Pop Children?
Collaboration Special
around songs of SANO MOTOHARU

the color RED & Silverboy Club

first contrast;
SOMEDAY


natsuko's Review Silverboy's Review
この曲を聞いたのは、中学の終わり頃。私より十幾つも年上の男性がカラオケでこれを歌った時だ。聞いた当初は、究極のラブソングだ、という印象だったのを覚えている。中学生が知るところの男女の愛、の歌。聞いた当初はこれが、佐野元春という人の歌であるという事すら分からなかった。ただ、昔の歌なんだろうなぁ、と思った。テレビで流れるヒットチャートしか知らなかった私が知らない曲であったから。そして、高校生の頃からの彼女と現在幸せな家庭を築いているその男性にとって、多分思い出の歌なんだろうなぁ、実際いい歌だよな。彼女は幸せ者だよな。こんなラブソングに想いを託してもらえるなんて。…そんな風に思った。
私がラジオを聞き始めたのもちょうどその頃だった。テスト期間中で早くに帰宅し、たまたま聞いていた社会人向けの昼間のプログラムでその曲が流れて、やはり聴き入った。そしてこれが佐野元春という人の曲であると知ることができ、早速そのCDを借りた。まぁ、その男性が歌っていたのを聴かなくても、ラジオから流れてくるその曲に惹かれただろうとは思う。なぜって、こんなに切なそうに歌ってる声だけで、何?って思っちゃうもの。
それで、じっくりと聴いてはみた。やっぱりいい歌なんだよ。歌詞とかもじっくり食んではみた。当初なんとなく思ったような、ただただ恋愛ソングで終始するような、キャパの狭い曲でないことも、聴く回数を重ねるごとにわかってきた。ただ…正直、あの頃とかこの頃とか…SOMEDAYなんだからいつかは当然ありなんだけど…その時とか言われても。受験前の中学生が大人びて、自分は境界線の上なのかなぁ…なんてうっとりしてみても…というか。当時どう思っていたか、今、思い出せない事の方が多いのかもしれない。

で、それは、もう少し時が経ったら、逆に思い出すものなのかもしれない。はっきりいって、私はこの曲に出会って(佐野さんの曲に出会って?)初めて、自分が微妙な位置にいるんだろうな、という事を自覚したし、高校生の間もゆらゆらしてたし、今もそうだし。まだしばらくはこのままでいるはずだ。普通なら逆なのだと思う。微妙な境界にいるからこそこの曲に何かを感じるところがあるのだろう。そういう意味では、私は、この曲に思い入れるバックグラウンドそのものが、まだまだないに等しいのかもしれない。

とはいえ、私はティーンエイジの中ごろは、早くこの状況から脱却したいと思っていた。クラスメイトは殆どが、私が思うに、上の世代やや同年代のものに対して考えも持たず、中身のない、意味のない反発に明け暮れていた。その状況は、ひどく居心地が悪かった。消すのが辛い夢なんて持ってるやつなんていたのかなぁ。私は、そういう人たちを理解する事は出来ない。残念だけど。

ただ、はっきりしているのは、そんな皆だって、私だって、同じように、まだ解けていない謎がある という事であり、それを謎、と呼べる佐野さんはさすがだと思うのだ。結局、どこにまだ明かりがあるかも見えないのだけれど…その状況で拠り所になるのは(或いは守らなければならないものは)唯一「君」ということ(その「君」も同様に謎を抱えてるわけだけど)。そこでは確かに普遍性を獲得している。でも、なんでかな、やっぱり いつしか、あちこちで佐野さんの代表曲、っていう事を見聞きしたし、音的にもやはり必要以上の壮大さがそこにはあるように感じられ、それがこの曲の主題をくぐもらせている。それはもったいない点だと思えてしょうがない。

先日リリースされた20周年記念盤には、音が多少整理され、佐野さんのシャウトが収められた再ミックス版が収められた。オリジナルにはない、佐野さん自身が抱えてる何かが刻み付けられている、いい作品だと思う。佐野さんもこの再ミックスを通して、当時のことを思い出した…と述べている。なんだ、佐野さんでもそうなんじゃない。やはり、もうしばらく、この曲を携えながら色々考えていたい。

佐野元春の先鋭的なファンであった十代の頃、僕はこの曲が好きではなかった。それはこの曲があまりに安直に「いい曲」として認知され、「佐野の代表曲」として扱われることへの反発だった。確かに「SOMEDAY」はいい曲かもしれない。だが、佐野の本領は知的でかつクレイジーなロックン・ロールにこそあるのであり、そうしたスピード感、疾走感を理解できないヤツらが「SOMEDAY」だけを取り上げてもてはやすのはあまりに片手落ちのように思えたし、それは佐野元春というアーティストのまるごとの魅力からすれば、あまりに一面的で狭量なアプローチだとしか僕には見えなかったのだ。
だが、僕がこの曲を好きになれなかった理由はもう一つあった。それはこの曲が最も大切な問いに答えていないように思えたことだ。
「窓辺にもたれ/夢の一つ一つを/消してゆくのは辛いけど」。僕には佐野がどうして夢を消さなければならないのか理解できなかった。頭の固い大人たちをキックし、システムとの闘いに勝って僕たちは自分の夢をつかまなければならないはずではないのか。僕たちはすべてのインチキにツバを吐き、無垢な自分をこそ守らねばならないのではないのか。それなのになぜ佐野は、夢の一つ一つを消すことについて歌うのか。僕はこの曲の歌詞に激しく混乱していた。
その混乱は次のラインで一層深刻なものになる。「若すぎて何だかわからなかったことが/リアルに感じてしまうこの頃さ」。そこではいくつかの夢を消し、譲り渡すことの代償としての闘いが決意されない。佐野は社会の理不尽な圧迫によって放棄することを余儀なくされた夢の一つ一つに対して、ぎりぎりの窮地からまさにサヨナラ・ホームランのようなレコンキスタをこそ組織すべきなのに、この曲では「ダウンタウン・ボーイ」に顕著だった逆境のヒロイズムはついに達成されないのだ。
その代わりにこの曲で希求されるのは「まごころ」であり「信じる心」である。「SOMEDAY」、いつかまごころがつかめるその時まで。祈りのようなこの曲に、しかし、若かった僕は煮えきらないものを感じずにはいられなかった。

もちろん、今なら僕には分かる。佐野がこの曲で本当に希求していたものが何だったのか。それについてはいずれどこかで書く機会があるかもしれない。僕のサイトの「僕が佐野元春を聴き続ける理由」というコラムを読んでくれてもいい。だけど、ここで重要なのは、若かった僕が決してこの曲に強い思い入れを抱いていた訳ではないということだ。むしろ僕がこの曲に対して抱いていたのは強い違和感、ロックンローラーとしての佐野がどうしてこんな分別くさい、「まともな」曲を書かなければならないのかという思いと、結局そういう曲の方が有名になってしまって佐野の「代表曲」として扱われることへの、「生粋のファン」としての憤り、「『SOMEDAY』の佐野」っていうのはちょっと違うんじゃないの、というような気持ちだったのだ。

今、この曲をどう思うかと訊かれたら、僕は、「ま、いいんじゃない?」と答えるだろう。もちろんこの曲は作品それ自体として佐野のキャリアの中でとても重要な曲だ。作品としてのこの曲を僕は愛するし、この曲を聴いて涙を流したことも何度かある。しかし、もはやそのような「佐野的文脈」を離れてこの曲は存在するし、広く「代表曲」として一般的に認知されている。長いアーティスト生活の中で佐野がそのような「スタンダード」を残せたことを今の僕は誇りに思うし、この曲はそれに値する曲だと思う。
佐野には他にいくらでもいい曲がある。でも、とりたてて佐野元春のファンでない人にも佐野の存在を想起させるまさに「代表曲」としてこの曲が持つ意味合いは特別なものだ。ビートルズでさえ教科書に載るのは「Yesterday」だ。ジョン・レノンはいつだって「Imagine」とワン・セットで語られる。だれかがカラオケでこの曲を歌うのなら、僕はそれを笑って聴こうと思う。歌というのはそのように一人立ちして行くものなのだ。


*

backward | index | forward



Copyright Reserved
2000 村上奈途子 / Silverboy