紛争(訴訟など)について

 

1 個人間の紛争においては、その背景がある。損得を招くエピソードだけでは、紛争になりにくい。大部分は、当事者の、疎外意識や不安が背景にある。そのような背景的な意識を理解し、手当をすることが、紛争を早く解決する、あとに残さない有効な方法となることが多い。

2 私は、交通事故専門の示談斡旋機関で、6年間斡旋委員を担当したことがある。交通事故の場合も、当事者の疎外感、不安感が、紛争を大きくし、このような第三者機関や裁判所を通じての解決が必要となることを示している。

  交通事故紛争の背景となる疎外感として、印象に多いのは、やはり保険会社との関係ということになる。保険会社の担当者に悪意がなくても、担当地域が多すぎたり、担当案件が多かったりすると、被害者の心情を思いやる余裕がなくなるようだ。「この事故類型では、過失割合が2対8となりますので、あなたの損害は8割だけ賠償させていただきます。2割は自己負担ですし、相手の損害の2割も負担していただきます。」ということを言ってしまう。交通事故紛争の専門家、例えば保険会社どうしであれば、それでことが進んでいくことになる。しかし、被害者は、「どうして、自分が青信号で進んだのに、2割も責任を負わなければならないんだ。」という感覚を持つ。疑問が解消されないまま、あたかも加害者のように扱われると、「どうして被害者として尊重されないのだろう。」という疎外感や不安感を持つようになる。保険会社の担当者に、知識さえあれば、5分で説明できるところを、説明しないままにことを進めようとした結果である。

  また、「むち打ち症なので、3ヶ月の通院で保険は終了します。」などと言われ、自分のこの痛みはどうして認められないのだという不安感も増大していく。時として、家族や職場からも認められていないという疎外感から、紛争が大きくなるケースもあった。必ずしも、痛みを否定されているわけではないが、被害者として尊重されていないという意識が、そのような疎外感を増幅させている場合も少なくないように思えた。

  示談斡旋機関の斡旋委員の最後の2年間は、怪我を伴わない、車両損害の事案を担当した。軽微な事故ということになるが、原則一回の調停での解決が求められていたので、毎回が真剣勝負だった。しかし、このケースでは、多くが、相手方が100%悪く、自分は全く悪くないということを、双方が主張し合う、いわゆるゼロ百の事案だった。事故時の相手方の対応、その後の保険会社の対応等の人間関係で、双方が精神的に重防備をしての真剣勝負だった。

  法律的には、多くは、道路交通法を誤解していることが多い。大体の主張を聞いていくと、「いつも自分は、こういうやり方で運転している。今までは事故は起きなかった。だから、事故が起きたのは、相手の運転の責任だ。」ということにつきてしまう。こういうケースは、道路交通法の説明を行い、それが、人々の安全とどのように関わるかを説明していくことが必須である。そして、過失割合というものが、どのようにして出来上がり、その理由についても同じように説明していく。最終的には、今回の事故をどのように総括することが、自分自身の将来のために特になるのかを一緒に考えるということをしていく。

  また、対人関係学的には、当事者の主張を尊重することであり、部分的ではあっても、共感できる部分に共感を示していくことである。ここで、1円でも多く賠償金をもらいたいのではないかということを考えてしまったら、そのようなことはできない。経験的に、そのようなことで紛争になるケースは例外的である。いわゆるゼロ百事案であっても、双方の言い分が、双方とも嘘をついていないということが多い。道路交通法の知識がなかったり、自己評価が甘く、危険な判断をしていることが多いのである。両者の言い分は、大いに耳を傾けるべきなのである。

  人間として、被害者として、尊重し尽くし、交通ルールの説明を丁寧に行い、将来の運転の危険を除去することを一緒に考えることによって、ゼロ百の事案も多く解決していったように記憶している。

  一つエピソードなのだが、一円でも多くという金銭のみの事案で印象に残っている事案がある。どうしてそう言い切れるかというと、それは、保険金詐欺の事案で、交通事故を偽装して保険金を請求した事案だったからである。後に、この人は逮捕された。保険会社は、示談斡旋の前から、詐欺事案であると確信していたため、極めて慎重な取り扱いをしていた。通常ならば、当事者は、自分に対する不当な扱いから、極めて強い疎外感を感じているはずである。ところが、その詐欺の人は、極めて快活で、さわやかなのである。第一印象は、好青年というところである。実際には、被害を受けていなかったということであれば、疎外感を感じることもなく、得心がいった。

  一般的には、交通事故に遭ったこと自体が、不条理を感じるものである。その後の対応がぞんざいであれば、誰しも疎外感を強く感じる。被害者として尊重されていないと感じることはもっともである。対人関係的対応は、そのような疎外感を軽減し、解決を早め、当事者を紛争の場から開放し、さらには、将来にわたっての教訓を導き出すということを志向するわけである。紛争の解決にあたって、将来の紛争の予防ということも、対人関係学の出発点である。

3 紛争が継続することは、それ自体が過重な心理的負荷である。

  対人関係学的にみれば、紛争が継続していること自体、自分が対人関係の中で不安定な立場にあることになる。本来、継続した人間関係を形成していないにもかかわらず、裁判なり調停なり、紛争の継続ということで擬似的対人関係が形成されてしまうことになる。それは、ストレスを与え、潜在意識には、群れからの放擲という意識を想起させてしまう。

  たとえ、道理的にも、法的にも有利であり、相手に資産があり、裁判所の判断があれば、確実に損失を埋め合わせることができたとしても、裁判所に行く日が近づくと、紛争状態が継続していることを嫌が上にも思い出し、紛争の原因となった相手方の対応、例えば不当な報酬の減額という、自分の職業人としての侮辱を思い出し、強い疎外感を感じる。あたかも、PTSDにおけるフラッシュバックである。裁判所に行くということがその引き金になっている。この結果、裁判所に行く2、3日前から、眠れない状態となるということがあるらしい。

  弁護士をはじめとする対人関係学スタッフは、このような当事者の心理を理解し、心理的負荷の軽減に務めるべきである。法律的な見通しが、当事者の心情に比例しないということを強く肝に命じるべきである。また、紛争当事者を、できるだけ孤立させないで、家族であったり、支援者であったり、当事者に対する共感を明示的に示す工夫をするべきである。訴訟の集結は一応の区切りである。できるだけ、依頼者を安全なコミュニティに帰属させることが望ましい。


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