Cafe Master


 堪らなくなって、私は再びあの古びた喫茶店に入る事にした。
 もう空に月を失い、地に季節を喪失って久しい或る晩。
 私は黙って、己が影と同じテーブルに坐し、何百年か振りに影と向き合った。
 店主はメニューも運ばずして私の元に一杯の珈琲を置くと、カウンタに戻って皿洗いを続けた。
 出された珈琲に口を付けず、私は影を見据える。
 視線を避けるように、影は本から顔を上げようとせず、もう紙端が切れかけた頁を捲り続けた。
 その仕草は、先程迄の私と同じ。無限の繰り返しに過ぎない。
 窓外を見遣る。
 時間だけがただ流れ行く。
 そうして、どれ程の時を待ったろう。
 いや、どれ程の時を浪費し続けたろう。
 私は弾かれた如く立ち上がって、影から本を奪った。
 呆然としている影。
 縋り付くような視線が、光の無い顔から延び、絡み付く。
 私はその目を断ち切る様に本を真っ二つに裂いて、机上の灰皿に押し込んだ。
 掬い上げようとする影の手。
 振り払って、備え付けのマッチを擦り、仄明るく燃える火先を旧い紙の上に投げた。
 染み透る様に広がる炎が、静謐に
テクストを焼く。
 間も無く、灰皿の上には灰塩の塊と、僅かな水が残った。
 影はそれを確かめると、黙して私の足元に帰り、私の足は地に着いた。
 カップの内側には水分が蒸発した事を示す喫水線が刻まれており、珈琲は生温く冷め、最早、正確な味は解らなくなっていた。
 空には遠くの恒星から注ぐ旧い光が瞬き、店内を射す。
 店主は足元に延びた影を名残惜しげにぢっと見詰めていた。

 

 暫くの後。
 私は再びその店を尋ねるべく辺りを歩き回ったが、何故かその店を見付ける事は出来なかった。


2002.09.092003.06.04