自殺の対人関係理論(ジョイナー)と対人関係学の目的

 

(文献の訳者にならって、理論の用語としては「自殺」という用語を使っています。)

ややこしい表題だが理由がある。対人関係学は、ジョイナーの自殺の対人関係理論に敬意を評して命名されているからである。ただ、自殺の対人関係理論と対人関係学の主張は異なるところがある。ややこしくて大変申し訳ない。

 

自殺の対人関係理論とは、自死が起きる要因として、自殺の潜在能力が高まることと自殺願望が高まることとしている。そして自殺願望とは、所属感の減弱と負担感の知覚ということである。所属感の減弱はそのまま理解して良い。負担感の知覚は、自分が生きていることが負担に重い、死んだほうが楽になるという感情を持つこととのことである。問題は、もうひとつの自殺の潜在能力の高まりということであるが、例えばPTSDの要因になるような死を想起させる出来事に遭遇したり、自分の体を損傷したりすること、外科医の治療も潜在能力を高めるとの指摘がある。

この理論は画期的な理論であり、この3要素に基づいて、客観的にその人の対人関係の状態に基づいて自殺リスクをアセスメントすることができ自死予防に貢献することができるというものである。自死予防に関わるものとしては、必読文献であることは間違いない。

だから、むしろ、理念的な問題ということになるが、対人関係学では、3要素はすべて同じものである場合が多い。

自殺の潜在能力を高めるものは、対人関係学では、自分の死の予期不安を生じせしめる事象ということになる。自分の生に対する否定の現象は、身体的な侵襲を伴わなくても、生に対するモチベーションが低下し、死の閾値が下がり、自殺の潜在能力を高める。これが他人の生に対する否定であっても、共感力、共鳴力によって、自己の死の予期不安を潜在的に生ぜしめている。他人を加害するものは、自己の生に対するモチベーションを下げ、自死に近づくのである。共感力、共鳴力は、反応であり、意識的に感じようとするものではないからである。

もちろん、対人関係学においては、生の否定は、生物的否定だけでなく、群れの中での位置に対する否定ということも含まれる。結局、死の予期不安を生ぜしめることにおいて変わりはないということになる。そうすると、群れから疎外される、所属感が減弱するということは、自殺の潜在能力を高めるということになる。生きていくことに負担を感じているということも、対人関係の中で尊重された位置にいないと感じている場合であることが多い。但し、群れを守るために、我が身を守る場合も、負担感の知覚であるとジョイナーは言うのかもしれない。それを自死という概念で括るか、そもそもの概念、考察の範囲の問題になると思う。

対人関係学の喫緊のテーマが自死予防である。追い詰められた末の死を予防しようというところにある。この場合は、対人関係上のその人の状態、変化を自死リスクアセスメントとして、客観的な評価を可能とするべきであるという主張になる。現実に、生に対するモチベーションが下がっているかどうかは、あまり問題としない。そのような状態が客観的に存在したならば、徹底的に手当をする必要がある。

死の予期不安、群れからの放擲というのは、あくまでも潜在意識にとどまることが多い。わけのわからない不安、焦燥感、活力の減退、自己否定等という表現になる。しかしそれは、死の予期不安、群れからの放擲の不安により、生のモチベーションが生理学的も低下している状態なのかもしれない。一度生のモチベーションが低下すると、脳幹からの上方賦活が減弱し、オレキシンの分泌が低下し、その結果モノアミンが作動しないという事態を招くのかもしれない。そうするとモノアミンを補うだけでは、状態は改善しない可能性がある。根本を治療することが困難なことがある。

そうであれば、自死の予防の根幹は、うつ病などの精神疾患の早期発見早期治療にあるのではなく、お互いの充実した生を尊重し助け合うというところに持っていかなければならないのではないだろうか。要するに、このための対人関係学なのである。

トップページへ