歴史小説のタブーと快楽

〜塩見鮮一郎の時代小説から賤民史を読み解く〜

第六章  作家塩見鮮一郎の「ふるさと」

〜モンゴルの大草原、ノモンハン、ハルハ河の彼方へ〜   

 

作家塩見鮮一郎のルーツはノモンハンにある、と私は考えている。

 ノモンハンとは「ノモンハン戦争」のことだ。従来「事変」あるいは「事件」と呼びならわされてきたものを、言語学者田中克彦の近年の説にならって、明確に「戦争」と、ここではいいたい。

1939年(昭和14年)の夏、太平洋戦争に突入する直前のこの戦争で、日本、中国、ソ連、モンゴル、あわせて数万人の将兵が戦傷死、あるいは行方不明になった。正確な数についてはいまだに定説がなく、不明な部分を残したままだ。

大日本帝国の傀儡国家満州で、日中戦争勃発以来暴走気味の関東軍と、モンゴル人民共和国を背後で操っていたソビエト連邦の正規軍。双方が数万人の兵力を動員し、激戦死闘[i]を繰り拡げた。戦場は、満州国とモンゴル共和国の国境地帯を流れるハルハ河両岸だった。

両国の国境をめぐる小競り合いに端を発した戦争である以上、当然ながら、満州国軍、モンゴル軍も国境を挟んで参戦している。だが、事実上それは、日本とソ連の正規軍による戦争であり、日本軍が初めて経験した、戦車や航空機を大量投入した近代戦争でもあった。

この、明らかな「戦争」が、日本では「ノモンハン事変(事件)」、一方ロシアでは「ハルハ河の諸戦闘」「ハルハ河の会戦」などと記述され、呼びならわされている。日本の場合だと、まるで極々小規模な戦闘が行われただけのようだ。事実、初めて教科書の片隅でこの「事変」について知った当時中学生の私は、ほんの些細な小競り合いが起きたとしか考えなかった。まだロシアの方が史実に近い。

一方モンゴルでは、一貫して明確に「ハルハ河の戦争」と定義しているのは、この戦争が、モンゴル民族の領土で戦われたからである。この地域では、日本、ソ連、中国と、大国がこぞって国境線を引いては直したが、戦いの舞台となったノモンハンやホロンバイルの草原は、そもそも蒙古民族の遊牧に利用されてきた土地である。兵士たちや軍馬の血に染まったハルハ河は、放牧した羊の喉を潤す貴重な水流だったのだ。

そこに、両軍合わせて数万人の将兵と、数百輌の戦車、数千もの野砲、さらに数百機の戦闘機、爆撃機をつぎ込んで、爆弾、砲弾、銃弾を雨あられのごとく降り注ぎ、大草原を蹂躙し大地を汚した。

関東軍よりも、数倍重火器装備に優れていたソ連軍の砲撃によって、「高地」と呼んでいた小高い山がすっかり消えうせてしまったと、日本側の記録にある。起伏の少ない草原の小山とはいえ、数十メートルくらいの高さはあったのだ。いかに激しい砲撃が加えられたか、そのことからだけでも想像しうる。

モンゴル側から見れば、これは「戦争」以外のなにものでもないのだ。

激しい戦闘の末、動けなくなった戦車や大砲が、70年以上が経過した今でも数多く草原に無言でうずくまり、乾いた風にさらされている。大地には、砲弾や薬きょう、不発弾などとともに、回収されなかった遺体が、無数に埋もれ白骨化しているはずである。

なぜ日本側は、この明らかな「戦争」を、「事変」や「事件」としてきたのか。

先述した田中克彦によると、

 

 この軍事衝突は単なる事件(インツィデント)を越えた、明らかに戦争であるのにそう呼ばないのは、この戦争が、双方の間に宣戦布告なしに、いわば非公式に戦われたからにほかならない。この非公式性という点から見ると、日本の空爆隊が6月27日に、国境から130キロほども奥深く入ったモンゴル領の空軍基地を爆撃したのは、「大命」、すなわち天皇の命令も許可もなく、こっそり行った違法行為であるから、公然と戦争と呼び得る資格を欠いていたのである。しかも戦場に大量の瀕死の重傷者と屍体を残して撤退したのであるから、戦争をしかけた当事者は、あくまでも「事件」という、うちわの話にとどめておきたかったのである。

(『ノモンハン戦争』)

 

明らかな「戦争」であっても、それを隠蔽し「事変」(事件)として済まそうとした。

捕虜となった兵士たちは、停戦後の捕虜交換によって戻ってきたが、厳重な緘口令がしかれている。彼らは、本土への帰国がかなわないまま、日ソ国境地帯や南方の激戦地に送られ、戦死した者も数多い[ii]。また、前線で指揮した中隊長クラスの将校は、多くは戦死したが、生き残ったとしても「敗戦」の責任を問われ自決を強いられている。

兵たちの口を封じ、中間管理職クラスの将校が詰め腹を切らされたのだ。

当時、「無敵の関東軍」が敗北することはありえなかったし、あってはならなかった。

ノモンハンの作戦参謀だった辻政信が、太平洋戦争後に記した『ノモンハン秘史』で、「戦争は負けたと思ったほうが負けなのだ」と、無茶苦茶な論理を開陳している。「負けた」事実を隠してしまえば、それはなかったことになると、暗に辻はいっている。あとは愛国や憂国といった精神論で押し通す。

私たちは、このような辻の「非論理的論理」を、一笑に付すことは出来ない。なぜなら、その後、同様にして多くの史実が隠蔽され、なかったこととして歴史の闇へ葬られようとしたからだ。

歴史は何度でも繰り返されたし、戦乱の世紀を越えておよそ10年後、3・11東北大震災と大津波、未曾有の原発大事故を被った今この時もまた、繰り返されようとしている。

ともあれ、この関東軍の体質が、「ノモンハン戦争」の2年後、全ての日本国民を巻き込んだ無謀な太平洋戦争に突入させることになった。ノモンハンで流れたおびただしい血は、その後の歴史に生かされることはなかった。それどころか、新たなノモンハンを、南方の激戦地やソ連との国境地帯で、無意味に反復することになる。

これはもはや、私たちのDNAに滲みこんだ何ものか、なのだろうか。

この論稿で徐々に明らかにしていきたい隠れた主題でもあるが、先走りは自重して、冒頭の一文にいったん戻らなければならない。

作家塩見鮮一郎のルーツはノモンハンにある。

ひとまずそれは、1938年に生まれた塩見が1歳のとき、父親がこの戦争で戦死しているからだ。父親の死について、作家は詳細を語ってはいない。だが、1983年に発表された長編小説『ハルハ河幻想』に、父親の戦死と残された家族について、作品上の人物に託して詳しく書いていた。

それは、作家が、歴史の闇に埋没させられていた実在の人物、江戸の穢多頭「浅草弾左衛門」を掘り起こし、長編歴史小説として世に送り出す直前のことだった。

 

小説『ハルハ河幻想』は、塩見が編集者を辞し(79年退職)、筆一本で立とうと志した時期に書かれている。

執筆順に並べた著作年表(単行本のみ)を見ると、学生時代から上京、河出書房に就職後も小説を書き続けていた塩見が、退職後数年間は、『影のような男』と『ハルハ河幻想』しか小説を執筆していない。同時期、雑誌等に発表されたものを見ても、退職から84年の『浅草弾左衛門』までのこの時期に書評や評論が多いのは、当面の糊口をしのぐ必要からだろうと推測できる。

だが、それにしても、『言語と差別』『表現の装置』『都市社会と差別』のような小説以外の理論的な仕事に傾倒しているのは、塩見が、おのれの作家としての揺るぎない土台を築こうと模索していたかのように、私には見える。

その意味で、この時期に書かれた小説『影のような男』と『ハルハ河幻想』は、同時期の評論等による理論構築とあわせて、その後の作家塩見鮮一郎がいかにして成ったかを知る手がかりになるはずである。そして、その中でも特に注目したいのが、「父の戦死」と、「ノモンハン戦争」や「満州国」を主題にした『ハルハ河幻想』という長編小説なのだ。

 

ここで、もうしばらく、「ノモンハン戦争」について考えてみたい。

「ノモンハン戦争」は実に不思議な戦争である。奇妙な言い方になるが、この戦争は、知れば知るほどとり憑かれ、飽くなき興味をそそられる戦争なのだ。

興味深いのは、文学不毛の現代日本において、唯一国民的人気を博している二大作家、村上春樹と司馬遼太郎においても同様の現象を引き起こしていることだ。否、国民的作家だからこそ、ノモンハンに触れざるをえなかったというべきか。国民的作家としては大先達の夏目漱石が、虚構の満州国に、触れざるをえなかったように。[iii]

 

村上春樹は、小説『ねじまき鳥クロニクル』[iv]で、「ノモンハン戦争」を重要なモチーフとして扱っている。

この小説は、簡単に要約すると、一人のぱっとしない中年男が、失業、離婚の危機を乗り越え、奇奇怪怪な事件をすり抜けて、いわば「死と再生」を成し遂げる物語だ。その再生のために持ち出されるのが、「ノモンハン戦争」であり「対ソ戦争」や「シベリア抑留」なのだ。

多くの村上作品において、さっぱりさえない男が何人もの女性と都合よく関係を持ち、知らぬ間に艱難辛苦を乗り越えていくことに、ここで疑念を呈するのは避けておく。

問題なのは、村上の「ノモンハン」を扱うその「手つき」にある。

ここは村上春樹論を展開する場所ではないので詳細は省くが、多くの論者が指摘しているように、村上において常に問題になるのは、なぜ「ノモンハン」なのか、という問いだ。それはなぜ「オウム」なのか、でもよいし、なぜ「阪神淡路大震災」なのか、でもよい。おそらく近い将来、なぜ「3・11東北大震災」なのか、という問いも、村上春樹に対して発せられることになるだろう。

その解答はついぞ小説作品からは得られない、というのが私を含む多くの論者の結論である。

ならば小説以外に答が見つかるのだろうか。『ねじまき鳥』刊行後、雑誌の仕事で、中国側、モンゴル側の双方から現地ノモンハン、ハルハ河を訪れた[v]村上春樹は、

 

僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念が脈々と息づいているのではないか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているあの種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。        

(「ノモンハンの鉄の墓場」『辺境・近境』)

  

と、帰国後のエッセイで語っている。

アメリカ人の歴史家A・D・クックスが、大著『ノモンハン』[vi]で、「ノモンハン戦には、あまりにも日本的であり、日本人的であったなにものかが垣間見える」と書いている。

クックスの問題提起は、村上春樹の右の引用文にも読み取れるし、この拙稿とも通じる。

だが、村上春樹においては、中国、モンゴル双方から現地を訪れ、計三週間にもわたる豪華な旅をして、単行本で約50数ページ分のエッセイを書いているのに、「五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか」というクックスと同様の最初の疑問から、一歩も先に進まない。それは何なのか、という飽くなき情熱にかられ、文庫にして四冊分の大著を物したアメリカ人クックスとはまるで違う。

度数の強い白酒を飲み潰れ、「揺れていたのは部屋ではなく、世界ではなく、僕自身だった」などという、聞き飽きた村上節でお茶を濁し、(ノモンハンを)「忘れないこと、それ以外に僕にできることはおそらくなにもないのだから」とエッセイを結び、それ以上の解釈を放棄してしまうのだ。

それは結局、小説『ねじまき鳥』にしても同じことである。

小説においては、さすがに多くの資料を読み込んだだけあって、戦時下の兵士の体験をいきいきとした描写で登場人物に語らせている。そこには、様々な物語としての「仕掛け」があり、読み物としての面白さは抜群かもしれない。事実、春樹ファンの間では、この作品の評価は高いようである。

だが、やはりこの作家の常なのだが、なぜ「ノモンハン戦争」なのか、「ノモンハン」に託したものはなんなのか、いっこうに読者には見えてこない[vii]。現実感が乏しくなりがちな村上のファンタジックな小説世界に、リアリティを補填するための単なる手段として、生々しい「史実」を持ち出したのではないかという疑念さえ浮かんでくるのだ。

 

司馬遼太郎にいたっては、ノモンハンで実際に戦った戦車部隊に、太平洋戦争突入後の満州で入隊している。大卒のインテリ司馬は、戦車部隊の小隊長で下士官待遇だった。所属していた戦車隊の連隊長は、関東軍の作戦課長という立場で「ノモンハン戦争」に参加していた。先述の辻政信と同じ作戦参謀のひとりである。司馬は、実戦経験のないまま終戦を迎えたものの、ノモンハンに非常に近いところでの軍隊体験を有していた。

さすがに、歴史小説家司馬遼太郎は、ノモンハンについて書こうとし、10年以上の時間と労力をかけて資料を集めたらしい。しかし、結局、「ノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う」などといって書かなかった。その「あまりに日本的な」(司馬)戦争について、知れば知るほど怒り心頭に達するから、書かなかった(書けなかった)というのだ。

小説『静かなノモンハン』を書いた伊藤桂一との対談「ノモンハン―兵卒と将校・下士官」、先述のA・D・クックスとの対談「ノモンハン、天皇、そして日本人」のほか、講演「ノモンハン事件に見た日本陸軍の落日」などが、ノモンハンについて、わずかに残された司馬の肉声である。

他に、司馬の数多いベストセラーの中で、いまだに愛読者の多い『街道をゆく』でモンゴルを訪ねたとき、さすがに素通り出来なかったのか、数頁をさいて書き残してはいる。だがそれもおざなりに通り過ぎた印象が強い。

司馬は「ノモンハン戦争」について、正面から取り組むこと、司馬が小説家である以上、それは小説化すること以外にないが、それを放棄してしまった。

戦車戦が重要な意味を帯びたノモンハンにしても、実戦経験はなかったにせよ、自身が戦車隊の小隊長として敗戦まで関東軍に属していた太平洋戦争にしても、司馬に書く資格は十分以上に有していたにも関らず、書かなかったのである。[viii]

村上春樹と司馬遼太郎。この現代日本を代表する超売れっ子の国民的作家二人が、共に「ノモンハン戦争」に注目し、村上はそれを表面的に扱っただけで通り過ぎ、司馬はグズグズと書くのをためらい続け、ついぞ書かなかった。このことは、ある意味、両者の文学の根底にある何ものかを象徴している出来事のように思われる。

それは、村上と司馬、それに漱石も含めて、「国民的」作家の宿命と、ひとまずいえるのかもしれない。多数の「国民」が、見たくないもの、見なくて済ませたいものを作家が見てしまったとき、それに蓋をせざるをえない力学が、「国民的作家」の背中にのしかかるのではないか。

真の「国民的作家」なら、率先して蓋をあけ、見てみせるべきなのに。そうして初めて、国民を次なる局面に、導くことが可能になると思うのだが。

 

塩見鮮一郎にとっての「ノモンハン戦争」とは何だったのか。小説『ハルハ河幻想』をひも解くことで、それが少しずつ見えてくるように思われるので、詳しく作品世界に入り込んでみたい。

小説は、伊門春葉という男が、中国旅行団に参加して旅の途中のハルピンで失踪してしまうという謎が、最初に読者に投げ出され、それをミステリー仕立てで解き明かしていくという物語である。

随行員を含めて総勢18名の旅行団が中国大陸を旅したのは、1978年7月4日から25日までの約3週間。日中国交正常化6年後のこととして書かれている。1966年から約10年間続いた文化大革命、1976年の天安門事件[ix]などの記憶が生々しく、まだ今ほど自由に中国国内を旅行するのは難しかった時代だ。

失踪した伊門春葉はこのとき39歳。つまり1939年生まれで、「ノモンハン戦争」の最中に生まれたという設定である。伊門という名字はよくわからないが、あるいはノモンハンを少しもじったのかもしれない。春葉という名は、明らかにハルハ河を意味する。

その名前の由来や家族の物語は、小説が進むにつれて徐々に明らかにされるが、主人公伊門春葉は、38年生まれの塩見と1歳の差はあるものの、父親のノモンハンでの戦死、西の地方都市(おそらく岡山市)における母子家庭育ちなど、作者塩見に近い人物であることは間違いない。

また、『ハルハ河幻想』は、小説内小説でもある。小説内の小説も同じく「ハルハ河幻想」というタイトルであり、この小説内小説を書いている作者、もうひとりの主人公「ぼく」と一人称で書かれる人物もまた、塩見に近い人物として登場する。

「ぼく」は、大学卒業後、出版社に16年勤務して退職、現在失業中。伊門春葉とともに旅行団に参加したメンバーであり、推理小説の書評などを書きながら作家として立とうとしていて、杉並の川沿いのアパートに妻と住んでいる。ちょうど河出書房を勤続16年で退職し、当時、杉並の善福寺川沿いのアパートに住んでいた塩見とぴったり重なるのだ。

 

ところで、この『ハルハ河幻想』のように、二つに分裂した「自己」をモチーフにした小説が、塩見にはもうひとつある。『ハルハ河』の直前に書かれた『影のような男』だ。

『ハルハ河幻想』が、作家の「自己」を託した伊門春葉を中心に据え、春葉が失踪した後、その幻影を、もうひとつの「自己」である「ぼく」が、小説内小説として書き留めている作品であるのなら、『影のような男』は、作家の「自己」を、「ジツ」と呼ばれる男と、「カゲ」と呼ばれる男に分裂させて書かれている。

物語は、とある出版社[x]における組合と、会社側との労使争議をめぐって展開する。ジツは、かつての組合の委員長として登場し、もうひとりの「自己」であるカゲと、二人の女性、ネンネとアネコとの四角関係を繰り広げる。ジツは組合委員長、カゲは推理小説批評などを手がけている同世代の作家という設定となっていて、これもまた、両者とも塩見自身がモデルになっているとしか考えられない。

後に塩見は、小説『影のような男』単行本[xi]のあとがきで、「ジツとカゲを自我のドッペルゲンガーとしてではなく、浸透しあう他者として読んでいただきたいが、無理であろうか」と述べているが、これはどうしても、作家自身の「分裂した自己」として読まざるをえない。

むしろ、そう読まれても仕方がないという作者の自覚が、あえてそのようにエクスキューズさせたというのは、うがち過ぎだろうか。

 

なぜこの時期塩見が「分裂した自己」をモチーフに小説を書いたのか。

実はそこに、冒頭の「塩見鮮一郎のルーツはノモンハンにある」という問いの答えが見えてくるはずなのだ。そのことを念頭において、いま一度、『ハルハ河幻想』を見てみよう。

小説は、中国旅行から帰国して二ヶ月後、失踪した伊門春葉をめぐって、「ぼく」とその他の旅行団のメンバー数人が集まっている場面から始まる。そのとき、後に小説内小説「ハルハ河幻想」を書くことになる「ぼく」は、旅行一ヶ月前の説明会で、初めて伊門春葉を見かけた際の特異な印象を思い出している。

 

 ぼくにそのように遠い過去を呼びさましたのは、机のうえの黄色い薬罐だけではなく、男の目であったことに気づいた。眼鏡の奥の男の目が、まっすぐに過去にむかっていたのだ。男はぼくを見た。が、ぼくの顔をまるで記憶しなかっただろう。男の目は、たとえば、眼鏡のレンズの裏側に映しだされる像を見ているにすぎなかった。なぜ? ぼくは男を盗み見た。ほかの人たちは、過去にではく、一ヵ月さきに予定されている旅に関心を集中しているというのに。

 

「男の目が、まっすぐに過去にむかって」いるとは、いったいどういうことなのだろう。

男=伊門春葉の視線は、これから起こりうる現実ではなく、すでに起きてしまった過去に向いている。だが彼は、過去すなわち歴史を、後に都合よく解釈するために視線を凝らしているのではなかった。それは、もう一人「過去にむかって」いる男、かつての満州ハルピンで育ち、大連に命からがら逃げてきた過去を持つ旅行団の参加者、歴史教師堺武夫との関係からも明らかになる。

堺武夫という男には、満鉄[xii]職員だった父親を、ハルピンからの引き揚げの最中、混乱の最中にあった大連で満州人に殺され、母親をロシア人にレイプされた上で連れ去られるという実体験がある。 

堺は、その過去への固執から旅行団に参加しており、その点では、ノモンハンで戦死した父の幻影を追いかけて、旅の途中ハルピンで失踪した伊門春葉と変わらない。しかも堺武夫は、失踪事件を起こした伊門春葉と同じく、旅の途中で、ある事件を引き起こしていた。

その事件は、長春で起きた。長春は、かつての満州国の首都、新しい都、「新京」と日本人によって命名された都市である。明治41年、この地に完成したヤマトホテルに、翌42年、夏目漱石も宿泊している。ちなみに、漱石が新京に入る前、大連の港に第一歩を記したエッセイは、『ハルハ河』にも引用されている次のようなものである。

 

 船が飯田河岸の様な石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人が沢山並んでいる。けれども其大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい。斯う沢山塊ると更に不体裁である。余は甲板の上に立って、遠くから此群集を見下しながら、腹の中で、へえー、此奴は妙な所へ着いたねと思った。(「満韓ところどころ」)

 

堺武夫が、漱石のような中国人に対する差別感をロコツにあらわすことはないが、[xiii]旅の前半で、伊門春葉が堺武夫に向けた言葉、「多くの日本人は、個人のふりをして、民族としてもどってくる。卑劣だと思わないのか」に、堺武夫への批判は端的に表現されていた。

その意味では、堺武夫の事件は起こるべくして起こったのだ。

個人のふりをして、民族(国家)を背中にべったりと貼り付けた堺には、漱石と同じく、目の前の中国人という他者の他者性を、そのまま、存在として見つめることが出来ない。

 

事件は、かつての新京神社だった場所で起きた。新京神社は、かつて大日本帝国が、植民地支配した土地土地に建てた「日帝のシンボル」的な神社のひとつである。

旅行団が訪れた1978年の時点で、すでにそこは神社であろうはずがなく、神社跡に建てられた幼稚園になっていた。

その場所を、ひとり感傷に浸るために訪れた堺は、誤解といき違いから、ある中国人の男ともみ合いになり、堺は男に「リーベングイズ!」(日本鬼子!)と罵られる。侮辱されたと感じた堺が中国人と格闘し、双方が軽い怪我を負う結果となった。逃げるようにホテルに帰ってきた堺は、他のメンバーから軽はずみな行動を詰め寄られると、「日本人が、日本人の作った神社を見に行っただけですよ!」と開き直ってみせるのだ。

この堺の言動と、その思想的背景は、むしろ多くの日本人に共通のものなのかもしれない。

例えば、五味川純平[xiv]は、敗戦直前から始まった満州開拓移民などの日本人引揚者について、次のようにいっている。

 

開拓移民に限らない、見捨てられた人びとは戦火に追われて満州内部へ彷徨い歩いた。彼らは関東軍さえしっかりしていてくれたら、こんな惨めなことにはならなかった、と愚痴を云った。関東軍さえしっかりしていたら、この人びとは、満州各地で「優越民族」としての生活を享受していられたのだ。加害者の立場にあることの反省などは影をひそめていた。そんなものがあっては植民地支配はできない道理である。ある日、関東軍はなんら頼りにならぬことを突然暴露した。惨憺たる敗走がはじまった。人びとは、各地で、急転直下、被害者に転落した。個々人が善人であろうとなかろうと、八月九日未明までは加害者の側に位置していた人びとが、突如としてその立場から墜落して、悲劇的な被害者意識の虜になったのである。

(『虚構の大儀 ―関東軍私記―』)

 

まるで堺武夫の心情そのままを、言い表したかのようだ。

それは、戦後の日本人がよりどころにした広島、長崎、東京大空襲といった「被害者意識の虜」でもある。日本人拉致問題には同情するが、朝鮮人労働者や慰安婦の強制連行、沖縄の集団自決は「なかった」とされる。

アイドル俳優を起用して、戦時下に中国人を処刑した罪によりB・C級戦犯裁判で死刑になる理容師の悲運の映画に涙するが、理不尽に殺された中国人には想像力が及ばないのだ。

 

堺武夫と微妙に交錯しながら、伊門春葉はまったく違う地平に視線を凝らしていた。

伊門春葉は、何を見ようとしていたのか。何を聞きとろうと耳を澄ましていたのだろうか。ミステリー仕立ての小説である以上、伊門春葉の失踪の謎は、最後に明らかにされる。

謎は結局、中国残留の日本人だった。

長春(旧新京)での堺武夫の事件のあと、旅行団一行はさらに中国大陸の奥へ、ノモンハンに徐々に近づいていくかのように、国境の街ハルピンへと旅程を進めていく。そこで春葉は、戦後多くの日本人が残留していた事実を知り、衝撃を受ける。もしかすると、戦死したとされる春葉の父が、「チチハルとかハイラルに生きている」のではないか、と。

小説は、これ以上の謎解きはしなかった。伊門春葉は、ひとりの日本人女性がハルピンに残留し、貧しい中国人と結婚した上に子どもを四人産み育てつつも、おのれの存在が戦後の日本人に「忘れられる」ことを恐れ、憂いている事実を突きつけられる。そしてその話を聴いた後、静かに失踪している。読者に、春葉のその後の行方は、明らかにされないままだ。

つまり、本当の謎は、「なぜ歴史は隠蔽されるのか」ということなのだ。伊門春葉の失踪は、隠蔽された者、忘れ去られようとしている者からの、無言のメッセージなのではないか。

ノモンハン戦争も、かつての満州国で起きたことも、蓋をされ隠蔽されたまま、歴史の闇に葬り去られようとしている。空っぽの骨箱と、特別賜金千五百円で亡きものとされた伊門春葉の父や、ハルピンに残留を余儀なくされた、「棄民」された人びとは、忘れ去られる。

伊門春葉はそれが許せなかった。

では、彼はその後、どこへ向かったのだろうか。

 

塩見鮮一郎は、この時期(出版社を退職して『浅草弾左衛門』を発表するまでの数年間)ふたつに分裂した「自己」をモチーフに小説を書いていたことはすでに述べた。

同時期、学生時代郷里岡山で執筆した『黄色い国の脱出口』を、およそ20年ぶりに単行本として出版している。直接被差別部落を舞台にした、若書きながら意欲的な長編である。その巻末に付された自著をめぐる論稿、「遡行の試み 〜主題としての《部落》〜」で、当時のことを振り返りながら、塩見は次のように書いていた。

 

ぼくのうちにも、「人にはいえぬ秘密」があった。『黄色い国の脱出口』を書こうとするとき、その秘密が、大きさと重さをまして心の前面に踊り出てきたといっていい。なぜか羞恥にとらわれ、胸が締めつけられた。ぼくは秘密の姿から目をそらせたかったし、思い出したくなかった。それを抹殺したかった。だが、死から逃れられないように、それは生きている間はぼくにつきまとうことがわかっていた。〜中略〜 その後、間歇的にではあるが小説を書きつづけた背後には、この「秘密」があったし、また、それは、小出しにではあるが、書いてしまえば、なんでもないことなのだった。「秘密」とは、単に心理の呪縛された状態の謂でしかなかった。

 

近年、塩見は、島崎藤村の初の長編小説について論じた、『破戒という奇跡』[xv]を出している。

だが、『破戒』についての論及は、この「遡行の試み」でもなされているし、そもそも藤村のいささか稀有なこの小説の存在が、60年安保という激しい政治の時代を潜り抜けながらも、塩見が文学に向かい、小説を書く真の動機になっていることが、右の引用からだけでもうかがえる。

藤村の『破戒』については、いまさら詳しく説明するまでもないだろう。以下も、塩見の「遡行の試み」からの引用である。

 

(藤村の)『破戒』は「隠せ」という戒律と、それを破る「自白」との間で動揺する瀬川丑松の自我の物語でもある。それはまた、苦悩する自己を肯いながらも、非合理な因襲におしつぶされて、それを打ち破りきれない藤村の表現者の痛苦と重なりあうものを持っていた。

〜中略〜

藤村は、やはり部落をテーマにした作品を書こうとしたのである。彼が瀬川丑松という主人公を造形し、その内面の動揺と苦悩にわけいるとき、藤村は、「人にいわれぬ秘密」に苦悩した自己の心情をそこに注ぎこんだにちがいない。

 

塩見のふたつに分裂した「自己」のルーツはここに根ざしていた。

丑松と同じ衝動によって、塩見は、『黄色い国の脱出口』を嚆矢として、被差別部落を舞台にした小説を書き、差別や部落問題についての論稿を次々と発表していく。

塩見の「人にはいえぬ秘密」が、「部落の人たちを理解するときの回路となった」からだし、なによりも「隠せ」という内面に巣食った無言の圧力を打ち破り、差別の実態を白日のもとにさらすことが、あらゆる差別の解放につながるという信念があったからだ。

塩見の「人にはいえぬ秘密」は、青春時代の「隠せ」という葛藤から、小説『ハルハ河幻想』にいたってついに、丑松の「破戒」=「告白衝動」を完遂したといえる。塩見が近年、次のように書きつけるとき、丑松に、『ハルハ河幻想』を書いていた時期の己の心情をも込めていると、私には思われてならない。

 

父親の死が告白を封じたのとは逆に、先輩の死は世間への告白をもたらした。結果、父親の予言どおり、丑松は世間から放逐された。しかし、それは同時に真の迫害者である世間への報復になった。部落民を籠(ケージ)に閉じ込めておこうとした村民や町民から、江戸時代とはちがって、ぬけだすことが可能であった。猪子連太郎へ告白しただけではたぶん得られなかっただろう奇跡を、いまや偶然に手に入れていた。丑松のほうから関係を絶てば、飯山の住民、視学官、校長、文平はどうすることもできない。もう丑松は死ななくていい。

「いまは鳥のように自由だ」

丑松にとっては旧態から主体的に脱出することが重要なのであって、テキサスへ行くのがいいのか、踏みとどまって闘うべきなのか、そんなことはどちらでもよかった。

                                 (『破戒という奇跡』)

 

だが、塩見のふたつに分裂した「自己」の、真の主題が始まるのはこれからである。

小説『ハルハ河』に眼を向けたとき、ハルピンで伊門春葉が見たものは、隠蔽されたノモンハンであり、満州国であった。その覆い隠されたものを白日の下にさらさない限り、明治維新以降の近代日本、戦後の日本は、虚構であり虚偽の産物である。

それだけではない。歴史(正史)として書かれている近世、中世、さらには古代の日本もまた同様に、隠蔽された虚偽の歴史の上に構築されたものなのかもしれないのだ。ノモンハン、ハルハ河の彼方を見据える伊門春葉=塩見鮮一郎が獲得したのは、そのような視平(パースペクティヴ)だったのではないか。

解き放たれた伊門春葉=塩見鮮一郎は、過去すなわち歴史に向かう。失踪した後の春葉が、時間軸を遡るかのようにさらなる大陸の奥へと突き進み、ノモンハン、ホロンバイル草原、ハルハ河の彼方に見るものは、近代国家成立以前の「この国のかたち」、明治維新前後の日本であろう。

塩見鮮一郎のルーツはノモンハンにあった。

広大な、茫々としたモンゴル草原の地平線の彼方に、歴史に埋もれ、ほとんど誰からも忘れ去られていた「浅草弾左衛門」が、徐々にその姿を現してくるはずである。


 


[i] 1939年5月12日から始まった戦闘は徐々に規模が大きくなり、停戦協定が結ばれた9月15日まで断続的に続いた。

[ii] 戦陣訓「生きて捕囚の辱めを受けず」を恐れ、ロシア側に留まった将兵も多く存在するが、実態は明ら

かになっていない。

[iii] 漱石は旧満州を旅したエッセイ『満韓ところどころ』を明治42年に発表している。

[iv] 『ねじまき鳥クロニクル』1994年4月〜95年8月新潮社刊。

[v] 雑誌『マルコポーロ』1994年9月〜11月号連載。当時の政治的な状況から中蒙国境であるハルハ河は越境できず、中国側からハイラル、ノモンハン、ハルハ河とめぐり、いったん ウランバートルに飛び、ハルハ河のモンゴル側に旅している。

[vi] A・D・クックス『ノモンハン』朝日文庫、1984年。

[vii] 川村湊は、『村上春樹をどう読むか』(作品社、2006年12月)の「おわりに」で、「彼の小説の言語は、身体性から限りなく離れた記号的なものであって、それは意味をつるつると咀嚼し、嚥下し、消化して、後には何も残らない(中略)どこまでも、いつまでも消化し続けることのできる記号の塊にしかすぎなにのである」と書いている。

[viii] 『なぜ司馬遼太郎は何故ノモンハンを書かなかったか?』という本まで刊行された。作者は司馬の大阪外語大学蒙古語専攻科の先輩である北川四郎。

[ix] 1976年4月5日、北京の天安門広場で、故周恩来総理に供えられた花輪の撤去をめぐって民衆と当局側が衝突した事件。民主化を求めて集まった学生や市民が武力弾圧されたのは、89年の天安門事件。

[x] 作品中に明示されないが、作品中の組合闘争を展開する出版社が、「二度の倒産」「三階建ての社屋」など、塩見が勤めていた河出書房であることは容易に推測できる。塩見もまた、河出書房の組合委員長を務めた。

[xi] 1988年、せきた書房刊。

[xii] 南満州鉄道株式会社。1906年(明治39年)、イギリスの植民地政策に重要な役割を担った東インド会社に倣って、日本政府が設立した国策会社。

[xiii] 塩見は、漱石文学にまといつく《差別性》について、エッセイ「《近代遊民》の差別性」で、「満韓ところどころ」と「坊っちゃん」を例に引いて論じている。

[xiv] 五味川純平には、ノモンハンを論じたノンフィクション『ノモンハン』の他、映画『戦争と人間』の原作である長編小説『戦争と人間』でも、「ノモンハン戦争」を、愚かな戦争悲劇として描いている。

[xv] 『破戒という奇跡』、河出書房新社、2010年。

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