妻の不安と夫婦喧嘩 ~ 愛するがゆえに争う、対人関係学的理解 本文へジャンプ


妻の不安と夫婦喧嘩 愛するがゆえに争うことの対人関係学的理解

1 若い友人たちとの会話 

 先日、何人かの若い男性の友人と話をしていて、気づかされたことがありましたので、そのことからお話します。

奥さんが、いろいろとマイナス思考の発言や行動をするので、振り回されて嫌になるというのが、その時の話題になり、みんなけっこうその話に食いついてきたのです。中に、子煩悩な父親もいて、父親があまりに子どもに手をかけすぎるので、母親が怒る。これもどうしてなのかという、手をかけなくても怒るし、面倒だという話になりました。

さあ、対人関係学の出番だということで、私は、「おそらく奥さんは、不安を感じているのだと思う。怒りは、不安解消行動と考えられないだろうか。」と言いました。

すると、「どうして、不安を感じると怒るのだ。」という、最もな質問がありました。私は、「人間も、動物も、危険を感じると、逃げるか戦うかという反応を起こす。危険を感じた場合でも、個性がある。夫に対して擦り寄る人もいるのだろうが、夫から逃げ出したり、夫に対して攻撃して危険を解消しようという行動をする人もいる。」と言いました。「そういわれてみれば、怒って、こちらを攻撃して、服従させようとしているようだ。」と感想をいただきました。

そのうちの一人が、「それにしても、自分としては、親として子どもが可愛いので、手をかけている。妻がそのことで不安を感じるというのは、ちょっとどうかな。」という、これまた当然の感想をいただきました。

私は、「この不安は、理性的意識的に感じているのではなく、おそらく潜在意識で不安を感じているのだろう。いろいろな要因で、夫とふたりで夫婦という家族を構成していているけれど、その対人関係がいつまでもつづくのだろうか、どこかで夫から見放されてしまうのではないかという不安だとしたらどうだろうか。さしたる原因があるわけではなく、そういう危険を潜在意識的に予期して不安を感じているので、奥さんもどうしてイライラするのかわかってはいないと思う。でも、夫といるとイライラしてしまうんだろうね。」と言いました。

すると、頭のいい人がいて、「漠然とした予期不安ですか。なんとなくわかってきました。要するに、怒らなくてもいいことで怒っているのですね。こちらは、妻が怒っているから、なにかこちらに落ち度があるのじゃないかとか、怒るほうがおかしいのじゃないかと、真剣に捉えてしまうんです。こちらも、防衛意識があるのかもしれません。むしろ、言葉ひとつひとつに反応しないで、ああなんか不安なんだなと懐広く構えればいいのかもしれませんね。」と、教えていただきました。変な話ですが、妻がイライラするのは、いつまでも夫と仲良く暮らしたいという気持ちが出発なのですね。


2 尊重されていないという気持ちと不安、その解消方法

 

 離婚相談を受けていると、このように、親が子どもにヤキモチを焼くケースは多くあります。通常は、夫がやきもちを焼きます。妻が母親として育児に手がかかりっきりになることを面白くなく、不機嫌になったり、家に帰ってこなくなったり、浮気をしたりということで相談が始まります。ケースは少ないですが、妻の側が、夫を子どもに取られるという気持ちから、不満を募らせて児童虐待に近いことが起きたり、不安を解消するために夫のもとを去るというケースがあります。その時は子どもを連れて行くことが多いです。

  こういうケースは、古典的には、妻が夫の両親と同居している場合には、程度の違いはあってももっと多くあったように思います。ただ、不安の現れる形が少し違います。当時は、みんなで子育てをして、子どもを可愛がる、自分もせっせと家事をする、しかし、ある時、自分は何のために生きているのだろうと感じる。みんな、子どもを大事にしているが、自分は子どもの母親として大事にされているだけだ、自分というのはなんだ。子どもの召使か。自分は家族から、ひとりの人間として尊重されていないのではないか。こんな感じです。

  いずれにしても、これらの不安は、家族を大事にしているところから起こるものです。「夫婦であったり、家族であったり、いつまでも楽しく、充実していたい。しかし、自分が尊重されていないのではないか。これは、自分が家族から必要とされていないからなのではないか。自分はやがて、家族から追放されるのではないか。」という意識が、潜在的、感覚的に生じてしまうのです。自分の意識では、よくわからないけれど不安になる、よくわからないけれど、いらいらする。ということになります。だから、本来一緒にいたいにもかかわらず、遠ざかってしまうという悲劇が起きてしまいます。

  自分の不安の根源を知り、夫婦がよく話し合い、夫婦というユニットで、子どもを育てるという共通の目標を立てることで解決していくしかないのです。小手先の話で言えば、夫婦が子ども目線で、「お父さん、お母さん」と呼び合うのをやめるというのも一つです。きちんとその人の名前で呼ぶということも有効かもしれません。敵意がないこと、尊重していることを確認できる方法としては、こまめに、相手の良いところを評価することです。「ありがとう。」、「ごめんなさい。」、「それ買ってきたんだ、なかなかいいね。」、「うん、それいいね。」と肯定の言葉はたくさんあります。慣れれば、口にすることも自然になります。聞いている方は、尊重されているということを実感します。これだけで、家族生活楽しくなるなら、やらない理由はないように思います。

  相手の愚痴を懐広く受け止めるということは、なかなか出来ることではありません。その理由は、今度はこちらが責められているのではないかと感じて、防衛反応で、相手を怒ってしまうという反応をしてしまうという、私の友達の洞察もその通りだと思います。振り回されてしまうというのは、原因はわからなくても、共感する力、共鳴する力が人間にあることから、相手の感情を、自分も感じ取って共鳴してしまうというところに原因があるわけです。同じような気持ちになったり、同じように嫌な気持ちになるため、聞きたくないという気持ちになったりするわけです。振り回されてしまうという感情は、巧みな表現のような気がします。

  肝心なことは、これらの夫婦喧嘩は、そもそもが、夫婦でいつまで仲良く、充実して生活していこうという気持ちがあってのことなのです。愛し合っているがゆえに傷つけあう悲劇ということになるのでしょう。


3 不安の根源の一つの生育環境、虐待、ネグレクト

 夫婦や対人関係で、不安を感じやすい人がいるようです。もちろん、出産後のホルモンバランスの変化で、なかなか不安を解消することが苦手になっているということもあるようです。それから、疾患がある場合も、不安を感じやすいようです。

  しかし、どうやら、育ってきた環境によるということもあるようです。子どもは、親の無償の愛の中で育まれていく中で、人間と人間の中にいることで安心感を獲得することを覚えていくようです。その安心感を基盤に、社会に出て、家族以外の人との対人関係を構築していきます。まさに、歩き出した幼児が、母親を何度も振り返り、母親の元に戻りながら、また歩きだし、やがて歩く距離を進めていく過程に似ています。逆に、虐待があったとか、愛情を受けないで育てられた場合、人間と一緒に住んでいることに安心感を学習しないまま成人になる場合が出てくるようです。こういう場合、そもそも、夫婦という新しいユニットを形成しようという気持ちが弱いケースもあるようです。結婚をしても、絶えず、人間関係の維持に、潜在的な不安を感じている傾向になったりすることがあります。関係の集結の理由となりそうなことは、全て不安を感じてしまいます。だから、子どもであっても、憎しみの対象となる可能性が出てきてしまいます。

  自分の母親と折り合いが悪かった妻は、子どもを産んでみて、憎しみの対象だったはずの自分の母親の孤独を感じるようになるようです。そして、夫が、妻の母を尊重しないと感じることも、自分を尊重しないと感じてしまう要因となる傾向があります。母の孤独と自分の疎外感を重ねてしまうようです。夫との葛藤が大きくなりすぎると、やがて疲れて、夫婦という対人関係への帰属意識が薄れ、反動的に自分の母親のもとに回帰するようです。このようなケースは、妻と妻の母の折り合いが悪いほど顕著に起きるようで、あまりにも同じような事案が、見受けられています。

4 離婚が避けられないのならば、負の連鎖を断ち切る努力を

 そうして、夫婦が離婚して、子どもがどちらかに引き取られると、子どもは混乱します。ウォーラースタイン博士の実証研究の結果からすると、子どもは、あまり、父親と母親が別の人格を持った二人の人間だという意識はないようです。両親というひとつのユニットとして把握しているようです。

  このため、例えば、父親が自分の元から去ったとすると、今度は母親も自分の前からいなくなるのではないかという不安を生じさせるようです。子どもにとっては、どちらかがいればいいというものではないようです。その結果、対人関係上の自信、安心感を獲得することができなくなり、結婚しても、不安を感じやすくなるという、悪循環が生じるということが、放っておくと起こります。

  離婚の結論にあたっては、対人関係学スタッフ等、夫婦の対人関係を継続することについての不安の根源を突き詰めた上で、修復する手段がないのかを、慎重に検討するべきです。そうでないと、また同じことが繰り返されてしまいます。子どもがどちらかの親としか暮らすことができないという結論になった場合、もうひとりの親との関係が、円満に継続するよう、親としては、悪循環を断ち切る手立てを、踏ん張って構築してから、自由になることを考えるべきです。例え、相手が理解を示さなくても、子どものために頑張ったという事実は残ります。これは、親としての最低限の責任なのでしょう。ただ、自分ではできないという時は、理解のある第三者を探し出して協力してもらうということになります。そのような第三者と容易にアクセスできるようになる制度を対人関係学は提案します。
 (平成26年1月10日)

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