「正しい」夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに

妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討


1 とても不思議な離婚がある。傍から見ているとその意味がよくわからない。突如、妻が、子どもを連れて実家に帰るという現象がある。それまで、普通に家庭生活を続けてきたのに、夫を生理的に嫌悪し、夫と顔を合わせるだけでパニックになってしまう。

  夫に、目立った暴力はない。目立った暴言もない。むしろ、家事にも協力的で、料理も創意工夫して作ることができる。子育ては、特に自発的に参加している。夫の方は、妻子に出て行かれて途方に暮れている。子どもに会いたい気持ちを強く持っている。人付き合いには特に問題がない。

  このような事例が多くなっている。

2 何か理由があるはずだ。子どもを連れ去った妻を非難したり、精神的問題があるとばかり言ったりしても始まらない。

  こういう時、どちらかが、間違っているとか、異常だとかと言っていると、何も見えてこない。どちらの言い分も間違っていないとすると、どこかに必ず理由があるということから始めなくてはならない。また、どちらかが、言葉に出していない、説明しにくい問題があるという補助線を見つけなければならない。

  すると少しずつ見えてくるような気がする。要するに、家事や子育てを夫がすることと関係があるのだ。

夫は、妻のため、子どものために一生懸命家事や子育てをしたのだろう。家事や子育ては、女の専権、専属的な義務ではない。そのことは悪いことではない。これは異論ないだろう。もう少し突っ込む必要がある。家事や子育ては、必ずしも女性の方が上手なわけではないということだ。確かに、授乳は男はできない。しかし、それ以外のことについて、必ずしも、すべての女性が、全ての男性に優っているわけではない。部分部分に関しては、夫の方が上手にやれることはあっても当たり前だ。

ここで、夫と妻がチームとして、それぞれの長所を活かして家事や育児を進めていければ、何も問題が起きないだろう。夫が、自発的に家事や育児を行うのであれば、本来妻はその分自分の時間を持つことができる。夫はそう考えているはずである。

ところが妻は、必ずしも、その夫の努力に対して、100%喜びを持って受け入れるわけではない。

3 端的に言うと、出来すぎる夫の家事、育児は、妻を圧迫している可能性がある。

  夫は、善意で目をキラキラさせて、おむつ替えなどを行う。手際よく、排泄物を確認し、便器に捨てる。紙おむつを器用に丸めておむつ捨てに収納する。手を消毒し、家事に戻る。妻の腕の中で泣き止まない子供をそっと抱き上げて、器用に歌なんて歌って眠らせる。温度計を使わないで、風呂の41度と42度を区別し、少し水を足す。

 「うわあ、魔法みたい。」と、図々しい妻、夫を利用しつくそうとする妻はおだてるだろう。夫は有頂天になって、図に乗ってさらに家事、育児に励むわけだ。ところが、われらが、生真面目で、不器用な妻はどうだろう。夫が活躍するたびに、自分が夫より上手にできない現実を突きつけられていることになる。日中働いてクタクタになっている夫に申し訳ないと思う気持ちは、「俺は疲れているんだから、もっと上手にやれよ。」という非難を、つい予想して、後ろめたい気持ちや、何かの言い訳を探す気持ち、相手を非難したい気持ちになってはいないだろうか。これが現実に、洗い物が終わっていない台所を夫が面白くない顔で洗い出したり、窓のサンのホコリを指でこすって「掃除してるのか?」、とか、「なんで、片付けないんだ。」とか、うっかり言ったりしてしまったら、どうなるだろう。

夫が頑張れば頑張るほど、妻は追い詰められていかないだろうか。夫から自分への低評価、否定、という現実には起こらないはずの事態への予期不安が蓄積されていくことになる。

 こうして、いつしか夫は、妻にとって、その存在自体が、自分を圧迫するストレッサーとなり、追い詰められたような気持ちになっていったのかもしれない。

4 このように、顕著な暴力や暴言のない場合、妻は、架空のDVがあったと思い込んでいることがある。「私は、追い詰められた。人格を否定された。」しかし、その具体的な事実の指摘はできないことが多い。それなのに、暴力を振るわれたようなことまで言うことがある。実際は、暴れている妻をなだめていることが、妻の記憶の中で床に叩きつけられたと変容する。しかし、その場合も、どうしてそのような暴力が起こったのかとする質問に対しては、経緯を説明できない。実際には暴力は起きてないからだ。


5 もっと大きなことから把握しなければならない。現在は、世の中一般の価値観が激しく動き、新しい夫婦、家族の価値観が形成されつつある時代である。過去の封建的な男女関係と、共同して生活する夫婦関係の移行時期である。

封建的な価値観の時は、このような軋轢は一般的ではなかった。家事や子育ては女が行い、男は勤めに出て家に収入を入れる。妻の要請で子供を叱る程度であった。それが、コンセンサスを得ていた。この図式に従って行動して、相手の領分を犯さなければ、誰からも非難はされなかった。また、相手の領分を犯すと、利害関係のないはずの第三者からも非難された。「男のくせに。」、「女のくせに。」である。

このような観念は一部残っている。潜在意識の中で否定しきれないものがある。妻たちは、自分の役割感を持っており、それを果たせないことに、自己否定の感情を抱きやすい。夫がそれを気にしなくても、後ろめたさという気持ちをつい抱いてしまう。生真面目で不器用な女性ほどそうなってしまう。それから先は、個性である。落ち込み続ける人や、逆ギレして、先制攻撃に徹する人、様々な個性に合わせた表現をする。男は、ポカーンと受け止めるしかない。二人に原因があるのではなく、そういう時代にいるということを自覚しなければならない。


6 さらに、妻を追い詰めるのは、母性幻想。

  母親は子どもを愛するものだということ。夫の子煩悩ぶりを見るに付け、夫の方が子どもを大事にしているようだ。私には母性が欠けている。夫が子どもに手をかけるたびに、それは劣等感として蓄積されていく。やはり、夫の存在自体がストレスとなる。

しかし、子どもはチームで育てるものだ。特に人間は、母親だけが子どもを育てるようには出来ていない。子どもも、母親だけでなく、チームに調和して学んでいくように脳の仕組みができており、これは、他の動物を異なっている。猿じゃないんだから。いつまでも母性幻想を抱くことはするべきではない。

  仮に頭で分かっていても、子どもが夫になつき、自分と一緒にいてもあまり笑わない子が、夫と一緒にいると声を立てて笑う。夫は、自分が嫌なおむつ交換や夜泣きの対処も喜んでやっているようだ。自分は、子供に愛情を持てない欠陥のある人間なのだろうか。母親なのにという思いは強くなっていく。

  このように、夫が善意だとしても、妻は劣等感を感じていく。それは、主として夫の責任ではない。夫が、「女のくせに」とか、「母親のくせに」とか言うわけではない。それでも、過去の時代の結婚観、家族観の、遺物に縛られているのだ。そして、家事や育児に無邪気に励む夫は、その妻の劣等感を助長する。愛すべき、生真面目で不器用な妻たちは圧迫感を感じていく。前世紀の遺物が影も形もなくなれば、このような葛藤は生じなくなるだろう。


7 では、どうしたらよかったのか。

  封建的な価値観に戻り、男は家事を一切しない。そういうわけには行かない。それはそれで、不満が蓄積されていく。妻が働かないわけにいかないという事情も厳然としてある。

  相手に悪意がないということを自分に言い聞かせて、多くのことに対して我慢する。目をつぶる。これが、おそらく、多くの夫婦で行われていることだと思われる。しかし、顔に出さないということは至難の業だという場合もある。

  ひとつの解決方法としては、チームミーティングを行い、相手を尊重しながら、役割分担を行う。相手の領分に関しては、滅多なことでは口出ししない。それから、子どもの前では、絶対に相手の落ち度を口に出さない。子どもに対して、夫婦というチームの結束を強めるということである。子どもも、実は、父親と母親を区別して観察しているのではなく、ひとつのチームとして見ていることが多い。「お父さんとお母さんのどっちが好き?」と聞かれて、子どもが途方にくれるのはそういう理由があるからだ。そしてチームの話し合いでは、子どもの父親と母親として接しないで、名前で呼び合うということも有効かもしれない。

  もうひとつの方法としては、家事や育児は、妻を総監督として扱う。いちいち、お伺いを立てながら、妻を立てて、夫は行動してみよう。この時必要なことは、妻が劣っている、うまくやれていないので、自分が変わってやって良いかなどということを、絶対おくびにも出さないこと。「忙しそうだから、掃除してみようか。」、「台所にいて手が汚くなるから、俺がおしめ交換しようか。」等である。そして、妻が友人や、実家に、「私が言わないとなんにもしてくれないのよ。」ということを言わせるのを最終目標とする。

  夕飯が多少美味しくなることと、家庭が円満なのはどちらが良いか。飯がうまくても、家族がぎくしゃくしていれば、結局飯はまずくなる。

  具体的には、それぞれの個性に応じて工夫をしていくしかないだろう。肝心なことは、相手を尊重する態度を鮮明にすることである。大切なことは、結婚観、家族観の移行期間であり、両者の価値観が入り混じっている時代に我々は生きているということである。理想論はともかくとして、実際に生きているパートナーにふさわしい行動様式を、臨機応変に取る必要があるということである。


8 今となって、どうしたらよいか。

  すでに別居している場合はどうだろう。

  かなり、不利な状況である。多くの妻は、実家に帰っている。実家では、自分を育てた人の中にいるから、第1に、価値観が分かり合える。部屋が汚くなっていても、許容範囲が共通している。第2に、責任は親に転化できる。私がこうなったのは育て方が悪かったんだから、文句言わないでと言える。第3に、今の親の中には、孫を父親から話しても自分の手元に置きたいという衝動を抑制できない者が多い。要するに、親子関係は封建的に親を大事にしなさい、自分の子ども、孫の親の夫婦関係は、男女平等、独立した人格という「いいとこ取り」である。その結果、孫が健全に成長せず、人生を棒に振っても、孫は自分を喜ばせるものと割り切る。このような人として許せない人物像は、決して稀有な存在ではない。

  再度申し上げる。かなり、不利な状況である。それなら仕方がないと面会交流の実現に全力を挙げるというのも正解の選択肢の一つかもしれない。しかし、この点を解決しないと、面会交流の実現すら難しい。

  私は、一つ一つ巻き戻すしかないし、時間は意外に残されていると考えている。この種の女性の多くは、男性全般に対する不信感が根強いため、再婚をするとしても遠い先のことである。焦りは禁物である。

  第一に、相手を尊重する意思を鮮明にすることである。何かのきっかけが有り、相手方に連絡ができるのであれば、必ず、感謝の言葉をつけること。「子どもの面倒を見てくれてありがとう。」、「子どもが書いた絵を送ってもらったが、成長を感じる。大事にしてもらっていることがわかる。」とか、よく考えて、相手を肯定する部分を見つけるということである。相手は、それだけで、夫がだいぶ変わったなということを実感する。生真面目で不器用な女性は、返礼をしなければならないと考える。これは実感の程度に応じた返礼なので、それほど期待はできない。しかし、この積み重ねである。

  第二に、相手の不安となることをしない。子どもに会いたい気持ちはわかるが、押しかけていくと、心理的プレッシャーが強まる。気持ちだけ、当時の状況に戻ってしまい、パニックになる。空間的把握、時間的把握ができなくなってしまう。110番をしてしまう事例は意外に多い。

  第三に、第三者に骨を折ってもらう。こちらから相手に対して働きかけをしないことが続くと、良い思い出は忘れ去られてしまい、嫌なプレッシャーだけが、ふるいにかけられたように残ってしまう。しかし、本人が直接登場してしまうと、逃げ場のないパニック状況が蘇るだけである。共通の友人でも、裁判所でも弁護士でも、つながっていることが必要だと思う。簡単に離婚に応じてしまえば、とっかかりはなくなる。争いをしないことは、諦めることだ。上手に争いを利用することが鉄則である。極力争いを続けることが鉄則である。その第三者に、あなたを叱ってもらったり、あなたを制御してもらったりして、あなたがそれに従うことを、妻に見せることは、将来のふたりの関係を目で見て予想できることであり、効果的である。それを、相手に直接見せられないのなら、相手の親や共通の友人に診てもらって伝えてもらう。ここを伝えてもらうということが大事である。この第三者と妻自身を置き換えて想像してもらうことが必要なのである。

  第四に、相手を、子どもの母親としてではなく、個人として尊重する必要がある。難しいところだが、本人にも、自分の価値の多様性を自覚してもらうことが必要である。

  第五、反省を示すということである。家事、育児のできる夫が嫌われる理由は、それは、「正しい」からである。あなたが、医学的に、教育学的に、正しいとしても、それは対人関係学的には全く正しくない。論理的、生物学的に正しいことは、必ずしも人間の行動原理にならないし、価値観に合わないこともある。大事なことは合理性なのか、相手の気持ちなのか、相手の気持ちを踏みにじってまで追求しなければならない正しさとは一体なにものなのか。それが、腹に落なければならない。この点についての反省を示すことが大切である。

  相手の気持ちを考えずに正しさを主張することは、対人関係学的には、未熟な人間、未成熟な対人関係ということになる。相手を尊重することを第一に考えてこそ、相手は成長し、実力を開花する。相手と自分の成長を、逐一褒め合い、喜び合うことによって、成長は加速する。対人関係学的には、家族、学校、職場は、そこにいて楽しいことが出発点である。そこに帰りたくなって当たり前の関係である。その対人関係のためには努力を惜しまないという気持ちになっていくものである。

  それらを阻害する行動を自分がとっていたのであれば、具体的、率直に、指摘し、それが、相手をどのように傷つけたか、どうしてそういう行動をとってしまったか、これから何に気をつけて、具体的にはどうするかを示すことが必要となる。

  自分の主義主張はあるだろう。やはり自分の考える正しさを追求したいと考える人もいるだろう。真摯な検討が求められるところである。

  
平成26年2月13日

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