いじめ

 

1 いじめの問題が、事件が起きるたびに再燃する。いじめに対する取り組みが進み、いじめの実態が少しずつ明らかになってきており、関係各位が努力されている様子がわかる。

  しかし、議論の方向の中に、いじめを有史以来の人間の本性に根ざすものだということで、仕方のないものだと決め付け、制裁を強化して、威嚇によっていじめを防止しようという論理があることが気になる。

  対人関係学的に言えば、いじめは、人間の本性ではない。一定の条件の中で、対人関係が歪んだ結果として現れるものととらえる。子どもは、社会の影響を受けやすい。社会の歪みが、いじめという形で反映されているという見方をする。そして、威嚇による予防ではなく、対人関係学的に、緩やかな人間関係の形成に、本能的な喜びがあることを認識させ、そのような群れの力を学ばせ、人格を向上させる中で、いじめの下地をなくしていくという積極的な対応を提案する。人の命の尊さを教えることは結構だが、それといじめをしないことをつなげる理屈が必要だ。誰しも、その人が死ぬと思っていじめをしているわけではない。

2 さらに、平成に入ってからのいじめは、昭和の時代のいじめとは様相を異にしているのではないかと感じている。

  昭和のいじめも、それを正当化する理屈は全くなく、被害者は純然たる被害者である。ただ、少なくないケースでは、被害者に、いじめを誘引する要素がある場合があった。近年のいじめもそのようなケースがないわけではない。しかし、私が担当した事案や、広く報道されている事案は、被害者に誘引要素が全くない事案で、むしろ過酷ないじめが起きているというところに特徴がある。

  いじめの萌芽に立ち会って、対人関係学的な対応によって、いじめの完成を阻止した事案がある。

ⅰ そのケースでは、女子の仲良しグループから始まった。このようなグループが、クラスに数個あり、それぞれがランク付けされていた。グループには入れない子は、さらにランクが下という扱いになっていたようである。そのランクをつけていたのが、問題のグループのリーダー格の子であった。自然発生的にグループを形成したのではなく、その子が、自分の周りに、勉強が出来て、容姿が良いと思われる子を配置してグループを形成したようである。

   リーダーは、グループの維持に努力を惜しまなかった。シールの類をメンバーに配るなどということもしていた。当然、グループのメンバーの間には温度差があり、リーダーに対して積極的に追随していく子と、グループの形成自体にあまりモチベーションをもたない子がいる。いじめのターゲットになった子は、グループの付き合いはしつつも、無邪気に別のグループのことの接触をしたりしていた。そうすると、リーダーはこのターゲットに対して攻撃をするようになった。「私とあの子と、どちらが一番好きなの?」という象徴的な質問が発せられるようになった。

 ⅱ ターゲットの子は、このようなリーダーの問いかけなどから、次第にグループの中にいることが息苦しくなっていった。次第に距離を置くようになり、それをリーダーがさらに攻撃するという悪循環に陥っていったようだ。

   そのような中で、グループに積極的にならないターゲットに対して、リーダーは感情を収拾できなくなり、泣き出してしまう。追随者たちは、事情がわからないが、リーダーとターゲットの二人が対面し、リーダーが泣いている事情から、ターゲットが何をしたかも分からずに、ターゲットを非難して、攻撃をするということが起きた。その後は、ターゲットに一人で仕事を分担させることや、明示的な嫌がらせの他、わざとそれと分かるように、ターゲットを向いてグループ間で内緒話をする仕草を見せつけるなどということが日常的に行われるようになった。大人としては、あるいは、他愛もない話なのかもしれないが、子どもにとっては深刻なストレスとなっていた。

 ⅲ この時点で、対人関係学的な介入が行われた。先ず、家族との結びつきを強めるという作業を行った。家族が、子どもの疎外感や屈辱感に対して共感を持って受け止めるようにした。子どもに、発言を差し控えさせないための手段である。情報を収集することが肝要で、いざとなったら、大人の介入をしなければならないが、時機を逸しないための必須の方法である。何でも話せる環境をつくることは、子どもに対して、自分は家庭においては十全に尊重されているという自信と安心感を与える。帰属意識を高めていくことができる。大人目線での指導は、最終的に行えば良い。共感できる部分に共感することによって、安心感が得られ、それによって、大人目線の指導が効果的になるという好循環をうむことができた。次は、ターゲットが悪いわけではないという自己肯定感を意識的に強めていくことである。さらに、ターゲットからの情報によると、クラスに、同情を示す子どもたちもいるということがわかった。本人は、なかなかそれと気がつかないものである。適切な評価をターゲット自身にさせて、自己肯定感を強めていった。そして、肝心なことは、耐え切れなかったら、いつでも家に帰ってきていいのだということを決然と子どもに理解させる作業をすることである。帰るべき場所、帰属するべき場所は、家族なのだということを、子どもだけでなく、家族も共通の認識とした。嫌なことには終わりがあるのだということも認識できたのではないかと思う。

 ⅳ 少し、グループの分析をすると、リーダーは、二人兄弟であるが、上の子が成績がずば抜けてよく、習い事にも長けていた。傍目で見ても、親は上の子に力を注いいでいた。授業参観なども、多くの時間は上の子に充てていた。下の子も同じ習い事をしたりしていたが、途中で挫折している。親子関係を見ると、下の子は、親に対してかなりの媚を売っている様子が見て取れた。リーダーは、親子という対人関係で、自分が尊重されていないという意識を持っていたようだ。親子であっても、自分が努力しなければ、上の兄弟との関係で見捨てられるという危機感を持っているかのようであった。そのような対人関係的な不安があるため、友達にも、強い絆を求めてしまったのではないかと思われる。強く結びついていないと、自分が見捨てられるという不安感があったのではないだろうか。これが、グループに対する強度の依存的傾向を産み、ターゲットの行動に、強い不安感と疎外感を抱き、ターゲットに対して攻撃心に転嫁した理由ではないかと仮定した。

   ターゲットは、グループ内ではかなり上位の位置づけだったが、そのリーダーの格付けを争っていた子は、リーダーと同じような家庭環境だった。サブリーダー的存在ではあるが、リーダーにとって変わろうという意識もあり、この子が比較的冷静な対応をしていた。嫌がらせには参加していたが、リーダーを批判することもあった。

   ナンバー3は、明らかに格付けの低い子である。一緒に行動しても、あからさまに無視されたり、用事を言いつけられたりしていた。運動能力には長けていて、機敏な対応をする優秀な部類に属する子ではあるが、そのような位置づけに甘んじていた。サブリーダーに追随する傾向も見られた。

   このグループには補欠的な子もいた。よくわからないが、グループの正式メンバーに入れてもらえず、随時グループに帯同していた。この子が、感情をむき出しにして、ターゲットを攻撃していた。ターゲットとはあまり接点もなく、特に恨みはないはずである。この補欠的な子の攻撃は、グループの外にいじめが拡張する契機になりかねないものだった。いじめてもいい子だという認識がクラスに広まり、グループ外の子がいじめに参加すれば、いじめが完成するところだった。

   それぞれ、メンバーは、学校の成績もよく、親も社会的地位の高いとされている職業に就いていた。リーダーが、そういう子でグループを作ったということなのかもしれない。

 ⅴ 学校の対応は、予想した以上に冷淡なものだったそうだ。事態をある程度把握しているはずの担任は、意欲的に授業を行っているいわゆる力のある教師であった。それをいじめというか否かはともかく、数的優位を利用して、反論、抵抗を奪って、継続的に、ターゲットに心理的圧迫をかけているのであるから、大人の是正、指導が行われてしかるべき場面である。一方的な攻撃が行われているのである。それにもかかわらず、「相性」の問題だとして、対応をとらなかったのである。

   本来、対人関係学的には、学校の働きかけでいじめの萌芽を摘み取り、人格的成長に結びつけていくという方式が望ましいと思っている。教師を中心としたクラスという対人関係で解決することが王道だと考えている。外部者が、スポット的に介入することは、あまり効果が上がらない、あるべき姿でもないと思っている。

   今回も、学校に対して強い働きかけを行うか、ギリギリの状態だった。子どもや親が、それに対するデメリットを考慮したということもある。それ以上に、学校に対する働きかけをすることは、当面見合わせることとした。

 ⅵ 対人関係学的介入後、子どもは、明るさを取り戻してきた。グループを離れ、相変わらずの陰口のジェスチャーには悩まされたが、毅然とした対応をすることができるようになった。

   しかし、対人関係学やら何やらよりも、事態を救ったのは、クラスの子どもたちの対応だった。はっきりと、ターゲットをかばう子どもがでてきたのである。気にするなよと言ってくれる子は、クラスの問題児であり、協調が苦手な子であった。しかし、はっきりと、ターゲットを庇っていた。別のクラスの子からよくいじめられていた子は、ターゲットの押し付けられた仕事を肩代わりした。自分にも便宜を図れというリーダーの要求には、明示に拒否した。大人たちは、そうやって特別扱いされることで、グループから反感を買うのではないかと心配したが、事態は好転した。ターゲットへのあからさまな攻撃は、クラスの反感を買うことになるということで、抑止につながったのかもしれない。

   子どもたちの素直な対応が、いじめの完成を防いだという実例である。対人関係学は、間違ってはいないが、このような緩やかな人間のつながりの力こそが、対人関係の問題を解決するということを、しみじみと教えられた。

 ⅶ そして、年度が変わり、クラス替えがあった。リーダーと別のクラスにしてもらうことは、親から学校にはっきりと伝えた。驚くべきことに、同じようなことをした親がいた。サブリーダーの親が、リーダーと別クラスになることを希望していたというのだ。クラス替えによって、無事にグループは解体された。ターゲットは、個別に、グループのメンバーから正式に謝罪された。大人としては謝罪が甘いと感じたが、当事者がとても喜んでいたので、良しとした。新しい担任はベテランの教師で、話を聞くと、驚くべきほど、子ども達一人ひとりをよく見ていることがうかがい知れた。友達関係についても、適確なアドバイスをしてもらったようだ。

   ただ、すべてが解決したわけではない。平素は何の影響もないように感じるが、些細な子ども同士の葛藤があるだけで、「また、あの時と同じようにいじめられるのではないか。」という強い不安を覚えているようだ。これらのことは徐々に解決することなのだろう。また、それからしばらくして話を聞いてみると、グループを作ることは面倒くさい。一人でいても、そのほうが気楽だから、ひとりでいることが寂しいとは思わなくなったということも教えてくれた。当事者も成長していることが実感された。いつもひとりでいるのかというとそうでもなく、休み時間などは、普通にクラスの子ども達とコミュニケーションをとっているようである。依存的な人間関係から、緩やかな人間関係を形成するようになったのだろう。決して、ひとりぼっちではない。

   いじめの萌芽という、子どもにとっては辛い出来事があった。当事者は、それに負けず、あるべきクラスでの人間関係を構築できるようになったし、このことを通じて、家族の絆が強まった。なければない方が良い事柄ではあるが、特に子どもにとっては、危機は、成長のきっかけとなったようだ。

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