母性と愛着、慈しむということ

 

対人関係理論によると、母性愛ということは、人間の場合は、他の動物と比べると、世に言うほど必須なものではなくなる。出産に伴う危険があるため、母親がいない子どもは20万年の歴史の中で、かなりの割合を占めていたはずである。また、人間の子どもは、猿などと違って、母親以外の人間の表情を察し、真似をする。共感、共鳴する力がもともと備わっている。

赤ん坊が可愛いと感じる気持ちが、群れの中の感情である。弱い者を慈しむ感情ということになるが、群れを強化する大事な戦力であり、その赤ん坊が即戦力となる頃、自分は第一線を退いている。だから、赤ん坊が無力だからといって、軽視するということはなかっただろう。むしろ、尊敬すら抱いていたと思われる。神からの授かりものというのは、20万年の歴史の大部分において、ヒトが感じていた素直な感情であろう。無力なものを守り、慈しむ気持ちは、ヒトの群れにおいて、必須の感情であったと思われる。従って、母親に限らず、父親や、群れの第三者であっても、赤ん坊の危機に対しては、我が身を挺しても守ろうとする感情が起こる理由がある。

但し、現実には、母親の感情というのは、また別にあると思う。それは、300日も、自分の体内の一部だったということに根ざしているのではないだろうか。自分の体の一部が、損傷したり、無くなってしまったりすることは、誰でも恐れるし、怒りを感じて防御するだろう。母親の子どもに対する、愛情、ないし執着は、自己と子が一体のものと感じている名残と考えられないだろうか。出産後も乳という自分の構成物を与えているのであるから、別々に所在しても、やはり一体のものと感じる傾向を助長しているように思える。やがて、子どもは成長する。異性であれば、不可解な存在として、自分と異なるものとして把握できる。しかし、同性の娘となると、なかなか、自分とは異なるものとしての認識をする契機は少ない。母親が娘をコントロールしようとすることは、自分の立ち居振る舞いをコントロールすることと同質のものがあるように思える。ただ、決定的に違うのは、娘は独立した人格であるので、コントロールされることに対する葛藤が生じるということである。

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