Hund bleibet meine Freude
私の目の前には、鋼鉄のスリットが四方に走っている。
そのスリットに遮られた縞々の世界が私の世界の全て。
大きさは変われど、私は生まれてからずっとそのスリットの中に居る。スリットから見える景色はいつも変わらない。だが、私の景色の中を通り過ぎて逝く事物は変わる。薄汚れた白い壁。夥しい数の薬品臭。雑多な書類に埋もれて右往左往する知性の無い顔ぶれ。
知性の無い顔ぶれ達は、時折、私の思考の邪魔をする。陰鬱な顔で私の姿を眺めたり、意味もなく私の身体を撫で回す。しかし、決して牙を剥いてはならない。スリットの内側には私の生命を維持する為に必要なものが備わっていない。即ち、水と食料。それらは常に外界から齎される。彼らの手によって。だから、私は私の景色を堪能する為に、幼稚な彼等を満足させる術を駆使する。すると、単純な彼らは私の身体を撫でまわし、幾ばくかの生命維持装置を与えてくれる。
そして、私はスリットの中で眠りに就く。
夢の中の景色では、いつもスリットは出てこない。その漠たる空間は、私を解き放ち、また怖気づけさせるのに充分だった。スリットの無い世界に出ると云う事がどういう意味を持つのか承知している。そして、いつかスリットの外へと出て行かなければならない事も。
だから、私は夢を視るのが嫌だった。
朝が来て、自分がスリットの中に居る事を確認した瞬間が最も幸せな瞬間であった。
しかし、幸せは長くは続かない。あっという間にその鮮度を落とし、変成する。空気中に放置したビタミンCの結晶の如く。
連綿と通り過ぎて逝く景色を眺めていた或る日。私は不意にスリットから出された。そして、悲しげな顔をした知性の無い顔ぶれに連れられ、エッググリーンの密室へと運ばれた。密室ではカルトのような真白の衣装を纏った怪しげな教団員達が群れを成し、寝台の上で四肢を固定された私の頭部に注目しているのが解った。
最初で最後の景色の変化の中で、怪しげな呪文と共に強烈な痛みが数度走った。それは本来学習している痛みとは異なる、もっと強烈な、劇的な刺激と言った方が正しい。感動的に目まぐるしく変わる景色。それは夢でさえも見た事の無い、想像を遥かに超えた世界の変容であった。あらゆる事象は経験則を離れ、時間の感覚は意味を成さなくなる。やがて、間遠にゆらめくフィルターに遮られ、重いゼラチン質の音が響いたかと思うと、ゆっくりと私は私を離れていった。
知性の無い顔ぶれは、血溜まりに沈む私の姿を見て、素手で熊でも仕留めたかのように満足げな笑みを浮かべている。それは正にカルトの儀式の終焉を告げるに相応しい様相を呈していた。
やがて、大きく景色は移り変わった。
電車の中で立ち話をしている三人の男女。三人の内の一人は見覚えのある男だった。
男の傍らに立つ、若い女性はしみじみとこう呟く。
「………でも、実験用の動物って、育てているうちに可愛くなっちゃって。」
その側に居る若い男も後を繋ぐ。
「そうなんですよねー。」
しかし、その中心で足を踏ん張っている小柄な老客は
「しっかし、イヌってバカだよなー。」
と高笑いした。すかさず疑問を提示する女性。
「えー、どうしてですかー?」
「ずっと育てるだろ?で生体解剖するんだけど、麻酔使うと影響が出る実験なんかは、そのまま麻酔しないで脳を開いたりするんだよ。当然痛いんだろうけど、イヌは飼主を信じてるもんだから鳴きもしないんだよねぇ。」
カルトの長であった白衣の男の姿はめっきりと老い、かつての組織の栄光の影も薄くなり始めていた。だが、あの下品な口調と笑い声だけは変わることが無かった。
思わず私は彼のような愚者が、出来るならば永遠に、最早スリットの無い私の幸せな視界を越えて、見えないスリットの内側である安息の世界に入ってこないように、彼の健康と長寿を、私の世界の長に祈らずにはいられなかった。
2000.07.02→2002.10.31