Okada's Office, Tenri University

コ ラ ム


2002(平成13)年8月号
生駒市広報「いこま」(No.577)

「人権に吹く風」D

「じぶんのこころをみつめる」


  ある企画もののテレビ番組で、15か国から集まった女性が離れ小島で共同生活をしながら、その島を脱出するための筏(ルビ)作りをするというものがありました。役割を分担して、食料や筏の材料を探しに島の奥に入っていったり、食事の準備や後かたづけをするのですが、なにぶん言葉が通じないこともあって、15人の女性たちはことあるごとに衝突し、険悪な雰囲気になっていきました。結局、企画から脱落する女性がどんどん出てくることになりました。15人の女性がどのようにして集められたのかなど、番組裏側の詳しい経緯はわかりませんが、この企画に「多文化共生」の難しさを見た人は多かったのではないでしょうか。15か国という言葉の壁だけではなく、生活習慣の違いや、他民族への先入見などが、ともに生活し、共同作業をしていくうえでの大きな障害になることを示していたように思います。  こうしたことは、わたしたちが海外へ短い期間旅行しただけでも実感させられることでもあります。自分が暮らしている国では当たり前のことが、その国では当たり前ではない、という経験にとまどったり、ときにはそのことから事件、事故につながったりさえします。大変なことにならずに帰ってこられたら、それはそれで楽しい旅のみやげ話になります。いわゆるカルチャーショックを受けたということです。そう考えると、わたしたちのまわりに暮らしている外国人のかたがたは日々カルチャーショックを経験しながら暮らしておられることが想像できます。  また、このようなことは国際的な問題だけにかぎりません。わたくしごとになりますが、6年前に結婚した際、その披露宴をどのように設定するのか、親や親類、友人の取り扱いをどうするのかについて、夫婦で意見がかみ合わずに苦労したことがありました。その後の家庭生活においても、お互いが相手に対してカルチャーショックを感じることがしばしばありました。育ってきた家庭が違うのだから当然といえば当然のことです。  自分にとっては“常識”であることが、実はそれがごく狭い範囲、たとえば、ある家庭やある職場、関西地方といった地域やある国でしか通用しないことが、だれにでもあるのではないでしょうか。現代社会では、人びとの行き来が流動的になっています。さまざまな“常識”をもった人と人が接触する機会はますます増えています。そして人間関係から生じた問題をそれぞれの個人が対応し解決していかなければならなくなっています。その際、わたしたちは自分のこころをみつめ“常識”を問うてみる必要があるのではないでしょうか。



2002(平成13)年5月号
生駒市広報「いこま」(No.574)

「人権に吹く風」A

「第三世代の人権」


 わたしは大学で生涯学習を専門として教えています。生涯学習の研究は、学校にかぎらず、地域社会や家庭、職場のなかで、誰もがいつでも学べるような「学習社会」の実現をめざして、そのために何が必要なのかを考えることを課題としています。このシリーズでは、そうした生涯学習の視点から「人権」の課題にせまってみようと思います。  生涯学習は、本を読んだりしながらひとりで行うこともできますが、多くの学習活動はたくさんの人びとからの励ましやさまざまな人びととのふれあいによって支えられています。いっしょに学ぶということが楽しく、それが学習を実りあるものにするのです。じぶん自身を生涯にわたって成長させていくためには、じぶん以外の人とのかかわりが大切だといえるかもしれません。
 人権の課題においても、こんにちとりわけ、わたしたちが開かれた人間関係を大切にして、さまざまな活動に参加し協力していくことに重点がおかれるべきだと考えられています。もともとこうした考え方は、国際的な人権概念から生まれたもので、「第三世代の人権」として位置づけられ、「連帯の権利」とも呼ばれています。  第一世代の人権はわたしたちの自由が国家(行政)によって干渉されないことを求めるもので、ある意味で消極的な権利です。第二世代の人権は逆に社会的、経済的、文化的な面で一人ひとりが等しく扱われるように国家(行政)に積極的な行動を求めます。それに対して、第三世代の人権は、わたしたち自身がさまざまな活動に参加し、手をとりあい連帯する権利をいいます。自由権(第一世代)と社会権(第二世代)を基本として、それらを越える「連帯」あるいは「友愛」の視点が人権を考える場合に重要だといわれるようになってきたのです。
 さて、わたしたちが友愛によって連帯するためにはどうすればよいのでしょう?  わたしたちはお互いのことを理解し、尊重し、助け合うためには、生活のなかでぶつかるいろんな困難について、みんなが関心をもって、ともに学び、ともに活動することが大切です。課題を共有し、知恵を出し合いながら、学び、活動する。人権の学習は、一方的に教えられることではなく、ともに学び、ともに活動することなのです。それは、わたしたちがお互いに協力し友愛で結ばれるための大きなチャンスです。阪神淡路大震災をきっかけにわが国ではボランティアが注目されるようになり、国家(行政)のサービスが届かないところで市民による自発的な活動がさかんにおこなわれるようになっています。また、同時多発テロに端を発したアフガニスタンの問題では、日本のNGO(非政府組織)が現地で活躍しました。ボランティア活動では、支援される人びとの自立と自決が大切だといわれています。積極的に人とのかかわりを求め、その人の気持ちを理解し、尊重することによって、みんなが共に生きていけるようになるのではないでしょうか。



2001(平成13)年6月
『天理大学人権問題研究室ニュース』(第6号)

人権問題研究室公開研究会報告

「御天道様は見てくれている?
〜ボランティアにおける自律とエゴブー〜」


 天理教には「陰徳と積む」ということばがあるそうです。誰も見ていないところで善を行うことの大切さを教えているのだと思います。あるいは、奉仕活動に見返りを求めることを戒めているのかもしれません。
 一般には、こうした行為に対して「御天道様が見てくれているよ」と、報われない気持ちを慰めることもあります。誰かに感謝されることを期待するのではなく、世のため人のために尽くすことは、まさに美徳であり、個の自律であり、ボランティア精神の根本はここあるといえます。
 しかし、ボランティアが広がりを見せ、大きな期待が寄せられる今日、積極的に「他者の目」を視野に入れたボランティア活動についての考え方があってもよいのではないでしょうか。つまり、他者から賞賛される、あるいは世間の評判になるといった「利益」を、ボランティア活動の動機として評価してはどうだろうか、という提案です。
 自分の評判を高め、自意識を満足させる(エゴブー:ego-boosting)ことは、ボランティア活動を開始し継続していく原動力になります。しかも、他者の目が、自己完結的でひとりよがりの活動にならないように制御し、ボランティアする者に活動の修正を求めます。独善的な行為は、人びとから賞賛を受けないからです。自ら行う行動の自己修正は決して個の自律を損なうものではありません。市井の人びとの相互評価を信頼できるほどに、私たちの社会は成熟していると考えてもよいのではありませんか。
 経済企画庁(現内閣府)が平成12年に出した『国民生活白書:ボランティアが深める好縁』では、ボランティアのきっかけとして、わが国では知り合いの活動への支援や義務感をあげる人の割合が高いのに対して、アメリカでは自分自身の満足を高めようとする姿勢が相対的に強く働いている、と指摘されています。エゴブーを満足させるという私的な自己実現を求める活動が、他者に対する気遣いや配慮へとつながっていくのなら、ボランティアはさらに広がるのではないでしょうか。
 エゴブーという考え方は、E.S.レイモンド(山形浩生訳)『伽藍とバザール』(2000)からヒントを得ました。インターネットの世界では、新しいソフトの開発はソースを公開して、誰でも手を加えることができようにし、その結果、誰にも使いやすいソフトが完成するという例があります(ex.リナックス)。その際、エンジニアたちの報酬は、評判と賞賛だというのです。
 研究会では、エゴブーということばの面白さは「評判」になりましたが、考え方自体に「賞賛」を得ることができなかったようです。募金もボランティア活動のひとつですが、よく神社の境内に「○○様 金△△円也」と寄付の掲示があるのを見かけます。あれはボランティアと言ってよいのか、という話も出ました。結局、ボランティアとは何かというところに議論は戻っていたようでした。



2000(平成12)年11月16日
天理大学人権問題研究室「公開研究会」

案内パンフレット

「御天道様は見てくれている?
〜ボランティアにおける自律とエゴブー〜」


 いくつかの調査結果が、日本人は他の国の人びとにくらべ、ボランティアの意識は低くないが、実際にその経験がある人は少ないことを伝えている。ボランティアは必要だと思っているが、実行への第一歩が踏み出せない人びとがいるというのである。
 そこで、受け皿として団体や組織が編成されるのであるが、その一員として活動する個人の自律はどのように考えられるのであろうか。
 また、ボランティア活動の意義あるいは喜びとして、出会いやふれあいといった人間関係が強調されるが、そこに躊躇する人はボランティア活動はできないのだろうか。
 そもそも、ボランティア活動とはどのような活動をいうのだろう。
 なぜ人はボランティア活動をするのだろう。
 阪神淡路大震災以降、わが国ではボランティアの広がりとその可能性がさまざまな分野で注目されている。この発表では、情報化社会における人びとの活動としてボランティア活動をさらに広くとらえながら、個の自律とエゴブー(ego-boosting: 自分の評判を高めること)への正当な評価という視点から、ボランティアについて考えたい。



2000(平成12)年10月25日
『天理大学広報』(第166号)

シリーズ・人権を考える

「リプロダクティブ・ヘルスと男女平等」


 国連による世界の人口動向分析は、もともと戦争による死者と病気により人口が減少するのではないかという懸念を背景に始められた。
 1950年と1960年の調査結果は、当初の懸念とは逆に世界人口の急増を危惧させるものであった。これ以降、人口増加の抑制が国際的な関心となってきた。
 その人口政策において重要な転換点となったのが、1994年カイロで行われた国際人口開発会議である。この会議では、社会経済の開発と人口問題を結びつけるととも
に、家族規模の縮小と人口増加の原則は「抑制」ではなく、「選択」に依存するとの認識が示された。「ほとんどの女性は選択の余地を与えられれば、自らの母親よりも産む子どもの数を減らす」という考え方である。
 このたび発表された国連人口基金の「世界の人口状況:2000年版」は、そうした流れに沿ったものとなっている。
 今年2000年の世界人口は60億5500万人、2025年には78億2400万人になると見られ、人口増加の一因として、毎年8000万件もの望まない妊娠があるとする。
 一方で、5000万件の人工妊娠中絶がおこなわれ、そのうち2000万件は危険な手術であり、そのせいで7万8000人の女性が死亡、数百万人の女性が障害をもったり、病気になっている。これらの95パーセントは発展途上国で起こっている。
 また、毎年3億3300万人が性感染症にかかっており、女性は男性の五倍、とくに若い女性の感染が深刻だという。
こうした状況をふまえて、世界人口基金は、バランスのとれた人口増加と経済発展のためには、リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)を含む教育と健康に対するニーズを満たし、男女平等の実現へ働きかけることが重要であるとしている。
日本の人口は現在の1億2700万人から、2025年には1億2100万人になると予想されている。
 少子化による人口減少は、必ずしも女性の選択の幅が増え、男女平等が達成されたことを示してはいないだろう。
 援助交際現象に見られるように、若い人びとの性意識や性行動が近年大きく変化し、性感染症の増加がわが国でも指摘されている。
 リプロダクティブ・ヘルスケアの充実と男女間格差の是正は、発展途上国だけの問題ではない。



2000(平成12)年10月
『天理大学人権問題研究室ニュース』(第5号)

図書紹介

『「弱者」とはだれか』(小浜逸郎著、PHP新書、1999年)


 私たちの生活の中には、何だかおかしいと思いながら、どことなく語りにくいという感じを抱いてしまう話題がある。「弱者」についての問題は、そうした口ごもる話題、公言しにくい問題のひとつであろうが、それではなぜ人びとはこの問題に口ごもるのだろうか。このこと自体を真摯に考え、率直に語るというのが本書のテーマである。
 一般に「弱者」として一括りにされる人びととは、「老人」「子ども」「障害者」「在日外国人」「被差別部落出身者」「女性」などである。著者はこれらの人びとが「相対的な意味で社会的な弱者に属する事実」を認めた上で、それを「まったく自明」のこととしてすませてしまうことを問題にする。「ある人々を意識の上でただ一口に「弱者」「被差別者」と括ってすませていれば、それに対しては、差別的に振る舞うか、無関係の立場を通すか、過剰な配慮をするしか態度の取りようがない」からであり、「それぞれの人がどのような「弱者性」を背負っているのか(あるいはいないのか)を、接触体験や対話や自己への問いを通して、深く知ろうとするのでなくてはならない」のだという。
本書では、「出生前診断」、「優先座席」、「言葉狩りと自主規制」などの問題のほか、『五体不満足』や『ゴーマニズム宣言』、『ちびくろサンボ』などの話題が取り上げられ、それらを議論の俎上に載せ、率直な実感を語るところから「弱者」についての考察がすすめられている。そして、道徳的な説教や論理的な説得よりも、日常生活経験の積み重ねのなかにこそ差別的な感情・感覚を改めさせる力があることを説く。
 語りにくさを理由に、思考や経験の省察をおろそかにしてはならない。自分自身の感情を意識化しそれに向き合うことの大切さと、そこを出発点としてよりよい人間関係が構築できる可能性を、本書は教えている。



1998(平成10)年10月
『天理大学人権問題研究室ニュース』(第2号)

今期の研究員紹介

「学習と信頼」


 『信頼の「解き放ち」理論』というのがある(山岸俊男『信頼の構造』東京大学出版会、1998)。「特定の条件の下では、他者一般を信頼するという特性が、結果として本人に利益をもたらす可能性のあること」を指摘するものである。社会的不確実性が存在している状況では、人は安心できる人間関係を形成することによって不利益を回避しようとする。しかし、関係が固定化することによって、関係の外にあるより大きな利益を獲得することが困難になる。こうしたコミットメント関係(しがらみ)を解き放ち、関係を拡張していくことによって結果的により大きな利益がもたらされることになるのであるが、その「解放者」としての役割を「他者一般を信頼する」という個人の特性が果たしているというものである。
 ここでいう利益を、経済的なものだけでなく人間的な成長を含めて広く解釈するならば、関係を拡張する原動力としての「信頼」は、成人の学習論においても検討の対象となる可能性がある。生涯学習の成立には、成人を取り巻く人間関係が大きな役割を果たしていることが指摘されており、その学習をより豊かに実り多いものにしていくためには、学習のベースとなる人間関係を広げていくことが重要だからである。
 人権や差別についての学習においても、学習方法として人間関係を形成する場合の「信頼」の役割について吟味することや、問題解決の糸口として「信頼」や「信頼の不在」の意味を検討し、「信頼する」特性の獲得と発達について吟味することは意味あることのように思う。
 山岸が指摘するように、「信頼」は社会的な複雑性を縮減するという以上の役割や機能を含んでおり、それは学習論研究にとっても豊かな可能性を内包しているだろう。



1997(平成9)年12月8日
『天理大学広報』(第152号)

随想

「学校週5日制と大学」


 西暦2003年に小・中・高校では、週5日制が完全実施される。これにともない授業時間の削減が余儀なくされるため、文部大臣の諮問を受けた教育課程審議会は教育内容の厳選について検討している。11月17日に公表された中間まとめ「教育課程の基準の改善の基本的方向について」の中で、「教育は学校教育のみで完結するのではなく、学校教育では生涯学習の基礎となる力を育成することが重要である」との基本的な考え方が明らかにされた。
 ところで、大学教育においては週5日制はほぼ定着しているようであるが、初等中等教育とは違う意味での教育内容の厳選や柔軟な教育機会の提供方法の検討が今後ますます必要となってくるだろう。
 初等中等教育に続く高等教育(学校教育)として、生涯学習の力量を専門教育において完成させるという点から、卒業後継続して専門的知識・技能に磨きをかけていける能力が育成される必要がある。
 一方、学校教育終了後の学習機会提供機関(生涯学習)として、人びとの継続教育への貢献という点から、広く社会人を大学教育の顧客として迎え入れるためにさまざまな配慮が必要となる。
 週5日制を先取りした大学ではあるが、これらの必要は、とくに後者の場合、教育提供の量的削減という初等中等教育とは、異なる方向を指すことになる。
 「学校教育」として教育内容を厳選していくのか、「生涯学習」機関として幅広い教育機会を準備するのか。18歳人口の減少という状況の中で、大学はふたつの顧客からの異なる要求を前に、生き残りをかけて苦しい自己変革を計画していかなければならない。
初等中等教育が生涯学習の考え方を受け入れこれまで背負い込みすぎた荷を降ろそうとするとき、逆に大学教育はますます重い荷物を背負わなければならなくなっているのである。