Pop Children?
Collaboration Special
around songs of SANO MOTOHARU

the color RED & Silverboy Club

4th.contrast;
The Circle


natsuko's Review Silverboy's Review

佐野さんの少年っぽさは誰もが認めるところであるけれども、少なくとも90年代の佐野さんは決して少年、ではなくて、限りなく少年に近い、でも誰よりも大人だ。私はそう思っている。たまに境界線をramblingしてることはあるけども。

別に統計とって相対的に調べてるわけでもないから、なんとなく、なんだけれども、僕、とはっきり言ってる歌詞は、佐野さんの曲では珍しいんだと思ってる。だから、こういう類の曲では特に、佐野さん自身の意思を感じるのが、私の佐野さんの聴き方だったりするんだけれども。でも佐野さんはすごく都会的な感覚で、だからついて来い、じゃなくて、僕はこうする、君は?みたいな問いかけを感じる。

わかる。すごくよく分かるんだよね。もはや本当の真実なんて言ってることが実のところナンセンスなんであって、じゃ私が見つけなきゃいけないものはsurviveしていくためのやり方なんだってことは。でも、佐野さん自身その結論に達するまでは、デビュー後でさえ、叫んだり迷ったり傷ついたり争ったり…っていう(真実を求める)途方もない過程があるし(敢えて現在形)。だからそれってしちめんどくさいと自分で分かっていながらも私はまだどうやら暫くはドジったり壁を叩いたり雨に打たれたりしなきゃ…その問いかけにすら答えられない。というか、実はあえてそういったものを、その生身の体験を希求しなければならない状況だったりするのだけれど。

ともかく、そういう過程を経てこの結論を出すに至った、ということで佐野さんは大人なんだと思うし、同時に佐野さんのpositiveさに舌を巻かざるを得ない。なんて強い人なんだろうと思う。というのは。

佐野さんのサークルまでのほぼすべてのアルバムを一通り聴いたあとに、サークルツアーの武道館ファイナルのビデオを見た。はじめて映像で見る佐野さんのライブだった。その勢いとかにはもちろん圧倒されたのだけれども、めちゃくちゃ違和感を感じたのは、「ここにいやな奴は一人もいないぜ!」って言うあのセリフ。なんでこんな安易なこと言うかな、ってすごく疑問に思った。佐野さんの歌を聴いて、疑似体験におぼれている限りでも、そんな安易な言葉なんて到底納得できるものではなかった。まぁね。あれは至極現実的な見方をすると、ライブと言うある種のお祭り、ツアーにおいてその土地、その時間を大事にするからこそなんだってのもありなんだろうけれども。でも、それを言葉どおり受け取るのは本当にやばい。私自身は今はあの言葉、佐野さんが途方もない過程の上でかろうじて搾り出しているのだという認識には、幸い、至ったけど。敢えてああいうことを言葉にして求めていこうとする佐野さんはpositiveだ。って、そういうこと。

優しいと言う意味でも、佐野さんは大人だ。佐野さんは、何があったのか実際のところ知る由もないけれども、ともかくこうやって自分が過去に外に向かって発した言葉さえもあからさまに否定してしまわなければならなかった。佐野さんは最近よく、ファンと僕の歌が一緒に成長してきた、という言い方をする(私はそう言った部分では時差を感じているのはまぁ当然ではあるのだけれども)。で、佐野さんは自分のやってきたことの本質は否定しなかった。この歌におけるその見解ははファンにとっては救いなのではないですか?別に佐野さん自身がそう思っていないとこんなことは言えないのだろうけど。でも、実際のところそういう確固とした意思を、こんな状態の佐野さんが持てるかというと、私は非常に疑問なわけです。まぁ、そう思っていないとやってられなかった、のかもしれないし。結果論として受け止めていただければいいのですが。

幸い佐野さんは、この限りなくHardな状況をすりぬけて、私のようなHeartlandより更に後の聴き手にも様々なものをDeliverしてくれているわけで、それは本当に、感謝すべきことなんだと思っている。誰にもHardな状況はもちろんある。でも、佐野さんだときっとその負担は私なんかが感じる2倍、3倍のものがあるんじゃないかと思う(それは、佐野さんの少年性に因る)。それをともかく何とかして切り抜け、その先を求めようとするpositiveさ。本当に佐野さんって大人。そのことをもっともっと認識しなきゃいけないんだと思う。

高校の頃、僕は学校の机やノートの余白に佐野元春の曲の気の利いた歌詞を書きつけるのが好きだった。「何もかもインチキに見えちゃ淋しいぜBaby」とか「一歩踏み出せば誰もがヒーローさ/もしそれがだれかのワナだとしてもだ」とか「空回りのファイト」とか。その中には当然「つまらない大人にはなりたくない」というのもあったし、「本当の真実がつかめるまでCarry on」というのもあった。

『ザ・サークル』で佐野はこう歌う。「探していた自由はもうないのさ/本当の真実ももうないのさ」と。「もう僕は探しに行かない/もう僕は見つけに行かない/時間の無駄だと気づいたのさ。もちろんそれは僕にとって衝撃だった。しかしその反面、佐野はやっとそんなふうに歌うことができたんだという感慨のようなものもそこにはあった。それはある種の必然としていずれ来るべき決算のようなものだったからだ。

自由、真実、無垢…。そんな佐野元春のスローガンに僕たちは共感し、アイデンティファイしてきた。つまらない大人にならないことに心血を注いできた。しかし、それは長い年月の中で、いつの間にか自分自身の等身大の成長から目をそらし、当然負うべき責任を回避して「無垢さ」の砦の中に逃げこむための言い訳に過ぎなくなっていたのではないだろうか。僕たちはスローガンそのものを愛してしまっていたのではなかっただろうか。

そんな自縄自縛の袋小路をだれよりもよく自覚していたのは他ならぬ佐野元春自身だったはずだ。内実を伴わないスローガンがいかに容易に消費されその力を失って行くか、かつて佐野クローンと呼ばれるフォロワー・アーティストが無数に出現してマーケットを食い荒らしていった時に佐野は痛いほど実感していたに違いない。だからこそ佐野は『ぼくは大人になった』とことさらに宣言して見せる必要があったのだ。

だが、大人になることは実際難しい。もちろん年をとることは簡単だ。いやそれはむしろ運命的に避けられないというべきだろう。しかし、年をとりながらその実年齢に見合った大人になること、大人であることは実に困難な課題だ。好むと好まざるとにかかわらず、僕たちはリアルでシビアな世界に生きている。僕たちはそこで生き延びなければならない。時には手を汚さなければならないこともある。夢見るだけではメシは食えないのだ。

だからこそ佐野は、それ自体がまるで何かありがたい神託のような「自動性」をまとい始めたスローガンを再び激しく否定しなければならなかった。自分自身の力で社会と正面から対峙しようとするとき、あらかじめ用意された負け戦に傷つくことをおそれてそうしたスローガンを隠れ蓑にしていたすべての生ぬるい自我に佐野は容赦のない「ノー」を突きつけた。この曲の真の価値はそこにあると僕は思っている。

もちろん、この曲はスローガンとしての「自由」や「真実」を否定しはしたけれども、「イノセンスの円環」という概念をそこに導入することによって、そうしたスローガンの真の内実を追求する過程の必要性、重要性は間違いなく継承された。そしてそれは結局僕たちがそれまでヤツらの問題だと思っていたことが実際にはすべて僕たち自身の問題だったということを気づかせてくれた。僕はふだんそういうものの書き方をしている。

でも、僕がこの曲を聴くたびに率直に思うことは、本当のところ、この激しい自己否定をいったいどれだけの佐野元春ファンが真摯に受け止め、そこにある自分の「弱さ」について突きつめてみようとしたのだろうかということだ。いったいどれだけの人たちが佐野が身を切り血を流すようにして絞り出したこのフレーズをきちんと理解したのだろうかということだ。それは例えばいまだにナイーブな「優しさ」に寄りかかった「いい人」ばかりの佐野ファンのコミュニティを見るとき一層はっきりとした疑問として僕の内側に浮かび上がってくる。

何の留保もなく簡単に(しかも全人格的に)他人を信頼してしまえる人たち。異様に物わかりがよく、対立する意見にも容易に「理解」を示して争いをただひたすら避けようとする態度。あるいはそんな世界に起こったさざ波のような対立にいい大人が「傷ついた」だの「傷つけられた」だのと泣き言を並べる世界。そんな幼稚なコミュニケーションを見るたび、この人たちはいったい佐野の何を聴いてきたのかと僕は激しく苛立たずにはいられないのだ。

僕たちは所詮一人では何もできない。しかし問題なのは「一人では何もできないこと」ではなく、一人では何もできない自分を引き受け、その頼りない自分を自分自身の足で支えて行こうとするのか、あるいは安っぽい共同体を形成することであたかも自分が何者かであるかのように錯覚しながら生きて行くのかということだ。この曲はそのように問いかけている。さがしていた自由も、本当の真実ももうない、そこから君はどこへ行くのか、と。


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2000 村上奈途子 / Silverboy