DV加害」の定義の混乱は、その危険性の本質が見失われ、本当に守られるべき人が守られなくなる。

DV加害」の定義の混乱は、その危険性の本質が見失われ、本当に守られるべき人が守られなくなる。


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日本において、男女間のもつれによる殺人や自死などの凄惨な事件があとを絶たない一方、DVを理由として、親子が引き離され、取り残された親の精神的圧迫と、連れ去った親の高葛藤の持続と、それらによる子どもの健全な発育の疎外が蔓延化しているように感じる。即ち、対策が取られるべきDVの対策が取られておらず、取られている対策の副作用ばかりが出てきているわけだ。

  行政を中心とした日本社会のDV対策が立ち遅れている、現実的な対応が十分できていないということなのではないかと思われる。この原因の一つとして、「子どもに対して精神的侵襲の強いDV」とそれ以外のDVとが十分区別されていないことがある。それは、とりも直さず、DVがなぜ危険なのか、その本質が議論されていないところに原因があると思われる。

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 法廷でも、この混乱の影響を受けた訴訟行為をよく聞く。離婚訴訟などで、40年連れ添った夫婦で、温厚な夫だが、2回だけ妻に手を挙げたことがあるという理由で、DV夫の加害行為が原因で婚姻生活が破綻したと主張がなされることをしばしば耳にする。この場合、その暴行の前後の脈絡、どうして暴行に至ったかということは語られることはない。また、暴行の程度についても、制止しようとして押しとどめて、妻がしゃがみこんだという場合も、投げ飛ばされたというふうに変わることが多い。そして精神的暴力の抽象的な主張が、その間の40年を埋めていくわけである。そこで言われる数十年前の暴力を理由に、莫大な慰謝料が認められることもある。

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日本のDV保護法などによる住民基本台帳のネットは、どこかの機関がDVの事実認定をしたことを要件としていない。一方配偶者が警察などにDVの相談に行き、その相談に行った事実が役所に報告されることによって、住民票の閲覧ができなくなるだけのことなのである。一方配偶者が他方配偶者に、自分の所在を知られたくないために住基ネットを申請しているわけではない事案が実に多い。事実、多くの事例で、申し立て配偶者は、他方配偶者もよく知っている、自分の実家に住民票を移して住んでいる。それにもかかわらず、一度DV夫のレッテルを貼られてしまうと、行政はまともに相手をしてくれない。私の依頼者が、妻が家に残った子どもの保険証を持って住基ネットをかけてしまったので、残された子どもの通院のために保険証の再交付を相談に行ったところ、区役所の窓口では、何を言っても「あなたに話すことは何もない。」と突っぱねられた。せめて、区役所の職員が、「保険証には奥さんの住所が記載されているので、再発行をするとあなたに奥さんの住所を教えてしまうことになるので、住基ネットがかかっている以上、再交付をするというのは難しいんです。」と説明すればよかったのである。それすら説明されず、「あなたには話すことは何もない。」とのマニュアル対応がなされてしまうと、夫の方は途方に暮れるだけである。相談相手がいない場合、夫の喪失感、無力感を醸成させ、やぶれかぶれにする危険も大きい。DV加害を作り出している事例もあるのではないかと訝りたくなるくらいである。この事例で言うと、医療費の十割負担は、一般家庭では極めて家計を圧迫する。現実に子どもが医療機関にかかれない場合もある。何のためのDV保護なのか、子どもの利益が考慮されないという本末転倒な話になった。

  私は、現状の体制について、副作用が大きすぎるので、保護を軽減しろといっているのではない。これでは、本当に保護されるべき事案で、保護が不十分になってしまう危険性があるのではないかということを主張したいのである。


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このような混乱はどうして生じたのであろうか。

ⅰ おそらく、DVの弊害について論じられたまとまった文献としては、ランディ・バンクロフト(Lundy Bancroft)他の「DVにさらされる子どもたち加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)が行政の拠って立つ立場なのではないかと推測している。この著作は、「DV加害」が子どもの精神に与える影響について明快に論じられ、また「DV加害者」の支配の構造を紹介し,将来に向けた働きかけについて論述されている。正しく理解すれば、必読文献であると思われる。

   しかし、この本を、ある論述を読み飛ばして、1章から6章まで読み進めると、「およそ不平等な論述であり、DV被害者とされる女性の立場から見たDVが詳細に描かれている。」と感じるか、「アメリカの男というのは、極めて男女差別的で、インテリジェンスのかけらもない動物以下の人間が多数を占めている。」と感じるかどちらかである。その結果、日本において、これを参考としてしまうことは、なるほど対策の誤りを犯すと考えてしまうだろうと感じていくだろう。しかし、そう感じながらも、7章から9章までを読み進めると、不思議に共感することが多く、1章から6章までを読み進めた段階では、読み手は、もう「加害者」を隔離するしかないのではないかと思っていたのに、「加害者」に対しても働きかける方法が論じられるのはなぜなのだろうという疑問ばかりが湧いてくる。1章から6章までの著者と7章から9章までの著者は別人なのではないだろうかという錯覚に陥ってしまう。

 ⅱ 種明かしをすると、読み飛ばしたある論述というのは、「DV加害者」の定義のことである。日本において、「DV」とは、物理的暴力、精神的暴力、性的暴力といった家庭内暴力全般を指す。しかし、この著者は、なんらかの暴力を一度でも行った者をすべて「DV加害者」としているわけではないのである。

   著者は、16頁で、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」と明確に定義を述べている。17頁でも、「威嚇的ではない、威圧のパターンを伴わない暴力は、ここでは考慮しない。」とも述べている。

 ⅲ 正しい前提に立って、改めて著作に当たると、7章以降の論述に目をみはらなければならない。著者は、このようなDV加害者であっても、子どもと交渉があったほうが子どもにとって良い結果となるということ(142頁)などが論じられている。DVのリスクアセスメント、更生のプログラムは、極めて実務的であり、参考になる。虚心坦懐に学ぶことができる。

   もし、1章の「DV加害者」の定義と、7章以下を読み飛ばしたのであれば、一度でも暴力を振るう男性、一度でも妻の不愉快になる言葉を発した男性は、DV夫であり、子どもをPTSDに陥らせるので、妻子と隔離することが、子どもと母親にとって必要不可欠なことであるという誤った結論を導いてしまう。しかし、それが今のDV行政に思えてならない。実際、行政関係の資料この本の引用については、「DV加害者」の定義が引用されることはない。法務省のある検討部会は、明らかに全てのDVの影響をこの本が論じているような資料を作成し、それをインターネット上で公開している。

   「DV加害者」とDVをしたことのある配偶者とは、なんらかの区別をするべきである。少なくとも、後者に対して、行政は、中立的立場で、相談に乗ることは必要なことなのである。


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それにしても、この「DVにさらされる子どもたち加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」という著作において、その加害者の定義について、支配の契機を提示したことは、極めて示唆的である。J.L.ハーマンの著作が繰り返し引用され、支援者にPTSDやトラウマの理解を求めているところから、DVの危険性の本質が、肉体的侵襲以上に、精神的侵襲にあり、それが極めて深刻なものだという考察が前提とされている。(さらに、DVに対して行われることは、隔離、刑罰、損害賠償ではなく、改善プログラムに則った更生、教育であるということも感銘を受ける。優れて実務的な解決方法である。)

  即ち、DVによる深刻な精神的侵襲は、加害者の被害者に対する支配の構造の中で生まれるということを学ぶべきである。また、欲を言えば、この点をもう少し論述して欲しかった。

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この著作のDV加害の定義の「支配の契機」は、もっともっと考察されるべき示唆に富んだ主張である。これは、私の弁護士という仕事柄、響くものがある。

 刑事事件で、放火や性犯罪等、一見理解が不能な犯罪類型において、この被支配による閉塞感、圧迫感が犯罪の理由となっていることにしばしば遭遇する。例えば、暴力団員に虜のようにされ、犯罪への協力を押し付けられたり、無理な要求のために自分の生活の時間の多くが奪われたりしている。その人の犯罪をせず社会と調和して生きるという自己決定権や自分の家族と生活する等といった基本的な自己決定権を奪われているという場合がある。あるいは、過労死寸前の就労をしても結果が出ず、さらに仕事のための資格を取るために学校に通わされ、それがプライベートに大きく食い込み、休日も仕事や学習内容の報告をさせられるという、自分の時間のおよそ持てない状況があったという事例があった。職場帰り、上司に付き合わされて、費用の負担を命じられ、睡眠時間も奪われ続けたというケースもあった。

  このような事例において、自分を圧迫する張本人に対して反抗をすることができない場合(多うにして、威嚇により抑圧されているというよりも、張本人のために自分や自分生活が成り立っていると感じて反抗できないということが多い。即ち、表面的には自主的に従属している事例が多い。)、張本人ではなく、自分より弱い者、弱い状態(就寝中等)の者に対して、危害を加え、自分の優位さを実感して、溜飲を下げているように感じられることが多い。不適法に、他人の自由を奪うことで、自分の自由を取り戻そうとしている印象がある。

  支配が続き、閉塞感、圧迫感が常態化することは、人間の精神を侵襲するのではないか。特に、はけ口がない場合は、無力感、喪失感が増大し、蔓延化するように感じられる。生きる意欲、生へのモチベーションが病的に低下する状態となるという考えは、突飛なものではないと考える。その結果、合理的な思考ができなくなり、法律や道徳を守ろうとする意識や、他者への配慮が全くできなくなる。他人の人間性を侵害する行為をする時に、加害者の人間性も壊されていることが多い。


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 DV被害者の訴えの内容は、このような被支配感を表現していることが多い。そして、実際に、一方加害者に、暴力や精神的暴力がないケースであっても、DV被害者が被支配感を抱き、苦痛に感じているのだ。これが「思い込みDV」というものである。もっとも、「思い込みDV」は、いわゆる「DV加害」に対応する被害ではないから放置して良いというわけではない。多くの場合、思い込みDVの当事者は、実際に苦痛を感じており、支配から抜け出したいと感じているのである。適切な対応が必要である。それを放置すると、「DV加害」と同様に精神的な症状が出現する。対処は、思い込んでいる当事者だけでなく、パートナーの理解と行動の改善が不可欠であると考える。悪いことをしたから改善するのではなく、もっと楽しく、充実した家庭生活を送るために、前向きな意味での改善である。パートナーに対する思いやりと置き換えても良いと思う。「思い込みDV」は、多くは、ホルモンバランスの変化や精神症状を伴う疾患、あるいは貧困等の直接、間接の影響に起因することが多いように思われ、思い込んだ当事者に責任がないことが多い。但し、その思い込みを助長する第三者が存在することも多い。

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いずれにしても、「DV加害」の有無について、適切に認定できる能力のある機関を創設するべきである。「DV加害」のある事案については、手厚い保護と更生プログラムを強力に実施する必要がある。「思い込みDV」の事案については、思い込みを解消して充実した家庭生活を行うための、家庭再生的な、紛争解消、成長のシステムを構築するべきである。

9 補論1:少しだけ、支配、被支配について、考察を試みたい。

「なぜ、被支配感が強くなると、精神的な反応が現れてしまうのだろうか。」当初このように問題提起をしてみた。しかし、「当たり前」ということ以外、考えが思い当たらなかった。

  むしろ、動物としてのヒトは、自分の自由な決定で行動をすることに、安心感、自己肯定感をもつものだという前提を立てることの方が、思考順序としては正しいのではないかと考えている。

  古典的な労務管理理論がある。Karasekは、仕事の要求度が高く、裁量性が低い場合は精神的緊張が生じやすいとし、Johnsonは、これに加えて、周囲の支援が少ない場合には、更に精神的緊張が高まると指摘している。現在では、カラセック=ジョンソンモデルとしてひとつの理論とされることも多い。

  「あれをしろ、これをしろ」といわれて仕事の要求度が高く、「俺の言うとおりしろ。なに勝手にやっているんだ。」と言われ、裁量性が低く、「俺は稼いできているんだ。俺が家事をしたら主婦は要らないだろう。子どもがこうなったのは育て方が悪かったんだ。」と言われ、援助がないという家庭は、まさにカラセック=ジョンソンモデルを適用すると、精神的緊張の著しく高い家庭ということになる。

  この場に、暴力の契機がなくても、改善されなければ、言われた方の精神的な反応が生じてしまう。

  そうすると、「支配」ということは、こういう要素に還元できないだろうか。即ち、前提として、援助をしない、その人単独で作業などを完結することを命じ、責任もその人だけが負う。要求度は,その人の自由を侵害するほどの高い要求度である。しかし、その命令内容の遂行過程においては、その人の考えを排除し、言われた通りに行動をなぞらなければならない。

  これに対して、人間は、このような支配を受けると精神的な反応を示してしまう。逆に考えてみよう。第1に、何かをするにしても、助け合いながら作業を進める。ひとりで全てやらなければならないということをしない。第2に、その人の能力と時間、お金等、その人のできる範囲のことだけが要求される。第3に、その人が任せられたことは、原則としてその人の考えで進める。うまくいかず、その人が援助を求めたら、誰かが援助できる体制を作っている。責任をもって作業を行うが、結果についてはチーム全体で責任を負う。

  一見ぬるま湯のように見えるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、チームが長生きするための必須条件のようにも思えてくる。洞窟生活の、チームメンバーの代替のきかないギリギリの状態の中では、精神的緊張が高まり続けたら、チーム全体が死滅してしまうのである。だから、これが、厳しい環境を生き抜いてきた、ヒトという生物のあり方だったのではないかと思う次第である。

  21世紀の高い生産力をもつ人類が、これができない理由、特に職場だけでなく、家庭においてもこれができない理由を真摯に検討する必要があると思われる。そうでなければ大規模なコロニーが死滅へと向かってしまうだろう。


10 補論2:精神反応が、特定の対象に向けてのみ起きる理由

DV加害の被害者はもちろんだが、ランディ・バンクロフトのDV加害の定義に該当しなくても、DV加害の被害を受けていると思い込んでいる場合がある。パニック障害や社交不安障害、うつ病などの診断名がついている場合もある。しかし、そのパニックや、不安の対象がパートナーに集中、限定している場合が圧倒的に多い。どうして、精神症状が、特異的な対象に向けられるのか謎であった。この本を読んでヒントをつかんだような気がする。

被害者も思い込み被害者も、信頼関係を構築した上で話を聞いてみると、結局、ランディ・バンクロフトのいう支配の構造の中にいることに閉塞感、苦痛を感じているということが訴えの本質だということが多い。なるほど、その人との関係において、特異的に被支配の苦痛を感じているのであれば、その人に対して症状が集中することはむしろ当然かもしれない。精神症状というよりも、対人関係に対する精神的反応あるいはその後遺症なのかもしれない。


平成26年3月4日

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