個性、性格の偏り

 

パーソナリティ障害、発達障害等、最近脚光を浴びている分野がある。常常感じていることは、誰にとって障害なのかということである。仕事柄、犯罪に至るパーソナリティ障害を持った人と接することがある。通常、犯罪者であっても、身内は情を示す。しかし、重篤なパーソナリティ障害の場合は、実の母親でさえも、逮捕されてよかったと感じ、面会にもいかない。長年苦しめられているし、こちらから情をかけると振り回されるだけだからということらしい。

しかし、このような明らかな(極端な)障害が無いにもかかわらず、障害を持つ者という必要があるのだろうか。誰にとって障害なのかということは検討されるべきである。

 対人関係学では、すべての個性、性格に意味があるものだと考えている。なぜならば、そのような性格が子孫の形成の中で出現したことは、人類にとって意味があるはずだということから出発するからである。実際、協調性というところをひとつとっても、周りに協調しない人ばかりでは群れは成り立たないのであるから、協調する性格が一件正しいようにも思える。しかし、協調する人ばかりでは、集団が滅びる場合も一気に滅びることになる。協調できない人がいることによって、立ち止まって考えることができる。また、群れの動きに不満を持つ人たちが、協調することが苦手な性格の人の行動で、溜飲を下げるということがある。芸術家や文豪は、いろいろ論者によって様々な病名がついている。芸術や文学が人々の心をうつ理由は、個体としての個性を発揮したいと思いながら、群れに協調する生活を送る通常人が、群れに協調せずに、発揮された個性に溜飲を下げ、観念の中で共感を抱くからではないのだろうか。実際、文明の発展は、現実を立ち止まって評価したところから始まる。その中では、群れに協調しない個性が役割を発揮していると思われる。

 群れは、鷹揚に色々な個性を抱えると、強くなるわけである。そのような余裕のある群れは、大きくなっていき、他の群れを牽引することになる。

対人関係学にとって、着目する性格は、危険に対する反応の違いということになる。同じ危険に対して、ある人は逃げ、ある人は戦い、ある人は凍りつく。逃げてばかりいたのでは、群れは衰弱していく。攻撃ばかりでも、自滅する可能性があるし、内部に向けて攻撃が始まる危険も高くなる。いろいろな構成員がいることによって、群れは生き延びる確率を高めているのである。

ただ、個性というのも、持って生まれた固定したものではないと思われる。同じ群れを作るアリやハチは、同じ遺伝子を持つクローンである。しかし、働くアリもいれば、働かないアリもいる。高温を感じると、ハチはすの周りを羽ばたいて、温度を下げる。温度が高くなるほど羽ばたくハチが増えていくのだが、最初から羽ばたくハチもいれば、最後まで羽ばたきをしないハチもいる。クローンの集合体ですら個性がある。そうだとすると、個性とは、案外、その時の群れの状況と、自分の役割によって、変化するのではないか。現在の、その人間の個性は、たまたまそのタイミングで出現している個性とは言えないだろうか。逆に言うと、人間は、自分を変えることができるはずである。今の自分の状態を固定的に見る必要はないということになる。


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