしのじょう)だった。頼朝の弟、源義経も、都ではこの役職についていた。[19]

写真、『法然上人絵伝』の一場面を見ていただきたい。

法然の弟子安楽坊が、鴨川の六条河原の中州で処刑されるシーンの一部だ。

合掌している安楽坊の後ろに、「放免」と呼ばれる「河原者」が二人立っている。立烏帽子に濃い髭面の男二人は、今にも刀を抜いて、首を落とそうと身構えている。その斜め後ろに、弓矢を持った検非違使庁の面々。彼ら武士たちは、みな立派で大振りな弓を手に持ち、ド派手に着飾っている。その中で、武士に守られてこの場面を統制する、最も華美な服装をした検非違使尉がいる。

写真には、安楽坊の目の前に川の一部しか写っていないが、舞台は広い六条河原。今よりもはるかに、川幅も河原も広かったはずだ。川の反対側には、京の都の民衆が、この処刑ショーパフォーマンスを、「押すな押すな」とばかりに、固唾を呑んで見守っている様子も描かれている。

法然の弟子安楽坊は、権力の中枢に入り込んで念仏を広め、ついに帝の怒りを買い処刑されることになった。法然自身も、都を追放されることになるだろう。安楽坊は、「絵伝」を見てもわかるように、なかなかのイケメンだ。帝の寵愛を受けた女性たちに、大変な人気があった。

これは、時の民衆が最も関心を寄せた、色と権力と宗教がからむ一大スキャンダル事件なのだ。だからこそこの処刑は、人々の記憶にしっかりと刻み込まれなければならない。

このように、細部まで計算され、様式美に彩られた処刑パフォーマンスを、滞りなく遂行する集団こそ、鎌倉の源氏政権は必要とした。

 

 時は乱世である。名のある人物を処刑しなければならない場合も多かった。中途半端な仕事をして、笑い者になってはならない。鎌倉の新政権の威信がかかっている。検非違使の仕事のうちの処刑執行と賎民統治の仕事を引き受けて、京都と同じレベルで遂行できる人が、どうしても鎌倉に必要だった。源氏が検非違使庁につとめていたときから関係のあった河原者の頭領が火打村にいた。皮革の売買のため、西国街道を通って京都と多田のあいだを往来している。配下に放免もいただろう。そういうエキスパートに目をつけ、鎌倉に呼んだ。

(『弾左衛門の謎』「第一章 出身地の火打村」河出文庫、170頁)

  

 こうして、源頼朝公に取り立てられた摂津国池田(火打村)のキヨメのプロフェッショナル集団は、鎌倉は由比ヶ浜の近く、極楽寺周辺に住み着いた。源氏政権に仕え、大いに勢力を伸ばしたが、幕府崩壊後、後北条の時代になると小田原の太郎左衛門一派と対立するようになる。

 

先述したが、この鎌倉弾左衛門の一派が江戸に逃げ、家康以前から江戸の尼店にいた矢野弾左衛門となったという説は、今は否定されている。

 

摂津国池田村(火打村)は、「百済系の渡来人が活躍し、その後、新羅や中国から人や物が流れこみ、重層した文化をかたちづくった」(「出身地の火打村」)と、塩見鮮一郎は書いている。

火打村は、百済系の渡来人、秦氏(はたうじ)の拠点のひとつであり、平安中期には漢氏(あやうじ)の一族も土着している。先進最先端の織物や皮革生産、鍛冶、石工などの技術が、渡来人とともに流入し発展した。その一派が、頼朝に呼ばれ、鎌倉に来た。

なぜ火打村と源氏は関係があるのか。火打村近くには多田神社があり、源満仲が主神(子孫の頼光、頼信、頼義、頼家も合祀)として祀られている。源氏は、多田を本拠地として活躍した。

 

 満仲のころの源氏は、京都にあって、治安維持の仕事も受け持っている。検非違使になるものもいた。

 検非違使は、大同五年(810年)にもうけられた。「平城上皇の変」で神経過敏になった嵯峨天皇のときだ。京都とその近辺で、違法者を探索し、取り締まった。律令制で置かれた弾正台の追捕の権限が、検非違使の手に移る。そのうち、訴訟や裁判まで執りおこなうようになった。弾正台にとって代わったのである。武勇で生きていこうとするものには、この仕事はもってこいである。

                     (前掲書、35頁)

 

源氏は、検非違使だけでなく、鎮守府将軍の職にも就いている。検非違使が、都の治安維持を仕事とするなら、鎮守府は、奥州におけるヤマトの軍隊の前線基地だ。

いずれにしろ、武闘派源氏ならではの職である。その源氏が、なぜ多田に拠点をおいたかというと、多田には銀銅の産出量が豊富な鉱山があったからといわれている。近くの火打村には、渡来系の先端技術を持った人々も住んでいた。武闘派集団としては、最適の土地だったのだ。

そうして、源満仲の子孫頼朝が、東国鎌倉で政権を旗揚げすると、かねてから関係のあった火打村のプロ集団が鎌倉に呼び寄せられた、という訳だ。

ところで、弾左衛門の「弾」は、律令時代の弾正台の「弾」と、遠く呼応するのかもしれない。塩見説で述べられているように、鎌倉政権が第一に必要とした、「御仕置」のエキスパートは、江戸の弾左衛門の時代も、本質的には変わらなかった。

 

 処刑は、見せしめというよりは、権力の文化的優位を人々に印象づけるためのイベントだといっていい。京都の住民は、それを見るために、いそいそと集まってくる。

 この処刑のショー性は、江戸時代にまで引きつがれ、人びとは、役人立会いの磔に興奮したのだ。あるいは、ハダカ馬に罪人を乗せ、前後に五十人が行列した市中「引き回し」にも。このとき与力は、陣笠をかぶり、打裂羽織(ぶっさきはおり)に野袴で馬に乗る規定だった。ほかに、「河原者」の後裔も、白衣に帯刀、それに朱槍をかついだりして、江戸市民の好奇の視線を浴びながら、あたえられた役を演じ続けた。                  

(前掲書、68〜69頁) 

 

このような江戸の処刑も、先に述べた町奉行の代役としての「弾左衛門市中見廻り」行列と同じく、確固たる様式に彩られている。

「弾左衛門とは何か」の項で、最後の弾左衛門が挙げた14の仕事のうち、皮革に関るものがいくつかあるが、「太鼓」だの「馬の埋葬」だの、どれも弾左衛門でなくてはならない仕事だろうか。戦国の世が終わり、武器調達の役割の重要性が薄れたからとはいえ、江戸の末期に至っても、弾左衛門とその支配下の賤民の役割は、常に「御仕置」の方に重きを置いていると、言えるのではないか。

 

ところで、検非違使や鎮守府が、大同年間に設けられたということは、なんだか想像力を刺激する話である。東北には、坂上田村麻呂が創建したという由来のある寺社が多い。その年代はハッキリしないが、伝説上はたいてい大同年間だ。

次の「エミシ」の話に関連するが、大同年間由来の田村麻呂創建伝説が多いのは、それ以前に起きたアテルイなどエミシの反乱が大方沈静化し、ヤマトの東北侵略がひとまず成功した事を意味するのではないか。

京の都の清水寺も、同時期、田村麻呂の創建とされる。清水寺の坂下は、後に、「河原者=キヨメ」たち非人の、多く集まる地として有名になる。ちなみに坂上田村麻呂は、あの摂津国池田(火打村)の渡来人である漢氏(あやうじ)を出自としている。

都の治安は検非違使。東北の治安は鎮守府。どちらの業務も、下働きとして被侵略者のエミシを使ったのではないか。だとすれば、奴隷的に使役したのだろうか。もっと古い時代は、みな奴隷だったのだろう。この頃、大同年間くらいになると、反乱したエミシもまた恭順を示し、自己の利益と生活のため仕方なく雇用されたのかもしれない。その雇用主が、ヤマト朝廷であり、直属の上司が源氏だったということになる。

 

エミシと放免、河原者、キヨメ

 

そこで、「法然上人絵伝」でも特徴的に描かれている、安楽坊の後ろに立つ「河原者=キヨメ」たち、検非違使に使われる役職としては「放免」と呼ばれる者たちを見てみたい。

彼らの濃い髭面からも想像できるように、エミシではないかとする説がある。エミシ(蝦夷)は、日本書紀や続日本紀などに「毛人」などと書かれることもある、古代東北の住民たちだ。

もちろん、見た目からだけで推論しているわけではない。詳しくは後で検討することとして、ひとまず、塩見鮮一郎も紹介している、大変興味深い人類学の調査報告をみてみたい。

雑誌『国文学 解釈と鑑賞』が、昭和38年に特集した、「日本の東と西」に掲載された、小浜基次の論文「形質人類学から見た日本の東と西」[20]である。

もっともタコツボ的な学問と思われがちな国文学の雑誌が、幅広い分野の学者を集めてこのような学際的特集を組んでいることに、隔世の感がある。そのことはさておき、かなり古い調査報告ではあるものの、その示唆するものは、大いに検討に値するはずだ。

 それは、次のような調査報告である。

下記に転載した写真の児童に特徴的なように、人の頭部を上から見たとき、形質分類学的に分けると、長頭、中頭、短頭、に分けられる。左の児童の長頭が、もっとも長いアイヌ児童の例で、逆に短頭の特徴が際立つのが、右の朝鮮人児童の例である。その中間に位置するのが、中頭型になる。

 全国的な調査によるこれらの分布をみると、朝鮮半島と類似の特徴である短頭型は、近畿地方を中心に広がっている。逆に中頭型は、畿内に広がる短頭型の周

 

囲を取り囲むように分布し、さらに外側に長頭型が拡がる。中、長頭型は、地域的には、東北、北関東、北陸、山陰、九州北部、南部、九州の離島などに多く見られる。ここまでは、縄文系・弥生系などというように、今ではすっかり一般化してきた分類にも符合し、納得しうる内容である。

 

本当に興味深いのは、この調査が、当時の「未解放部落」にも及んでいることだ。

調査報告者小浜基次は、次のように書いている。

 

  長頭 アイヌ人児童  短頭 朝鮮人児童

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

  部落は一般集落より隔離された地区にあり、部落民の大部分は部落内結婚、一部は部落間結婚により内婚率は高く、同和結婚の数は少ない。したがって、形質は僻地や離島の孤立集団にみるように偏在する可能性はあるが、計測学的には部落間に共通した形質を示している。〜中略〜

 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。〜中略〜

  大陸朝鮮形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質を持つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。

小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」

 

 未解放部落は、全国どこを調査しても同じ「東北・裏日本型」の特徴を有する。驚くべきは、畿内の大陸朝鮮形質が顕著に見られる地域の未解放部落でも、あたかも陸の孤島のごとく、「東北・裏日本型」が点在するという報告だ。

 これはいったい何を意味するのか。

 ちなみに、先の引用の冒頭で、「部落民の形質は異質的なものではな」いと、わざわざ述べているのは、部落民の起源が、外国から来た異民族であるという俗説に釘を刺しているためか。部落民は「現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している」のだから、異民族ではない。

 ただ、東北・裏日本と、畿内に点在する部落は、かつてなんらかの人的交流があったと、この報告は示唆している。例えば、古代東北のエミシが何らかの理由で畿内に移住し、外部との婚姻関係を持つことなく、現代にまでその特徴を維持している、というような。

ここで登場願いたいのが、菊池山哉の大著『別所と俘囚』という書物だ。

俘囚とは、東北のエミシが朝廷の軍隊と戦って捕虜になった場合の、兵士とその家族のことである。

エミシについては、高橋克彦の小説『火怨』や、それを原作にして、2013三年にNHKがドラマ化した『アテルイ』で、だいぶ一般的にも知られるようになった。

記紀神話に書かれた時代から、最後の抵抗を試みたアテルイたちの反乱まで、数世紀に渡って、徐々にヤマト朝廷の軍隊は、エミシの土地を侵略していった。その過程で、捕虜となった兵士を「俘囚」と呼び、その家族と共に、関東から以西、南は九州にまで「移配」した。

移配とは、時の政府が予算をつけて、彼らを各地に移住させ、一箇所に住まわせる政策のことだ。その移配させた土地が、やがて「別所」と呼ばれるようになったと菊池山哉はいう。

 

菊池山哉(1890〜1966年)は、知る人ぞ知る在野の研究者だった。アカデミックな場所で文献考証ばかりに頼る学者と違い、全国を歩き廻って実地調査し、『別所と俘囚』という書物を書いた。

弾左衛門からどんどん離れていくが、この論稿は「塩見鮮一郎の歴史小説から日本の賤民史を読み解く」のがねらいなので、このくらいの脱線はカンベンしてもらいたい。

塩見鮮一郎は、菊池山哉の著書の復刊に関っている。在野というだけで埋もれていく知の遺産を、看過できなかったのだろう。90年代に、批評社から出た復刻版[21]に、長めの解説を書いている。

脱線ついでに書いておきたいのだが、大学や公的な研究機関と関係のないところで研究を続けた、菊池山哉のような研究者を、どうしてこの国は無視する傾向が強いのだろう。ロンドンの大英博物館や図書館にこもって論文を執筆し、権威ある科学雑誌『ネイチャー』に何度も掲載された南方熊楠は、独学の徒でありながら、海外ではその実力を高く評価されているのに。

塩見鮮一郎が次のように書いているのを読むと、ほとんど自己と山哉を重ねて、静かな怒りを表明しているように思えてくる。

 

 ときに彼は、「自分は学者ではなし。」と記している。もちろん韜晦の言葉だろうが、語の裏面に張りついている真理を見落としてはならないだろう。そこでかれは、学者でなければ受け入れようとしない社会の存在についてもいっているのである。学歴による差別、肩書きによる差別、所属による差別、プロとアマの差別などと、かれは声を大きくするわけではないが、「自分は学者ではなし」というときには、歯ぎしりする音がかすかに聞こえてくる。腹を立て、それに耐え、そして、「なに、かまうものか」と壁をこえていく精神の働きがある。

 菊池山哉は自己を恃みとするところがあったから、それでよかったのかもしれない。しかし、後学のわたしたちが、あいつは学者ではなしと山哉を無視してよいことにはならない。いや、よかろうはずがない。まして反差別を基点にして部落史を研究している人たちにおいておや、である。

                (菊池山哉『特殊部落の研究』復刻版解説、「起源論の水準」) 

 

民俗学の巨星、柳田國男と折口信夫の影で、なぜか忘れられてしまったもう一人の巨人、喜田貞吉の存在に光を当てたのも、塩見鮮一郎だった。『蘇る巨人喜田貞吉と部落問題』[22]という評伝一冊を上梓している。

権威と権力に屈しやすいこの国の大衆像が、菊池や喜田という学者・研究者を、埋もれさせてしまった要因にあげられるのかもしれない。反対に、柳田や折口は、とことん持ち上げられ、ほとんど神聖不可侵の領域にまで祀り上げられた。90年代に入ってようやく、批判的な論じ方もされるようになったが。[23]

 

そろそろ菊池山哉の『別所と俘囚』に戻ろう。

菊池の「別所論」を継承し、菊池にはなかった「産鉄」という視点を加え、『鉄と俘囚の古代史 蝦夷「征伐」と別所』という本を書いた柴田弘武というこれまた在野の研究者がいる。柴田は、全国各地から菊池が探し出した別所という土地をさらに掘り起こし、五百以上の別所地名を網羅した『全国別所地名事典 鉄と俘囚の民俗誌 蝦夷「征伐」の真相』(上下巻)という大著も出している。

柴田のオリジナルなところは、「大和朝廷の蝦夷《征伐》」のほんとうの理由は、「東北の鉱産資源、なかんずく鉄資源、製鉄技術、産鉄労働力の確保にあった」と言っていることだ。

東北侵略は、豊富にあった鉄資源と、産鉄技術を求めてなされたのが真相であるというのだ。

確かに、「朝廷に与しないから」という理由だけで、侵略戦争を何世紀にも渡って継続するというのは理由にならないだろう。「自由と民主主義」をお題目に、イラクやアフガン、中東の各国に、武力を背景に関与しようとする現代のアメリカをみても、それは同じだ。

菊池山哉は、大和朝廷の俘囚の移配理由にまでは言及しなかった。柴田はそこに「産鉄」というキーワードを引っさげて果敢に切り込み、膨大な研究成果をあげている。柴田の著書をていねいに読んでいくと、俘囚の移配地とされる別所には、必ずと言って良いほど「産鉄」の痕跡が残っていることが分かってくる。東北各地に残る鬼伝説や、一つ目小僧の民話なども、産鉄と関っているのかもしれない。そこにエミシ別所論をはめ込むと想像は膨らむばかりで、反論の仕様がないほどに思えてくる。

ただし、ここには、柴田や塩見も指摘しているように、ひとつ大きなカベがある。

柴田の著書からの孫引きにもなるが、以下の重要な指摘である。

 

王臣や国司がきそって蝦夷人の飼育した馬、それだけでなく、蝦夷人そのものを買いあさり、とどのつまりは、現地の公民を略奪するとか馬をぬすみとるとか、ずいぶんあこぎなことをやった。他方で公民たちは、法網をくぐった蝦夷と物々交換をおこなった。そのために、「国家の貨」である綿が蝦夷人の衾(ふすま)になり、冑鉄(ちゅうてつ)はつぶされて先方の農具になるというありさまであった。そしてあとのばあいについては、すでに天平時代に按察使大野東人(あぜちおおのあずまびと)がこの問題をとりあげて禁令をだしていたという。

                         (北山茂夫『日本の歴史4平安京』)

 

天平といえば奈良時代、8世紀の前半。田村麻呂やアテルイの時代より、ほぼ1世紀前のことである。禁令をだすくらいだから、よほど目にあまったのか。

ヤマトと蝦夷の国のボーダーで、エミシが鉄を欲して、物々交換をおこなっていたという。エミシの馬は、ヤマトから垂涎の的だったのだから、ヤマトにとっても、貴重な甲冑の鉄とエミシが育てた優秀な馬は、お互いにウィンウィンの交換条件だったのだろう。だがそうなると、エミシは産鉄の技術を持ち合わせていなかったのか、ということになる。

柴田の論は興味深いが、この点はまだまだ調査、研究と、議論の積み重ねが必要なのかもしれない。

ただ、菊池山哉の「エミシ別所移配説」は、動かしがたいように思われる。

全国各地に、エミシの俘囚は移住を強いられ、そこが「別所」と呼ばれる土地になった。別所には、東光寺、白山神社が多く祀られている。それは、現在も続く被差別部落にも多い。弾左衛門の囲い内、浅草新町にも白山神社はあった。そして、先に紹介した、小浜基次の形質人類学調査の示唆すること。

これらを統合して、何がしかの論を立てる力が、残念ながら筆者にはない。弾左衛門の遠い祖先に、ただ思いを馳せるだけである。

 

弾左衛門が住んだ町

弾左衛門は、当初日本橋尼店にいて、慶長年間(1596〜1615年)に鳥越に移り、正保二年(1645年)から幕末まで、囲内(かこいうち)と呼ばれた浅草新町に住んだ。江戸期のほとんど二百年近く、そこにいたことになる。

新町囲内は、弾左衛門だけでなく、江戸の穢多身分の全てが住むことを強制された町だ。江戸ではこの新町囲内以外、穢多身分の者は住むことを許されなかった。ただし、ある種の治外特権も、幕府から付与されている。

新町内や関八州の穢多と配下の非人、猿飼などの身分の者が起こしたもめ事、事件、犯罪の類は、基本的には弾左衛門を頂点にした法裁判システムによって裁かれる。だから、新町内には、お白州や牢も備えてあるし、死罪や敲きなどの刑の執行も出来た。また、地方から弾左衛門に訴え出たりする者が宿泊、待機する公事宿もあった。ただし、死罪のような重罪のケースは、町奉行にお伺いを立ててから判決を下した。あくまでも徳川権力のもとでの治外特権なのである。

この浅草新町を、江戸の庶民は「しんちょう」と呼んだ。江戸に「新町」と表記する町はたくさんあるが、みな「しんまち」で、浅草新町だけが「しんちょう」と発音された。ここにも蔑視があり、呼び名を区別することで差別する精神の働きがある。

ただ、それが近代以降の部落差別と同じかというと、そこは疑問だ。筆者に明確な答えはないので、いっしょに考えてもらいたいが、そもそも新町囲内の存在そのものが、我々からするとあまりに想像の粋を超えている。ある意味、吉原遊郭と似ているのかもしれない。吉原も同じように四方を「お歯黒どぶ」で囲われていて、中に住むことが出来るのは、遊女とそれに関るものだけだ。

新町囲内は、それだけに謎めいてもいて、現代の我々から見てもその中がどうなっていたのか興味が沸いてくる。なぜその存在そのものが、歴史に埋もれているのか不思議なくらいだ。吉原が、あんなにも人々の興味関心を引き続けているのに。

 

囲内がどのくらいの広さで、人口はどれほどだったのか、紹介しよう。

幕末の資料[24]によると、新町の合計坪数は、約13501坪。

人口は、明治4年に1043人。明治16年に、1313人という記録がある。

江戸の坪数は、1坪=1.548平方メートルだから、およそ8721平方メートルになる。

東京ドームのグラウンドが、ホームからスタンドまで100メートル。100×100で1万平方メートルになるから、野球場のグラウンド弱の広さに、千人強の人口がひしめいていたことになる。

ちなみに、軍艦島の呼称で最近ブームにもなっている長崎県端島が、約6.3ヘクタール。新町の約7倍だ。そこに多いときは5000人が暮らしていたというから、新町のほうが軍艦島よりもやや人口密度が高い。住居は近代のように縦に伸びないから、かなりの人口密集度だ。東南アジアに今も見られる、都市のスラムをイメージすればよいか。

 

新町囲内は、当時の江戸の地図に、きちんと表記されている。「穢多村」などと書かれることも多いが、当時誰もが知っている浅草の新町囲内を、わざわざ隠したりはしない。

わざわざなどと書いたのは、現在出版されている江戸の地図には、もともとあった「穢多村」などの表記が消されていたりするからだ。

 下記に転載した絵図がそうである。

 

 

浅草新町江戸絵図(嘉永6年、1853年)
人文社蔵版江戸切絵図
『資料浅草弾左衛門』(批評社)より転載

 

右側の青い部分が隅田川、絵図を上下に分断するように細く流れるのが山谷堀だ。山谷堀の下に大きく描かれているのが浅草寺。上部分、隅田川よりに、やや左側にカーブした縦長の細い地所が白く抜かれている。これが浅草新町になる。本来なら、白く抜かれた部分に大きく「穢多村」と表記されていた。現代の出版社が、なぜか自主的にそれを消して出版した。

塩見鮮一郎は、この件について、「地図の恣意性―デマゴギーについて」[25]という興味深い小論を書いている。だが、そのことを論じるのは後に回して、先に、新町囲内が、白く抜かれていることを考えてみたい。

これについても、同小論で、次のように塩見鮮一郎は書いている。

 

 ついでにいっておけば、白のまま残される土地がいまひとつ江戸にはある。江戸城である。なぜ、江戸城が周囲の濠だけしか記載されなかったのか。たぶん、まず第一に戦略的な要請はあったろう。敵に城内をこまかく知られると困るから、市販の地図に表記するのを禁じたのであろう。第二には、徳川に対して、恐れ多い、といった意識が広くあったのかもしれない。隠すほど神秘がます、という汚い手とそれは表裏をなしている。いずれの理由にしろ、さて江戸城を空白のままにすると、それは新町にくらべてはるかに大きい。切絵図師も困っただろう。地図の中央が白いままでは真が抜ける。そこで、窮余の一策とばかりに、巨大な葵の紋を、ばあんと刷りこんでごまかしてみたりする。

 このように、江戸切絵図においては、聖と賎の構図は見事なまでに表徴されている。

                             (共著『地図の記号論』所収)

 

新町囲内が吉原に似ていると書いたが、この点では正反対だ。吉原に独特の神秘性はあるものの、町全体が秘匿されていては、商売として成り立たない。

当時、吉原を案内する庶民向けのガイドブックなどもあったし、吉原はある意味常にオープンである。花魁の私生活は隠されているかもしれないが、それはあくまで、客の刺激を増す効果をねらったものだろう。一般の町民は、入ることはおろか覗き見ることさえ簡単には出来なかった新町囲内とは、まるで異なる。

 それにしても、新町が、江戸城と対をなすように、白く抜かれているのはなぜだろう。

 738坪もあったという弾左衛門屋敷。これは新町役所も兼ねている。通りを挟んでその対前の地所に、新町牢があったと推測される。十軒近くの公事宿。弾左衛門がここに来る前からあったとされる白山神社[26]。新町を南北に貫いたメインストリート。それらはみな描かれない。

 塩見鮮一郎も引用部分に続いて書いているが、江戸城と同じく「軍事的な秘密」があったのかもしれない。戦乱の世から遠く離れた徳川期なら、統治的な秘密ということになるか。いくら平和な世の中が続いていても、徳川幕府はあくまでも軍事政権なのである。弾左衛門制度が、長吏としての役割の方に重きを置いているという本論の流れと矛盾しない。

 だが、それだけでは説明しきれないものがある。

 文化記号論のような、単純な二元論に落としこめたくないが、賤民を抱え込むことで成立する徳川の権力のあり方を、考えねばならないだろう。権力が聖性を帯びるのに必要な、身分上最下層の賤民の存在。それは、伊勢神宮の中心を、今も秘匿することで成り立つこの国の天皇制のあり方と、どこか重なるものがあるはずだ。

ただ、この場合、伊勢神宮と対をなす、現代の賤民はどこにいるのかという問いが残る。それは、被差別部落なのか。かつて、中上健次がそのように書き、対談などでそういう発言を繰り返していたが、どうなのだろうか。

空白の二元論の片方は、もしかすると、「放送禁止歌」[27]や「放送禁止用語」のように、言葉の問題として表れているのかもしれない。そのこととおそらく関連すると思うが、塩見鮮一郎は、先に紹介した「地図の恣意性」で、興味深い論を展開している。

 江戸切絵図にあったはずの「穢多村」という表記を、現代の出版社が、自主的に消去したことについて、消去したのは会社の方針であったにしろ、つきつめれば個人の内部でまず起こる「きわめて身体的な領域で行なわれる検閲の劇」だったというのだ。

我々は、どのようなメッセージを発信するにしろ、自己内部で検閲を無意識に行なっている。それは、実感として誰もが体験していることだ。

 

  この検閲のフィルターを描ききるなら、そこに、ある社会における人間関係が、くまなく写しだされているはずである。

  ひるがえっていえば、支配と被支配の関係、差別と被差別の関係も、このフィルターに刻まれている。刻まれているからこそ、一瞬の支配・被支配が実現しているともいえる。つまり、わたしたちは長いあいだ階級の闘いが、議事堂とか街頭とかで、多数決とかデモとか戦争によって行なわれていると思いこんでいたが、それらは帰結であり、それ以前に、この検閲のフィルターまたはフィールドで、なにかが決していたのではないだろうか。

  このフィルターを規制する社会的な意識こそが問題なのである。たぶんここには、これまで使われてきた言葉でいえば、政治的イデオロギー、社会規範、宗教や道徳の戒律や論理などが濃い密度でまじりあい、しかもたえずひとつのものさしを形成しているのであろう。

                                   (「地図の恣意性」)

 

秘匿された伊勢神宮。明治天皇が、江戸城に入った後に出来た皇居は、平成の今も中をうかがい知ることは出来ない[28]。天皇の御世が変わる際の大嘗祭や、二十年に一度行なわれる伊勢神宮の式年遷宮も、肝心要の部分は謎のままだ。

空白の天皇制の中心と対をなすのは、このフィルターによって覆い隠される何かではないか。フィルターは、個々人の内部で、「身体的に」日々忙しく作動している。それを通して吐き出されてくるものが、この社会の規範を日々かたち作っている。

そして、個々のフィルターを通過できなかったものは、覆い隠されたまま蓄積し埋もれていく。

 

浅草新町に戻ろう。 

 小説では、時代が幕末ということで事情が一変し、様々なビッグネームも新町を訪れている。

徳川将軍の奥御医師だった松本良順。その治療を受け、松本と親交のあった新撰組の近藤勇。維新後、解放令の発布に関ったとされる大江卓などだ。

だがこれらは、幕末維新期の混乱の中で例外的に生じたことであって、基本的に新町は閉ざされた町である。穢多金などと蔑まされながら、資金繰りに困った商人が裏木戸からこっそり金を借りに来ることはあっても、士分階級の者が借金以外の理由で弾左衛門を新町に訪ねて来るなぞ、前代未聞だ。

ただ、このことは、幕府の屋台骨が崩れかけた幕末クライシス期、実は徳川権力と弾左衛門制度が、運命共同的な関係だったことが露骨に表出したとは言えるだろう。松本良順などは、幕臣として、弾左衛門の財力や配下の者の労働力を、ずいぶんと利用した。利用せざるを得なかった。京で長州と戦って敗れ、江戸に舞い戻った新撰組の近藤勇、土方歳三なども同様である。[29]

その意味では、徳川から権力を奪った新政府も同じだった。もしかすると、徳川三百年ぶんの濃密な関係を一気に飛び越えたぶんだけ、あからさまだったのかもしれない。そのことは、次々節「解放令と弾左衛門」で検討しよう。

この節の最後に、小説から、新町を描いた印象的な場面を紹介したい。少し特異なシーンではあるが、江戸切絵図で白く抜かれた庶民のうかがい知らぬ新町という場所を、強烈に照射して見せている。

ちょうど、高橋敏夫が『浅草弾左衛門』小学館文庫版の解説で、このシーンについて書いているので、まずこちらを引用する。

 

(幕末維新期の)「賤民」からの解放は、新たな差別への解放でしかなかった。近世的身分差別から、近代的社会差別への転移である。

 大部分の穢多の民にとって、一般には物語の宝庫とみなされているこの時代は、一瞬夢見られた物語の墓場ではなかったか。

 そう考えれば、『浅草弾左衛門』が、弾左衛門直樹を視点にその生涯を描くとともに、ほぼ同じ分量を費やし、弾左衛門よりはるかに下方に位置する穢多の民や、非人たちを複数の視点として選び、変革からはもちろん変化からも見放されたそれらの生を描いている理由が分かる。

 しかも、下方にむかえばむかうほど、物語のまなざしはやさしく、人々をつつみこむような趣を呈しはじめる。そのまなざしが最もよくあらわれているのは、弾左衛門のもとから逃げだし、転々とした挙句凄惨な殺人を犯して捕縛された兎唇の六助の処刑場面である。この場面に心を揺さぶられない読者は、おそらくいないだろう。

 いかにそれがむごたらしくとも、みずからかけがえのない物語を所有できるのは、ただ下方の非所有者だけであるという物語の倫理は、わたしたちを強く撃つ。

 そして、『浅草弾左衛門』の終わりには、弾左衛門の少年時代の友である余の低いつぶやき声が聞こえている、「どんな憲法やろうと、わいらにゃ関係あらへん」。

                              (小学館文庫、第四巻解説)

 

新町の灯心長屋で育った、六助という兎唇の男がいた。唇が裂けているため、息が抜けて発音が明瞭でない。姉の「おしろ」は、弾左衛門屋敷に奉公するうちに、弾左衛門のお手つきとなって寵愛を受けているようだ。六助は弾左衛門に反感を抱く。そうして、唇のコンプレックスを抱いたまま新町を飛び出し、余の子分になる。以後、余やその相棒お願たちとともに無頼の生活を送る。しかし六助は、そのコンプレックスからとうとう強姦殺人事件を起こし、お縄になってしまう。

ちなみにこの灯心長屋が、新町のどのあたりにあったのかいまだ不明である。とはいえ灯心は、皮革製品とともに、弾左衛門を経済的に支えた独占商品だ。その長屋で育ったのだから、六助は、おとなしく灯心職人としての一生を送ればよかった。

だが六助は、身分的な制約さえ我慢すれば、穢多として守られてもいる囲内の中の生活を捨て、新町を飛び出していく。そもそも生まれながらの兎唇という障害が、六助の内部に外部の視点を芽生えさせてもいたのか。六助は、片腕の余とともに、自らの物語を生きる決心をする。

身分の囲いから飛び出した六助や余のみが、むごたらしくとも無頼の限りでも、みずからの物語の所有者となれる。その意味では、弾左衛門こと弾直樹個人が、もっともみずからの物語から疎外されていると言えるのかもしれない。

そのことは、小太郎から弾左衛門になったばかりの青年の頃、町方の少女との恋愛物語の放棄として、小説の初期の頃、これもまたむごたらしくも悲しい場面として描かれている。ドラマツルギーの最高に高まる名場面なので引用したいが、引用ばかりになるので抑制して、六助処刑の場面を見てみよう。

浅草新町には、穢多と穢多身分以下、非人などの裁きの場であるお白州や、牢、処刑場もあったことは先にも紹介した。そのお白州の上で、六助は当の弾左衛門から判決を受ける。ちなみに六助は死罪だから、一応は町奉行にお伺いを立てた上での判決ということになる。

六助は捕縛の直後、穢多身分を隠していた。新町を飛び出した上での犯行だから、町民としての扱いを受けた。しかし、六助が身分を明かしたとたん、新町牢に移される。そこは町方の牢と較べて、汚く臭かった。だがまぎれもなく、そこが六助の「ふるさと」だったのかもしれない。六助は、新町で生まれ、新町で死ぬ。

 

 錠が音を立てて開く。

 すでに牢内の者は畳に正座し、固唾を呑んでいる。

「お仕置者がある。弾左衛門どのお掛り、浅草新町六助、三十五歳、昨元治元年六月入牢」

 外鞘に立ったまま鍵役が声高で呼んだ。貧相な老人だが、急に大丈夫になったみたいだ。

「へいっ、おります」

 牢名主が哀れな声を装って、かすかにこたえた。

「ご用につき、その者を出せ」

 鍵役が命じた。

   〜中略〜

「行ってこい」

 牢名主が近づき、紙でつくった数珠を手渡し、カネを六助の口にふくませた。

 外鞘に出ると、切縄をかけられた。

 六助は顔をねじり、必死に牢内の者を見た。朝黒い顔がいくつも、六助を見送っていた。

「ほかに、ご沙汰はない」

 鍵役が内鞘【牢房】にむけていった。

「え、ええい」

 牢名主がいい、

「え、いいい」

 内鞘の一同が耳も聾さんばかりの声をあげた。

 六助の胸のうちが、その声にこだまして、打ちふるえる。お別れだった。

 小伝馬町牢屋敷にあるのと同じような土壇場にこれから連れて行かれる。新町牢のそれはまだ見たことがない。が、それを目にするときが、六助の最期だ。

 白衣の非人三人が待っていた。

 面紙がつけられた。

 余を真似て、ちっと唾を吐く力もなかった。暑くもないのに、脂汗がにじんだ。額に、喉に、背に、掌に。

「た、助けてくれえ。死ぬのはいやだ!」

 六助はわめいた。弾左衛門にまで聞こえるように大声で叫んだ。

 

鍵役は、牢の管理をする役のトップで、「伴次」という名前を代々世襲する。このとき「外鞘」から六助を呼んだ「貧相な老人」が何代目かは分からないが、弾左衛門が十三代目なのだから、同じ程度に続いたお役目を、この老人も勤めている。

金を口にふくませるのは、首が落とされた後、きちんと血を洗ってもらえるように、土壇場で役目の非人に渡す金だ。その他、牢名主の存在や、白衣を着て非人が処刑の手伝いをしたりするのは、町方の牢と基本的には変わらない。

新町が特異なのは、穢多身分と配下の賎民のみが住む囲内で、穢多頭弾左衛門が裁き、穢多の鍵役伴次が管理する新町牢は、外部から見ると、二重三重のヴェールに包まれた秘匿空間だということだ。

そのことが象徴的に現れたのが、幕末天保期に起きた、武州鼻緒騒動事件だった。

現在の埼玉県越生で起きた、この農民と穢多身分の騒動で、約百人の穢多が新町に連れてこられ、町奉行→弾左衛門の裁きを受けることになった。最後の弾左衛門が、小太郎から弾左衛門に襲名した直後のことだ。

しかし、奉行が弾左衛門に密かに命じたのは、騒動を起こした首謀者を含む、約半数五十人の穢多の毒殺だった。騒動の一方の相手側、武州の農民たちは、ほとんどお咎めなしだったのに。

メチャクチャである。幕府が、これ以上騒動を大きくしたくなかったとはいえ、丸出しに差別的だ。いくらなんでも、小伝馬町にあった町方の牢で、そのような不条理は行なえないだろう。新町囲内だからこそ、無理も無茶も行なうことが出来たとしか思えない。

 

 武州鼻緒騒動と弾左衛門

鼻緒騒動事件が起きたのは、天保の改革(天保12〜14年)の嵐が吹き荒れるさなか、天保13年のことだ。

改革を強引に推し進めた水野忠邦は、小太郎が弾左衛門に襲名する天保11年の前年、老中首座についている。賄賂と出世欲だけで、この駿河の小藩大名[30]は老中の地位を得て、さらにその最高位にまで登りつめた。

水野と対極にあるかのような大塩平八郎は、水野が老中首座に就任する二年前、天保8年に「大塩平八郎の乱」起こしている。その後、大阪の町屋に一ヶ月潜伏し、捕方に追い詰められ義理の息子とともに爆死した。義憤を抱き、不正を糺そうと、命を賭したと言われている。それを、弾左衛門になる前の少年小太郎が、故郷の住吉村で風聞として耳にしていた。小説の最初期、天保青春篇「小太郎出府の巻」に詳しく書かれていることは、すでに述べた。

ちなみに、大塩平八郎が批判の矛先を向けた大坂東町奉行は、水野の実弟跡部良弼であった。天保七年の大飢饉で大坂に多数の餓死者が出たのに、跡部はなんら救済策を講じず、かえって江戸に大量の米を回送し、豪商らの暴利を博した。これに憤慨し、平八郎は直接行動に出たのである。

大塩の乱は武力によって平定されたが、その影響は大きく、幕府に与えた衝撃もはかり知れないものがあった。与力職にあった幕臣が反乱を起こすなど、あり得なかったのである。この乱の余波として、越後の生田万(いくたよろず)の乱[31]など、各地でも暴動が起きている。    

大塩の乱では、大坂の渡辺・飛田の皮多村からも、多数の賤民が付き従ったとされる。[32]農民や町民だけでなく、広く賤民の層にも、「幕政危うし」の観は共有されていたのかもしれない。

 

水野忠邦の天保の改革は、はっきり言って悪政である。時代遅れもはなはだしい。

天保期は、1830〜1844年。もはや幕末のこの時期、すでに江戸・大阪を中心にして、市場経済は活発に機能していた。天保の少し前の文化・文政期、都市を中心にした市場経済の後押しを受けて、江戸町民文化は徳川三百年中、最も花開いたことになる。

塩見鮮一郎『禁じられた江戸風俗』から引用してみよう。

 

 山東京伝は洒落本を書き、四世鶴屋南北は『東海道四谷怪談』を上演し、滝沢馬琴は『南総里見八犬伝』という奇想の歴史大ロマンをものにし、弥次さん喜多さんの十返舎一九、大奥を風刺したといわれる柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』、狂歌の蜀山人大田南畝、一茶に良寛、浮世絵の歌麿・写楽・北斎・広重ら、ああ、かれらののこしてくれたものが、その後の人をどんなに楽しませてくれたか。名を列挙しただけで昂奮してくる。ほかにも、音曲、役者、あたらしく生まれた寄席、両国橋の東西の広小路、浅草寺奥山の大道芸の隆盛がある。これはもう、芭蕉や西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、菱川師宣、初代市川団十郎らの元禄のはなやぎをはるかに凌駕していて、日本史の中でも特筆される奇跡の三十年である。

 

だが、栄華は永く続かなかった。続く天保期は、地震や凶作によって各地に飢饉が発生し、先述したように、逼迫した農民による一揆や、物価の高騰に苦しむ町民による米騒動が多発する。

また、アジアを植民地化しようとする西欧列強の影が、ちらほらと波の向こうに見え隠れし始めていた。それがいっそう、人びとの不安を煽る。いわゆる内憂外患の時代の幕開けであった。

幕府の財政は悪化する一途となった。稲作に代表される農業の生産力が土台の徳川幕府だから、気候の変動が、農業経済に直接影響するのは避けられない。物価は高騰を続け、食えなくなった農民が、都市へと流入するのをとめられなかった。穢多身分も食い詰めて、都市へと職を求めて入ってくる。幕府は、弾左衛門に命じて野非人狩りをし、江戸の外へ追放するなどを繰り返しているだけだ。根本的な解決にはつながらない。

そのような時代情勢のなか、改革と称して水野が行なった政策は、ただひたすら人々の奢侈を戒め、倹約を押しつけるのみだ。[33]天保の改革以外に、江戸の三大改革として、享保と寛政の改革があるが、享保から百年、寛政から五十年が経っていても、幕府=水野の行なう政策は、ただ倹約あるのみ。ナントカのひとつ覚えである。

文化・文政の奇跡の三十年を経験した町民にとっては、たまったものではない。市中に隠密廻りが暗躍し、料理茶屋や歌舞伎などの芝居小屋、はては吉原にまで奢侈禁止の手が伸びた。この時期歌舞伎座は、日本橋から浅草寺のさらに北、猿若町に移転を余儀なくされている。

弾左衛門ら穢多身分に関係のある政策としては、物価の高騰を抑える目的で行なった株仲間解散令のあおりで、灯心の専売も禁止されてしまったことだ。小太郎が継いだばかりの弾左衛門家や、新町囲内の経済も、大打撃を受けた。

 

武州鼻緒騒動は、その株仲間解散令の影響と、以上のような時代背景のもとで起きた事件だった。

事件のきっかけは、武州長瀬村の穢多身分の男と、農民との間に起きたごくごく小さな小競り合いに過ぎない。長瀬村の近隣、越生今市村でその争いは起きた。

長瀬村は、竹細工や竹の皮などで作る鼻緒の生産地だった。その商品を、近隣の農民に売る権利を有していた。灯心の専売と同じく、穢多身分に与えられた権利だった。

ところが、越生今市村の農民の側が、穢多の作る鼻緒はいらないと突っぱねた。その頃、農民もまた、商品として現金収入の元になる鼻緒の生産を始めていたのである。農民も、副業に手を染めねば食えなくなるという状況にあった。株仲間解散令や灯心の専売禁止などが影響して、鼻緒の生産販売の特権を、長瀬村の穢多たちは失っていたのかもしれない。

この小さな争いが、とうとう地域の穢多と農民の全面抗争の様相を呈してしまった。お互いに譲れないほど、逼迫した状況にあったのかもしれない。また、穢多身分が大勢終結して、何をかや訴えんという気運が高まっていたのかもしれない。

偶然か、もともとこの事件の伏線なのか、鼻緒騒動のおよそ一年前、この地方の穢多身分の主だったメンバーが密かに集結し、団結と連帯の議定(決議)を確認していた。[34]この時代、もっともご法度の行為である。その一年後に起きた小さなトラブルが、あっという間に大きくなり、五百人もの穢多身分が農民との全面抗争に集結した。一年前、ひそかに交わした団結の議定が生きたのである。

しかし、その結末は、新町牢のところで先述した通り不公平なものであった。幕府はこれを、前代未聞の穢多の一揆ととらえ、大弾圧に出た。ただ、これ以上の暴動の拡散を防ぐためか、弾圧は大っぴらな処刑などのかたちをとらなかった。

江戸に送られ、弾左衛門の新町牢に入れられた約百人の穢多身分に、一年後、それぞれ判決が出ているが、その頃には、ほとんど主要な被告人は獄死している。獄死した場合、刑は一等軽減される。罪は多少軽くなっても、実際は、暗く汚い牢で、毒を盛られ苦しみながら死んだのだ。誰もがそれを知っている。知りながら大っぴらには口にできない。

弾左衛門が、奉行に命じられるまま毒を盛ったのが真実だとすれば、あまりに痛々しい事件の結末であった。

 

このときの判決を下した江戸町奉行が、大塩の乱の原因を作った張本人、かつての大坂東町奉行跡部良弼だった。大塩の乱から四、五年を経て、なんと跡部は、大坂から栄転したことになる。

普通なら失脚は免れられないはずの跡部が江戸町奉行に就任したのは、実兄の老中首座水野忠邦の力に負うことは明らかだ。その跡部が、弾左衛門に、穢多身分の毒殺を命じたのだろうか。「毒をもって毒を制する」とか、「蛇の道は蛇」などと言いながら。

水野が推し進めた改革の強力な助っ人は、実弟跡部の他に、「妖怪(耀甲斐)」と恐れられた鳥居耀蔵(甲斐守)、「遠山の金さん」で有名な遠山景元らがいた。いずれも町奉行として、改革の辣腕をふるっている。

 妖怪鳥居耀蔵などは、天保9年の大塩の乱の時、目付として跡部の下で乱の平定処理に力を発揮している。天保10年の「蛮社の獄」では、渡部崋山、高野長英らを弾圧・捕縛して、蟄居・永牢に処し、やがて死に至らしめた。これらの功績を買われ、水野忠邦により町奉行に抜擢されるのである。目付時代からお得意の、密偵、隠密を駆使して町民を見張り、少しでも違反があると、容赦なく獄にぶち込んだ。

イレズミ奉行遠山金四郎だけは少し肩入れしたいところだが、彼とて改革の急先鋒である。歌舞伎座の日本橋から浅草猿若町移転の際のゴタゴタでは、水野忠邦と江戸庶民の間に入って尽力したようだが、やはり遠山も、水野の片腕となって働いたことは否めない。

跡部。鳥居。遠山。みな、弾左衛門と因縁浅からぬ奉行たちである。

弾左衛門は長吏頭として、隠密廻の下働きに手下たちを差し出し働かせただろう。捕方や取調べ、裁判、処刑など、奉行→目付→与力→同心→弾左衛門→長吏→非人という江戸時代の警察機構の末端で、弾左衛門もまた働いているのだ。

十三代の弾左衛門こと我らが小太郎も、弾左衛門就任直後に武州鼻緒騒動が起こり、奉行に命じられるまま多くの穢多身分を死に至らしめることになる。ほんの二、三年前まで、毒を盛られ獄死させられた穢多身分の者たちと同じく、貧しい摂津の住吉村で、鼻緒作りに精を出していたかもしれないのだ。そうだとすれば、小太郎こと十三代弾左衛門の心中、察してあまりある。

 

結局、筆者がこの事件で強く印象づけられたのは、新町囲内の浅草弾左衛門という穢多身分のトップといえども、徳川幕府権力の意のままに踊らされる、操り人形に過ぎないということだ。

弾左衛門家に1万石の経済力があっても、26人の供を従え奉行の代わりに市中見廻りを勤めようとも、弾左衛門に本当の自由や、おのれの意思を貫く機会はない。それが、長吏頭として、幕府権力に付き従うものの宿命でもある。その代償として、様々な特権や囲内内での「囲われた」自由が得られるのだ。それは、鎌倉幕府に従って、摂津国池田(火打村)からやってきた頃から、本質的には変わっていない。

余や六助は、穢多の特権や囲われた安全を放棄し、おのれ独りの生を生き抜く選択をした。

反対に弾左衛門は、制度にがんじがらめのまま、幕末の徳川崩壊の危機に突入しようとしている。

だがここで、突然変異が起こった。

小説では、次のような場面が創造される。長瀬村の穢多身分の者たちを、奉行に命ぜられるまま毒殺することを、弾左衛門自身が決意する場面である。

 

濃くなった線香のにおいのなかに、彼はなおしばらくうずくまっていた。座敷は暗く、蝋燭の炎だけが語りかけてくる。

光の届かぬ座敷のすみに天邪鬼が這った。大きな鼻、耳まで裂けた口である。奥山の見世物小屋にいる畸型の小人のようなからだだ。手足は短くてふとい。浅黒く汚れている。

客は指さして笑う。

天邪鬼は笑われる。

笑われ、嘲笑されれば、天邪鬼の勝だ。一文銭がぱらぱらと飛んでくる。

穢多は天邪鬼にそっくりだ。這いつくばり、嘲笑されて生きる。騙されて生きる。仁王さまや四天王さまの重い足に踏んづけられて生きる。だが、天邪鬼こそが、仁王さまや四天王さまを支えているのだ。天邪鬼が逃げだせばどうなる。

  〜中略〜

彼弾左衛門は、その天邪鬼と仁王さまの足のあいだに在る。仁王さまがもし草鞋をはいているならば、その草鞋が弾左衛門だ。仁王さまの足を守るとともに、天邪鬼の背を痛みから守っている。

長瀬村の天邪鬼が草鞋などいらぬといい、勝手に一揆を起こすなら、それもいい。そのとき、仁王さまの足の爪は、直に天邪鬼の背にくいこむだろう。その背の皮が爪に裂かれ、肉が抉られ、血が噴きだすだろう。それが理よ。

それでもよいと天邪鬼がいうのなら、それでよい。草鞋などいらぬというのなら。草鞋であることに彼は恋々としているわけではない。いつでもやめてやるわ。

だが、草鞋は、仁王さまだけでなく天邪鬼からも必要とされてきたのだ。長瀬村の天邪鬼が、いらぬといっても、陸奥から関八州、駿河、甲斐、それに全国に散らばる天邪鬼が必要としているのだ。

ならば、たかが長瀬村の天邪鬼数十人のために草鞋が破られ、捨てられてしまうのを許すわけにはいかぬ。そのことで、他の数多の天邪鬼の背が血を流すのをよしとするわけにはいかぬ。このわが手で長瀬村の天邪鬼に毒を盛っても、他の天邪鬼のために草鞋を守る。そのため、殺された天邪鬼の妻や子が、わしをいかに怨もうとも、致し方あるまい。そのため、わしが地獄に落ちても。

 

 弾左衛門は、否、弾左衛門だけが、天邪鬼でもなく、仁王でも四天王でもない。その狭間で、両者のために苦しみ抜く草鞋だ。天邪鬼は、天邪鬼としてふるまえばよい。仁王も四天王もそれは同じだ。彼、小太郎こと弾左衛門だけが、草鞋として、その両者の狭間で、背も腹も痛め、血を流さねばならない。

ぎりぎりの経験は、これまで考えもしなかった奇蹟を生む。

このあと、最後の十三代弾左衛門は、初代弾左衛門以来まったく経験したことのない、初めての大規模なクライシス、天と地が引っくり返るような転換期を生きようとしている。あらゆる価値が一度ご破算になる。そのとき、職掌のトップにある弾左衛門個人が、ポコッと何かを突き抜けるように、目覚めたのではないか。単独者=個の自覚である。

すると、最下層の賤民のさらに最下層にある余と、トップを突き抜けた弾左衛門が、奇妙な相似形に見えてくるから面白い。小説では、弾左衛門が明治22年に没するまで、二人は出会うことすらなかったのに。

これもまた、歴史小説の快楽である。作者と読者の想像力がシンクロして、新たな発見をする。

弾左衛門は、近代文学の誕生などのはるかに前に、単独者=個として目覚めていた。それを原動力に、穢多身分の賤称を返上する運動にまい進していく。解放令は、もうすぐそこである。

 

解放令と弾左衛門 

とうとう『浅草弾左衛門』も最終節となる。マラソンでいえば、ゴールのスタジアムがそろそろ見えて来る頃か。

だが、その前に、このマラソンコースには、最後の最後に、心臓破りの長い坂が待っていた。それが、「賤民廃止令」[35]や「賎称廃止令」などとも言われる、「解放令」という長く急な坂だ。この坂を、解放令の研究史を背負って走り切る自信は、筆者にない。

さすがに、近代部落解放史の出発点となるこの解放令は、様々な角度からの研究が積み重ねられている。また、そうであるわりに、この法令が、いかなる経緯で、どんな目的を持って発せられたのか、いまだに議論の余地を残しているようで、歴史研究のド素人である筆者が、なにかを言えるようなシロモノではないのだ。

 とはいえ、幕末維新期を生き抜いた最後の弾左衛門といえば、解放令をめぐるドラマは外せない。小説『浅草弾左衛門』も、このゴール前のクライマックスに向かって、長い道のりを走ってきたのだ。多少長く急な坂とはいえ、登らないわけにはいかない。

 そこで、多々ある解放令研究の成果を横目に見ながらも、ここは我らが小太郎弾左衛門の視点に寄り添って、コースからあまり外れないよう気を配りながら、心臓破りの坂を登りきってみようと思う。

 

太政官布告・個別第一号「解放令」
(明治4年8月28日)
東京都人権プラザ展示室(台東区橋場)

 

さて。解放令が出たのは、実は明治も4年になってからだ。意外に遅い印象である。

それまで明治新政府は、維新後のゴタゴタの中で、この国のカタチをどうデザインするかで、侃侃諤諤の議論があった。廃藩置県、租税改革、地租改正、戸籍制度、徴兵制度、学校制度。決めなければならないことは山積みだったのだ。その中に、解放令をめぐる論議も放り込まれている。お手本にする欧米列強諸国の先例はあったとしても、大変な作業だ。

それから百五十年を経て眺めてみると、入れ過ぎた洗濯機のように、洗濯物のひとつひとつが複雑に絡み合い、解きほぐすのが大変である。解放令研究は、この作業に終始している観がある。何がどう絡まって、明治4年の8月、解放令がポコッと生み落とされたのか。

 しかし、そこには重要な問題が含まれている。解放令が、真の意味で賤民の解放につながるものだったのか、その後の近代被差別部落の重い課題を考えるとき、重要な論点となるからだ。

いったい、日本の近代の出発点において出された賤民の解放令は、アメリカの黒人奴隷解放宣言(1862年)[36]のようなものだったのか否か。国家の黎明期、解放令はいかなる理由と目的で発令されたのか。そこを知りたくなるのも当然だ。

いきおい解放令研究は、維新後数年の新政府の動向に注目が集まりがちである。この時期、旧幕府軍の抵抗が、明治2年5月の函館戦争終結まで続いたし、不平士族の反乱も鎮圧しなければならない。そんな不安定な情勢の中、公議所が出来たと思えば、集議院にとってかわり、官制のシステムも定まらない。洗濯物は、まずます複雑に絡み合う。それをまず解きほぐさなければならないのも、わからなくはない。

しかし、である。だからといって、多くの解放令研究が、「プレ解放令」とも言うべき、維新前夜の弾左衛門の功績を無視していると、塩見鮮一郎は憤ってみせる。いったいどういうことか。まずはそこから見てみよう。

 

  慶応四年の春は幕府瓦解の直前であるものの、その賤称廃止の)措置は新政府によって引きつがれているのだから、解放令はここから始まったとしなければならない。それなのに、いま流布する賤称廃止議論のほとんどは、右の事実を無視している。おおくの研究は維新後にできた公議所での談論から始まるのだ。また役人が書き残した資料ばかりを重宝して、当事者の部落民の意識がいかに革新的であったかは語られない。家財を投じてどれほど懸命に努めたか、どう動いたかは記されない。

明治四年の「解放令」が実現する思想的な根拠はこのときすでにできていたので、後世の研究が弾左衛門役所の動向にふかく注意をそそがないのは遺憾というしかない。「弾左衛門」というむかしふうの名から講談に出てくる博徒でも想像していたのか。賤民をたばねる賤民になにができるのかと、近代の学者は心のどこかで思っているのか。    

(『解放令の明治維新』河出ブックス、2001年。カッコ内、傍線、引用者)

 

傍線部「ここから」「このとき」というのは、解放令からさかのぼること三年半、慶応4年(1868年)春のことである。

前年10月、大政奉還。12月、王政復古の大号令。明けて慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が始まる。幕府軍は敗走し、1月6日、将軍慶喜は大阪城から脱出、軍艦で江戸へ。

そんな混乱のさなか、1月13日、町奉行から、弾左衛門の身分引上げの申し渡しがなされた。まずは弾左衛門ひとりが、穢多ではなくなったのだ。三百年近く前の1590年、家康に穢多頭として任命されてから十三代。とうとう醜名を返上し、穢多身分から平人へと引上げられた。[37]

幕末の混乱に乗じて、ではあるものの、我らが小太郎弾左衛門が、身分引上げを勝ち取ったのである。「ここから」「このとき」は、この歴史的な瞬間を言っている。これをスルーして解放令を語るなぞ、ありえないではないか! と憤慨しているのだ。

このときの経緯を詳細にここで述べることはしないが、どうやら将軍の奥御医師、松本良順が一枚かんでいるようである。弾左衛門の財力や彼の配下、穢多、非人身分の人材動員力を、アテにしたのがその理由だ。松本からすれば、まだまだ弾左衛門には幕府のために働いてもらいたい。新政府薩摩の手も、新町にまで伸びてきている。彼らとて、弾左衛門のカネと動員力を利用したがっている。薩摩に取られてなるものか。

松本は、交換条件として、弾左衛門の身分引上げに尽力すると約束した。将軍と、簡単にお目見え出来る立場なのだから、松本からすれば、「ま、俺にまかせとけ」とでも言って胸を張ったのだろう。

経緯を詳細にと書いたが、実際は、松本良順が維新後の明治35年に出した自伝[38]しか、文献資料がない。弾左衛門の身分引上げは、本当のところはどういう経緯だったのか、詳しくは分からないのが実情である。松本の自伝によれば、彼の力によるところ大、となるのだが、自己顕示欲の強い古希老人の懐古自慢話的な自伝と考えると、だいぶ眉にツバつけて読まねばならない。

しかし、弾左衛門が奉行に出した文書は残っている。実際、誰がどう動いて、どういう政治力学が働き、弾左衛門のお伺いが実現したのかは分からないが、我らが小太郎弾左衛門が、このとき何を考え行動していたのかは、文書からじゅうぶん読み取ることが出来る。

少しだけ引用してみよう。

 

雖然無智文盲之愚夫愚婦只御国恩を報候と計ニ而は大義之説得行届兼候辺も可有之歟、是迄数百年之流弊ニ而、穢多と申名目より境界相成居候事、天地間ニ生を受候人種ニ替りは無之処、人倫之交も不相成は、誠ニ以歎ケ敷之極ニ御座候。仍而私支配下之分差向出格之以御仁恵二字之醜名一度御除被成下候

【大意】

  しかれども、なにぶんにも無知文盲の愚夫愚婦ばかりです。これまでのご恩をかえすときだといっても、すぐに説得しきれません。これまで数百年にわたる慣習で「穢多」という文字を使用してきたため、一般の人とのあいだに垣根ができてしまいました。この世に生まれた人間として人種にかわりはありません。それなのに人びととの交際が制限されているのは、まことになげかわしいことです。さしあたり、まずはわたしの配下の者から特別に、「穢多」という「二字之醜名」をいちど除いてください。

                              (前掲書。傍線、太字、引用者)

 

慶応4年1月27日。身分引上げの申し渡しから二週間後。弾左衛門が奉行に提出した「内願」と呼ばれる文書の一部である。全体を見てみると、実はとてつもなくスケールの大きな要求を、弾左衛門は幕府に突きつけていた。

この時期、鳥羽伏見、大坂と幕府軍は敗走し、新撰組と共に将軍も江戸に逃げ帰っている。幕府は、いつ新政府軍が江戸に攻め入って来るかと、戦々恐々としていた。しかも、頼りになるはずの旗本八万騎は、てんで役にも立ちそうにない。その状況を的確に読んで、弾左衛門は幕府に、「金も人も差し出しましょう。戦があるなら、銃隊を組織して戦わせましょう」と提案しているのだ。そして、その代わりと言っちゃあナンですが、とばかりに、配下の穢多身分の者たちを、自分と同様「醜名」を返上し、平人に引き上げてくれと要求した。

前代未聞、空前絶後。徳川開闢以来、未曾有の稀有な要求である。

徳川は軍事政権であり、武士を頂点に据えた身分制を土台にした封建社会である。武士ではなく、穢多身分が武器を持ち組織だった戦闘を行なうこと、そもそも最下層の賤民身分がなくなることは、徳川政権の築き上げてきた強固な牙城を支える石垣の崩壊を招きかねない。弾左衛門としても、徳川あっての弾左衛門制度なのだから、自己否定に等しい。

しかし敵はすでに奇兵隊、さらには屠勇隊[39]などを組織し、新式の洋式銃で武装させ、東に向かって進軍している。もはや徳川に選択の余地はなかった。もし、徳川政権がもう少し粘っていたら、弾左衛門によってすべての賤民の解放は成っていたのかもしれなかった。その出発点が、弾左衛門自身の身分引上げであり、それに続くこの「内願」の文章であった。

弾左衛門は、自分に引き続き、手代を含む67人の身分引上げを要求している。その一方で、新政権の動向も注意深く見極めている。徳川か。薩長土の新政権か。選択を間違って下手を打てば、自らの命の保障はない。

 

ところで、この文書の中に、「天地間ニ生を受候人種ニ替りは無之処」(この世に生まれた人間として人種にかわりはありません)という弾左衛門の思想的到達点を表す一文が出てくる。

「人種」とあるが、他の用例などを見ても、「人間」という意味と考えてかまわないだろう。驚くべきかな、維新後の福沢諭吉の天賦人権論に通じるヒューマニズムが、新町囲内で二十数年苦悩した弾左衛門の頭脳に芽生えている。

日本の近代は、ペリーの「砲艦外交」に始まる「外発的発展」の近代であり、その意味では不十分な近代化であった。自らの「内発的発展」を潜り抜けなければ、真の近代国家、近代社会、近代的個人は誕生しない。[40]近代を目標とするのがベストの選択かどうか、今となっては議論の余地があるが、そのような「内発的発展論」の議論になぞらえていうなら、このまま弾左衛門による身分解放が勝ち取られていたら、賤民による賤民のための「内発的解放」が成し遂げられたかもしれなかった。

しかし、残念ながらそうはならなかった。幕府が早く崩壊してしまったこともある。だが、それでも、我らが小太郎弾左衛門は、徳川に取って代わった明治新政府に対し、粘り強く交渉を続けた。

なにがあっても、我ら全員の「醜名」を返上し、平民として新しい世を生きられるようにしなければならない。だが、急激な解放は、農民との摩擦や衝突を生むだろう。私弾直樹ことかつての弾左衛門にはアイデアがある。私の配下の者たちを、一気に解放するのでなく、徐々に平民に引き上げてやって欲しい。そうやって少しずつならしていけば、今まで交際できなかった農民たちとも、うまくやっていけるだろう。

我らが小太郎弾左衛門、明治以降改名した弾直樹はそのように考えて、新政府に働きかけもした。

その結果はどうであったか。弾直樹の考えたような段階的解放論は、実現したのか。外国からの圧力や、賤民以外の「外部」の事情による解放ではなく、「内発的解放」はなったのか。

明治4年8月28日に出された、一般に「解放令」と言われる太政官布告を見てみよう。

 

   穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事

  【大意】

   穢多・非人などの称を廃される条文。今より身分職業とも平民と同様であるべきこと。

                        (『資料浅草弾左衛門』批評社、1988年) 

 

解放令とは、実のところ、ただこの一文のみである。

この短いのが一般あてで、もうひとつ、府県にあてての別バージョンが作られた。

 

同上府県へ

  穢多非人等ノ称被廃候条、一般民籍ニ編入シ、身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱、尤地租其外除蠲ノ仕来モ有之候ハゝ、引直シ方見込取調大蔵省ヘ可伺出事

 【大意】

  穢多・非人などの称を廃される条文。一般民籍に編入し、身分、職業ともすべて同一になるよう取り扱うこと。もっとも地租そのほかで免税のしきたりもこれまであったので、その訂正のしかたを各県で考えて大蔵省へ伺いに出ること。

                                  (前掲書)

 

やや詳しくなっている。というか、後者の府県あての別バージョン、「尤地租其外除蠲ノ仕来モ有」以下は、もろにホンネが出た。

「穢多非人等」の賤称は廃止する。「等」とあるのは、全国の賤民を「穢多非人」だけでは表現できないからだ。地方によっては、穢多をカワタと呼ぶところもあるし、乞胸、猿飼などの雑芸能を生業にする者たちも賤民だった。その呼び名は無数にあるので、「等」の一文字で済ませた。まことに日本語とは、便利でフレキシブルな言語である。

 結局、弾直樹の段階的解放論は無視された。そうではなく、一夜にして、すべての賤民が平民となった。喜んでいい。祝ってもいい。大酒を飲んで明日を忘れてもかまわない。中世から続く賤民身分の者もいる。気の遠くなるほど長い年月の間、「人交わり」が不可能だったのだ。それらすべてが、今日から解放された。平民と同様になったのだ。

だが待てよ、と弾直樹は思っただろう。維新後も彼を取り巻く、かつての弾左衛門役所の手代たちも、はたと条文を読み返しただろう。「地租そのほかで免税のしきたりもこれまであったので」と、付け加えられている。その訂正をせよとは、つまるところ、これからはひとしなみに地税を取られるということだ。これが新政府のホンネだったのだ。

地税だけではない。新政府は、徳川とは別のやり方で、賤民身分の者たちを国家のための国民となし、利用することにした。徳川から無税で与えられた新町囲内の土地は取り上げられ、灯心の専売権も、配下の小頭から徴収した年銀も失った。そもそも弾左衛門制度がなくなるのだから、配下も小頭もない。賤民だった者の子弟たちとて、これからは学資を取られた上、学校に通わせなければならないし、血税、すなわち徴兵制の対象にもなる。

一気に平民としたのは、どんなもっともらしい理由があったにせよ、それらすべてを円滑に遂行するためだった。当事者の事情などは斟酌されなかった。

早急に近代国家としての体裁を整えなければ、迫り来る列強の圧力に耐えられず、屈してしまったかもしれない。軍備を整える前に戦争となれば、欧米の近代的な軍隊に負けて、この国は植民地となり果てる。産業革命を経た欧米列強の国力、軍事力に対する知識は、黒船の頃とは比較にならないほど、具体的に身に染みるほど知っている。新政府に焦りがあったのは、仕方がないことなのかもしれない。

だが、それにしてもだ。この解放令の後の展開を思うと、他に方法はなかったのかと、暗澹たる気持ちにならなくはない。解放令は、実のところ、解放という名の弾圧に近い法令であり、それでいて各地の農民たちの解放令反対一揆を誘発した。解放されたばかりのかつての賤民たちが、憎悪に燃えた農民たちの突き出す竹槍で串刺しにされ殺された。女や子ども、老人でさえも。

近代被差別部落の差別が始まったのは、この解放令がきっかけであったとすれば、これほどの歴史のアイロニーはないだろう。なんのための解放だったのか。

解放令後に流されたおびただしい血を思いながら、弾直樹は何を考えたのだろう。維新後の弾左衛門家の存続に大あらわで、そんなことに斟酌する余裕はなかったか。いや、そうではないだろう。「天地間ニ生を受候人種ニ替りは無之処」という思想が、弾直樹の脳裏にはある。心を痛め、歯噛みしながら、維新前夜から解放令発布までの経緯を反復したにちがいない。これしかなかったのか。他に道はなかったのかと。

ただ、我らが小太郎こと最後の十三代弾左衛門、改名して弾直樹は、ヒューマニストであるだけでなく、いやそれ以上に実務家=リアリストでもあった。彼はアメリカからチャーリー・ヘニンゲルという名の皮革技術者を、超高額報酬と引き換えに呼び寄せ、かつての配下の者たちに、西洋皮革の技術を学ばせている。その皮なめしの技術はやがて、「茶利皮(チャーリー皮)」として結実し、軍靴などの製造に生かされる。

解放令以降、税を取るだけで何もしてくれない政府の代わりに、弾直樹はおのれの資産を投じて事業にまい進した。ヒューマニズムでは食えないが、江戸の経験を生かした新しい皮革産業を興せば、かつての賤民たちを貧窮から救うことが出来る。

それについても弾直樹は、書き出せばきりがないほど、紆余曲折山あり谷あり、さまざまに苦労したようである。詳しくは小説『浅草弾左衛門』の「明治苦闘篇」をお読みいただきたい。

 

 結び

 穢多・非人等を一気に平民にするという、ある意味アクロバティックな解放令が出された後、案の定、各地で暴動、反対一揆が起きた。被差別部落出身の作家として有名な中上健次も、そのときのトラウマ的な記憶を、襲われた部落の側から何度も描いている。大きなところでは、現在の岡山県で起きた、美作津山一揆。九州の筑前竹槍一揆。その他、暴動の類は数知れない。

 どうしてこのようなことになったのか。この問題については、第四章「西光万吉の浪漫 水平社宣言の衝撃」でもう一度検証するつもりだ。近代被差別部落の誕生と、明治四年の解放令は、密接に絡み合っている。

 

  近代化が農民と部落のあいだを引き裂いたのはあきらかだが、その時点で農民が敵対していたのは新平民ではなく、新政府であったのを忘れないようにしよう。

  農民は暗愚であったか。

  政府はだれのための新社会を創出しようとしているのか。くりかえせば、その後の日本の近代史はここからいまへ、同質に継続している。

                                  (『解放令の明治維新』)

 

明治新政府の政策は、賤民だけでなく、国民の多数を占める農民たちをも困惑させたのだ。一揆や暴動は、当初新政府に向けての怒りの表出だった。子どもを学校に取られ、お金を取られ、税金を取られ、兵隊に取られる。農民の怒りも当然だろう。だが、いつのまにかその負のエネルギーが、解放されたばかりの賤民たちに向けられ、近代被差別部落に対する差別感情として受け継がれることになる。

 

小説『浅草弾左衛門』は、この章の冒頭でも紹介したように、明治22年の弾直樹の死と、その四十九日後、余とサルの偶然の邂逅で幕を閉じる。

長い長いマラソンコースを、弾直樹はひとりで、孤独を内に秘めながら走りきったようだ。勝負に勝った負けたで言えば、弾直樹は負けたのかもしれない。時代や権力に翻弄された生涯であった。賤称廃止も賤民解放令も、危うい時代をうまく乗り切ったとも言えるし、まったく思い通りの結末はえられなかったとも言える。

弾家のその後は、ひっそりとしている。末裔が今もどこかで生きているはずだが、誰も知るものはない。自らが痕跡を消し、姿をくらましたのではなく、我々がその存在を「なかったこと」にした。

そのことを象徴するエピソードを結びとして、この章を終わりにしたい。

解放令の節で、東京都人権プラザに展示してある解放令の写真を紹介した。かつての新町囲内、今の浅草今戸には何度か足を運んでいるが、今回この稿を書くにあたって、人権プラザと、そのすぐ近くにある皮革産業会館の展示資料室を見学することにした。

このあたりで今も続いている皮革産業の歴史を、前近代から現代まで細かく分けて展示してあり、なかなか興味深いものがあった。現代では、王貞治やイチローのグラブやスパイクなどがあり、古いものは、戦国時代の武将の鎧、兜などの武具の数々だ。古今を問わず、「戦い」と関連する道具が多いことが、皮革製品の特徴でもある。そういうことが、文献資料ではなく、道具としてひと目で分かるというのは他に得難い経験で、ガラスケースの展示資料をじっくりと見てまわった。

筆者にはひとつ、期待を込めて探しているものがあった。それはもちろん、我らが小太郎弾左衛門、改名して弾直樹の皮革産業発展に残した痕跡である。江戸時代はこのあたりの皮革産業の総元締めだし、明治以降もこの地で軍靴を製造して、産業の発展に大きく貢献している。

ところが、である。いくら探しても、展示物の中に弾左衛門の「だ」の字も見つけられなかった。弾直樹の名前すらない。代わりに、西村勝三[41]が大きく取り上げられ、近代皮革産業の発展の功労者として紹介されていた。

西村勝三の業績を否定はしない。しかし、弾左衛門の名前が抹消されているのは納得できなかった。ここにも、「隠すこと」「顕すこと」の葛藤の末、「隠すこと」を自己選択した痕跡があった。

弾左衛門は、なかったことにされていた。小説『浅草弾左衛門』を読み、住吉村の小太郎少年から、幕末維新期を生き抜き、明治22年、弾直樹として生涯を閉じるまでを、時に彼の人生に寄り添うように、じっくりと眺めてきた者としては、淋しいことこの上ない。

そうして、ふと視線を関連図書の並んだ大きなガラス棚の方へやると、そこに小説『浅草弾左衛門』三巻と『資料編』一巻が、静かに背表紙をこちらに向けて置いてあるのに気がついた。ああ、ここもまた、否、こんな弾左衛門と縁もゆかりもある土地でさえも、弾左衛門に光を当てているのは塩見鮮一郎ただひとりかと思うと、複雑な気持ちになった。小説発表からそろそろ三十年。山城新吾が嘆いてみせた「開かれた日本」は、いまだ訪れていないのだった。

それでも、やはりそんなことはないだろうと、もう一度展示資料を隅から隅まで見直してみた。結局、本棚の弾左衛門以外、見つけることは出来なかった。

 


[1] 主人公が様々な体験を通して内面的な成長をしていく過程を描く小説。ドイツ語 Bildungsroman(ビルトゥングス・ロマン)の訳語。自己形成小説とも訳される。ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』、トーマス・マン『魔の山』、ヘッセ『デミアン』など。

[2] 批評社版全三巻(1986年〜87年)の他、小学館文庫版全六巻(1999年)がある。

[3] 関西では穢多ではなく皮多と言うことが多い。

[4] 住吉社も、海と関係がある古代海人族系の神様が祀られている。

[5] 『弾左衛門とその時代』「第三章 弾直樹の生涯」(小伝)参照。

[6] 猿飼と現代の猿廻しは、同じものを今に受け継いでいるわけではない。その意味では、江戸時代と非連続的に連続して、近代以降も続いた被差別部落と似ている。江戸の猿飼は、将軍家の馬の厄を祓うために存在した。現代のように、猿が芸を披露するようなことはしない。

[7] 弾左衛門を看取った妻「おさと」。

[8] 小太郎弾左衛門の実母「せん」。

[9] ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』参照。近代国家の誕生に、書き言葉の統一言語の存在は欠かせないとし、その際に果たした近代文学の働きを論じている。日本では、帝国憲法発布と同時期の明治20年、書き言葉と話し言葉を統一する言文一致運動が、近代文学の発生に寄与したとされる。落語家圓朝の口演筆記を参考にしたとされる二葉亭四迷の『浮雲』や、ツルゲーネフなどのロシア文学を翻訳した際の文体が、その後の近代文学の文体に影響を与えた。

[10] 文春新書『貧民の帝都』で、塩見鮮一郎が詳細に、明治の貧民とスラムについて論じている。明治の貧民は、幕藩体制の崩壊と、新政府の帝国主義への邁進の中で棄民された、かつての賤民たちが多く含まれる。

[11] 浦本誉至史によると、五代目吉次郎が幕府町奉行に「お目見え」する前に急死したため、幕府側は吉次郎が五代目弾左衛門という認識がなかった。ところが、弾左衛門家やその支配下の長吏頭たちの間では、すでに吉次郎は「お頭」という認識が生じていた。そのため、幕府側と長吏側に、代数の認識のズレが起きた。そこで、初代の集房を実名と法名に分け、わざわざ代数合わせをしたと説明される。

[12] 正確には、浅草新町に弾左衛門が住むことになったのは、正保2年(1645年)以降で、それまでは浅草鳥越、さらに前は日本橋尼店にいた。次々節「弾左衛門の始まり」参照。

[13] 『弾左衛門とその時代』「第二章 弾左衛門という制度」参照。

[14] 弾左衛門と、非人頭車善七は、江戸期を通じて何度も抗争を繰り返している。詳しくは次章「車善七」を参照。

[15] 灯心草、つまり藺草(いぐさ)は、莚(むしろ)や畳表に使われるが、白い髄は灯心になった。灯心は、ロウソクや油皿の芯のことで、この加工から販売までの権利を弾左衛門が一手に占有していた。幕府町奉行の「御仕置御用」を務めることの見返りとして得た権利である。灯心は弾左衛門に、莫大な利益をもたらした。

[16] 捨場ともいう。河原にあることが多い。簡単な杭を立て、縄を張り、馬頭観音を目印にした。

[17] 『弾左衛門の謎』(河出文庫)、106頁参照。塩見は、今も残る鎌倉由井家の墓と、江戸弾左衛門矢野家の墓を取材し、「丸に笹竜胆(ささりんどう)」の紋が同じだったことを報告している。

[18] 同書、70頁。

[19] 丹生谷哲一『増補 検非違使 中世のけがれと権力』(平凡社ライブラリー)参照。

[20] 雑誌『國文学 解釈と鑑賞』28巻5号。この特集号は、国文学の枠を超え、生物学、民俗学、社会学、言語学など、さまざまな分野の研究者が集い、「日本の東と西」の違いを多面的に論じた。 

[21] 批評社から出た復刻版のうち、塩見鮮一郎は、『別所と俘囚』(1996年)、『特殊部落の研究』(1993年)に解説を書いている。前者は「別所と東光寺の魅力」、後者は「起源論の水準」と題して、後に『異形とされた人たち』(1997年・三一書房、2009年・河出文庫)に収録。

[22] 1999年に三一書房から出た『喜田貞吉――喜田貞吉と部落問題』の増補改訂版として、2009年河出書房新社刊。

[23] 村井紀『南島イデオロギーの発生 柳田國男と植民地主義』『反折口信夫論』など。

[24] 『資料 浅草弾左衛門』(批評社版)参照。

[25] 共著『地図の記号論』所収。(批評社、1990年)。その中で、本論にも転載した「江戸切絵図」に、「穢多村」の表記が消されているのに気付かず、「その捏造を、わたしは不覚にもコピーしてしまったのである。慙愧の思いがする」と記している。

[26] 現在は今戸八幡社に合祀されているが、そのことは掲示板にも由緒書にも書かれていない。かつてこの地に白山神社があったことは、一般の参拝者には分からないようになっている。ちなみに、現在の今戸八幡は、縁結びの神様として若い女性の観光客で賑わっている。

[27] 森達也『放送禁止歌』(解放出版社、2000年。後光文社知恵の森文庫、2003年)。岡林信康『手紙』や、赤い鳥『竹田の子守唄』などは、上からの規制によって「放送禁止」となったと思われていたが、実はそんな規制はどこにも存在しなかった。それらはみな、メディアに関る個々の人々の判断による「自主規制」だった。

[28] 仏の思想家ロラン・バルトは、東京を、「中心が空虚」な都市として分析している。(『表徴の帝国』)西洋の都市は、中心に向かえば向かうほど真理(現実の充実)に近づく。東京は逆で、中心はまったくの空虚だ。我々は、自分たちの都市(文化)の、もっとも核心の部分に関しては、触れることも語ることも出来ないのである。

[29] 函館五稜郭で、土方歳三らと共に新政府軍に抵抗した榎本武揚は、明治初期にその能力を買われ政府要人に引き立てられるまで、弾左衛門の親戚の屋敷に匿われていた。新町ではなく、弾左衛門の妻の実家である練馬の穢多村だったが、そこで無聊をもてあましたか、榎本は女中に子を産ませている。

[30] 備前唐津藩、後遠州浜松藩藩主。

[31] 天保八年、国学者生田万が、門弟や農民たちと、越後柏崎で本陣を襲撃した一揆。前年の凶作で農民の貧窮を救うため蜂起した。

[32] 和気紀於は、『被差別部落の大騒動』(明石書店、1984年)で、「大塩は、『被差別部落民を人間として扱えば、彼らは喜んで命がけで働く』といっている」と書いている。

[33] 『禁じられた江戸風俗』参照。

[34] 岩殿山千手観世音に天水桶を奉納するという名目で、天保13年3月、近郷近在の穢多身分の主だったメンバーが講を組織し、ひそかに団結と連帯の議定を取り決めた。

[35] 上杉聰は、『明治維新と賎民廃止令』(解放出版社、1990年)で、「解放令という呼称には、実態と異なった過大評価があり、布告の美化につながる危険性がある」として、「賎民廃止令」という表現に統一したと述べている。その他「賎称廃止令」と呼んだりするのも、「解放」の二文字がふさわしいかどうか、疑問を持つからである。

[36] 1862年、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンによって、南北戦争終結の二年前に発布された宣言。終戦後、合衆国憲法に承認され、奴隷たちの解放は公式に確立された。

[37] ちなみに小説『浅草弾左衛門』では、弾左衛門が身分引上げになった直前の出来事として、余の積年の恨みを晴らすエピソードが書かれている。余の腕を切った浪人と偶然出会い、義手である金属のカギの手で浪人を殺す場面である。まったく別の出来事だが、両者の積年の思いを果たす印象的な場面として描かれる。やはり弾左衛門と余は、どこか似ている。

[38] 松本良順自伝『蘭疇』は、明治35年、古希の祝いに集まった人たちに配布された口述筆記の自伝。

[39] 長州の武士以外の階級出身者、農民町民そして賤民たちで組織された正規軍の部隊。当初、賤民階級の出身者は、屠勇隊として別部隊だったが、後に奇兵隊に合併された。

[40] 鶴見和子『内発的発展論の展開』(筑摩書房、1996年)参照。この議論は、途上国の開発援助などの理論に継承され、21世紀以降も活発に議論されている。鶴見和子(1918〜2006年)は「思想の科学」「ベ平連」などの鶴見俊輔の実姉。

[41] 佐倉藩側用人の子として生まれ、佐野藩で砲術助教を勤めたが脱藩。横浜で修行した後、慶応3年、江戸で伊勢勝商店を開業する。戊辰戦争では大総督府御用達として武器売買で巨利を得た。明治3年、伊勢勝造靴工場・製靴工場を設立して軍靴を製造。近代的製靴、製革産業の先駆者となった。

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