Pop Children?
Collaboration Special
around songs of SANO MOTOHARU

the color RED & Silverboy Club

second contrast;
DownTown Boy


natsuko's Review Silverboy's Review

佐野さんが歌に描いた都市の少年たちで、今思い出せるものといえば、例えばこの DOWN TOWN BOYとか Stardust Kids とか Happy Man とかだろうか。言ってみれば Stardust Kids とか Happy Man とかは彼らにとっての bright side で このDOWN TOWN BOYなどは dark side なんだろうか。 (Stardust Kidsはもっとニュートラルなものかもしれない)なんにしたって、本体は同じ存在と括ってしまっていいのではないかと思うが。そして、その後のアルバム フルーツではヤァ!ソウルボーイや十代の潜水生活などが、それらへのアンサーソング…と思われる。ただ…こちらのアンサーソングはまた、えらく達観してしまっている彼がいる。
私はこれらの初期における曲群へ、崖っぷちであることに対しては共感し、彼らがなんとか生きている場所は夜の街の中、であることにはある意味 憧れ…ないものねだりな感情を抱く。私は高校生の間は進学校へ通い、夜の身の置き場所は塾か家庭だった。それは幸せな事であるのだろうけれども。なにか、その状況では、崖っぷちといってもそれは狭い意味での崖っぷちでしかなかったと思う。それはそれで、重い問題であったと認めるべきなのだろうが、やはり、何か大切な通り道を抜けてこなかったような気がする。でも、いつかそれは目の前に立ちはだかってくるのだろうとも思うから…いずれ来るだろうその日に 私はそれと面と向かって、まともでいられるだろうか? でも、いまだにそれはぼやっとしていて、具体的にこんなものだとは説明できない。ただ、そのなんだかよく分からないものに対して私は今も怯えている。

もしかして、何か具体的でない不安に怯えている私たちのことを、十代の潜水生活 で 佐野さんは笑っているのだろうか、とさえ思ってしまう。佐野さん自身のことも重ねて。ま、それを愛しくも思っているんだろうけど。この中での、チープな言葉の選び方から、私はそう感じざるをえない。正直なところちょっと興ざめ。

はっきり言わせてもらう。2000年の今現在、佐野さんの曲が夜の街路にいる少年少女に届いているとは思えない。私が感じる限りでは、佐野さんの曲は現在、たとえ若い世代に届くとしても、それは私のような(と図々しくほざくのも恥ずかしいが)大人が言う”いい子””優等生”が大部分なのではないか(概観してものを言う事は正しくないということは分かっている。あくまで量の対比、くらいで解釈して欲しい)。だからどうなんだと突っ込まれると、ちょっと言葉を選んでしまうけれども…今現在を感じながら歌っているはずの佐野さんの音楽でさえ、本当に限られた人たち(それは世代の壁だけでない)だけの音楽で終わってしまう、ということだ。今書いてるこれだって、言葉遊びとか言われてしまえば残念ながらそれまでだし。いいんですけど、別に。

この曲が佐野さんの中からリリースされた時に、どんな人にどういう風に受け取られたかなんて、伝え聞いたりはしても、実際はどうだったのかなんてことまでは私は結局分かりえないけど。今、私がライブに行くとこの辺りの曲を佐野さんと口ずさんでいるオーディエンスに ナルシスト (或いは過去へのノスタルジー…と言った方がいいですか?) 入ってそうな人がいかに多いことか。しかも佐野さんが、手のひらを上に向けてギアを入れ直しているのを見ると、なんともいえない なんだか情けない気分にさえ陥ることがある。見えない壁を感じる瞬間。まさか私もその中の一人なのかと愕然とすることもしばしば。

こうつらつらと書くと、批判は沢山あるだろう。私が相当偏見に満ち満ちているのかもしれないが。私もナルシストの一人なのかもしれないが、ただのナルシストで終わることには満足しない。今、この私の年齢で佐野さんの曲を聴けるということは幸運だよ、との意の言葉を時々頂戴するが、そういう事なのではないかと考える。

一応確認しておくけれども、私はこの曲が好きだ。でも残念ながら、こういった曲を佐野さんはもう書けるはずもないことも分かっている。それでも、2000年の今、この曲に自らをしっかりと映し込む事の出来る少年少女がどこかにいること、ついでに、今の佐野さんだからこそ、相手を選ばず伝えられるメッセージがあること、を信じている。

佐野元春の作品の中で一番好きな曲は何かと訊かれたら、僕は迷わずこの曲の名前を挙げることにしている。それは僕が高校生だったときから変わらない。だけど、この曲を好きな理由は少し変わったように思う。

高校生の頃、僕は自分が何か目に見えないシステムのようなものによって抑圧されていると考えていた。毎朝校門に立って僕たちの下げているカバンが学校指定のサブバッグかどうか、制服の詰め襟にカラーがついているかどうかをチェックしている生徒指導の先生は、僕たちの自由を奪う悪の権化のように見えた。世の中は腹黒い政治家や利己的な大企業が支配しているのだと思っていたし、彼らの腐敗や不正を伝えるニュースに腹を立ててていた。
だから僕にとって、何かに「逆らう」ことは重要なことだった。抑圧されている者が抵抗するのは正当なことだった。サブバッグをわざと改造して校名のプリントされたポケットを切り取ったり、詰め襟のカラーをわざとはずしたり、制服の下に真っ赤なハイネック・シャツを着て行ったり、授業をさぼってゲームセンターでたむろしたり、これみよがしにタバコを吸ってみたり。生徒指導の担当だった地理の先生の授業では指名されても無視してにらみ合ったこともあった。生徒会の代議員会で「言論の自由」を理由に新聞局を職員会議の監督から外す決議を強行採決したこともあったし(僕は議長だったのだ)、革新政党の青年組織に危うく入りそうになったことすらあった。
『ダウンタウン・ボーイ』はそんな僕のテーマソングだった。「すべてをスタートラインに戻してギアを入れ直してる君」、たったひとつだけ残された最後のチャンスに賭けている「くわえタバコのブルー・ボーイ」、それは僕のことだった。抑圧され、追いつめられながらもぎりぎりの場所で最後の抵抗を試みる少年、佐野元春は僕のことを歌っているのだと思っていた。この曲は何より大事な曲だった。真夜中にヘッドホンでこの曲を聴きながら(時には涙して)拳を握りしめた。僕には『SOMEDAY』は必要なかった。僕たちの気持ちをそのまま代弁したこの曲があればそれでよかった。僕たちは友達の家に集まって安いウイスキーを飲み、夜中の公園で大声でこの曲を歌った。この曲は僕たちにとって何よりも切実な宝物だったのだ。

くだらない。今ならそう思う。進学校でぬくぬくとした生活を送っていた僕の日常のどこが抑圧されていたというのだろう。僕の通う学校よりもっと厳しい生徒指導が行われている新設校なんていくらもあったし、それに比べれば僕たちの学校なんて放任にも等しかった。開店休業の新聞局を職員会議の監督から外すのが「言論の自由」とは失笑だし、ゲームセンターでタバコを吸うことが何かの抵抗だとはとても思えない。だがそれにも増して稚拙だったのは、世界中の問題を「ヤツら」のせいにして向こう岸に押しやり、僕たち自身は一方的に抑圧されている無垢な存在であると、何の検証もなくオートマチックに前提にしていた僕たちのナイーブさそのものだった。
だがそれが分かった今でも僕は『ダウンタウン・ボーイ』という曲が大好きだ。それは、そのように何かに苛立ち、そこら中にところ構わずツバを吐いてまわることが、僕たちにはどのみち必要だったからだ。今の僕はそのように世界中に悪態をついていた17歳のバカな僕のなれの果てに過ぎないのだし、逆に言えばそのような17歳のバカな僕がいなければ今ここでこんなふうに考えている僕も存在しなかっただろうからだ。僕はそのような連続性の最前線に立って毎日の生活を更新している。僕が今の僕を何らかの意味で肯定しようとするなら、17歳のバカな僕をも肯定しない訳には行かない。だから僕は17歳のバカな僕が好きだし、17歳のバカな僕にとって切実だった曲は今の僕にとっても切実であり続けている。僕は今の僕を大切に思うから。

「明日からのことも分からないまま、知りたくないまま、でもそれでいいんだ、そう、ヤツは街で育った街の子だからね」。僕は街でこれまでどうにか生き残ってきた。この曲を聴くたびに僕は自分がここまで通ってきた道のことを思う。関わり合った人たちのことを思う。そしてその最先端にいる今の僕を誇りに思う。僕にとって何より大切な曲、それがこの『ダウンタウン・ボーイ』だ。


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2000 村上奈途子 / Silverboy