Hypocrisy


 何時からか、この街には免罪師が棲み付く様になった。
 免罪師は、何故か頭に二本の角を生やし、背に闇色の翼を負った悪魔の姿をしていたが、街の人々は皆、彼の事を崇め、心から尊敬していた。
 彼等は進んで、免罪師の指から延びる鋭い爪で額に逆十字の傷を刻んで貰う。
 傷は全く痛まない。そればかりか痕からは耐えず血と甘美な快感が溢れ続け、死して尚、止まる事は無かった。
 だが、それは旧き書物に記された『聖痕』に違いなく、それを刻まれる事は全ての罪を赦されたのだろうと、街の人々は信じていた。
 中にはその傷を付けられても、痕が残らない者もいたのだが、その者達は、何時の間にか跡形も無く消え去ってしまっていた。人々は罪を赦されなかった故に煉獄へ墜落したのであろうと、本気で考えていた。
 けれども、
『真実』を知る者は、誰一人いなかった。
 その免罪師を除いては。

 或る時、その免罪師は路面電車の駅で、頭上に輪を戴いた紳士と口論していた。
 紳士は、らしからぬ声色で免罪師に向かって抗議した。
 「三界の秩序を乱すような、勝手な真似をされては至極困る。君の本当の行いを容認しているのは私だが、彼らに誤解を与えるようなやり方だけは、断固止めて戴きたい。」
 免罪師はその台詞を聞くと、きょとんとした顔をして方を竦めた。
 「誤解、とはどういう事だ? 私は私自身のやり方で、三界のバランスを保つのに助力しているのに、何故それを止めなくてはならないのだ?」
 「君がしているのは、私の名を語った、弱き者に対する単なる誘惑であり、虚偽であり、偽善だ。」
 いきり立つ紳士を一瞥すると、免罪師は口端を歪めて笑った。
 「何が可笑しい!」
 「君が私の事を『偽善だ』、と言うのに異議を挟むつもりは毛頭無いが、恰も世の中には『本当の善』があるかの様な君の態度は承服しかねる。それなら、何故、この世には私の様な者が存在していられるんだ?」
 「それは…。」
 反駁を遮って、免罪師は語った。
 「君の教えを歪めたのは誰かね? そして、その『本当の意味』を教えられる者はいるのかね?」
 紳士は口を噤む。心なしか、頭上の輪が色褪せている。
 「君の声がもう誰の耳にも聞こえていない事は、君自身良く解っているだろう。ご覧、この街を。」
 街の人々は、彼等のやり取りを不思議そうに遠くから眺めていた。何故なら、大半の者にとって紳士の声は鼓膜を打たず、ただ免罪師が一人芝居の如く、憐れな紳士を諭している風にしか見えなかったからだ。彼等は例外無く、額に逆さ十字の傷を持っていた。
 紳士は軽く頷き、黙ってその場を去っていった。
 だが、極少数だがその紳士の後を追う者もあった。彼等の額に痕は無かった。
 「影が濃ければ、光はまた眩しく輝けるものさ。」
 免罪師は紳士の後姿をゆっくりと見送り、一本遅い路面電車で次なる土地へと向かった。


2001.08.282005.06.16