Innocent
豊かに実を付け重く垂れた頭を涼やかな風が撫ぜる。
無数の稲穂が金色の絨緞の如くそよぐ。
その脇の畔を数人の侍が踏み締めていった。
「今年は嵐が凄かったので心配しておったが、倒れた稲は殆ど無さそうだな。」
一団の中で最も背が低く、最も歳若い者が嬉しそうに田園を眺める。
「この分ですと、例年通りの収穫が見込めると思われます。」
彼の後ろに付き従う白髪の者が、帳面と田畑とを見比べながら答えた。
「そうか。ならば、今年は少し税を緩めるか。」
「しかし、お館様それは…。」
「ん? 昨年、一昨年の蓄えが充分残っておろう。」
「ですが、隣国との戦もいつまた起こるかもしれませぬ故、余りそうのんびりとされていては…。」
『御館様』と呼ばれた若者は、言葉を返す代わりにただ微笑んだ。
「…解りました。では左様に領内に触れを出しましょう。」
やれやれと、首を振る家臣達を尻目に、御館様は領地で働く農民達の姿を眩しく眺めている。
「虎千代様、いや敏久殿は欲が無いと言うか、少々御心が優しすぎる御方であらせられまするな。」
「全く、御父上である敏元殿の血を引いているとは思えませぬ。それが良いと言えば、あれだが。」
「先日も素性の知れぬ者を馬の世話役として取り立てましたしな。その分、我等が気を緩めぬ様にせんとの。」
言うか言わぬか、敏久の脇の土手を通ろうとした農夫が躓き、農具を滑らせてしまった。
飛散する泥が敏久の袴を掠める。
後続の家臣の内、比較的歳若い者が直ぐ様抜刀して農夫の前に立ちはだかった。
「貴様、この方を何と心得ておるか! よもや領主敏久殿であると知らなかった訳ではあるまい。そこへ直れ!」
怯え慌て跪く農夫の首筋に白刃が光る。
だが、敏久は素早くその刃を払うと、農夫を自ら抱え起こした。
「御館様…。」
「良い良い。田仕事に泥は付き物じゃ。それよりも、そちは怪我無いか。」
驚きと恐怖で口の利けぬ農夫は、ただ幾度も頷きひれ伏した。
「そち達のお陰でこの国は成り立っておるのじゃ。謝る暇があったら存分に働くが良い。」
泥塗れのまま、敏久は再び畔に戻る。
その背を家臣達は複雑な思いで見守っていた。
陽が傾き始める頃、敏久一行は漸く帰城した。
が、着物を着替えぬまま敏久は城の裏に向かい、下働きの者達の様子を見に回った。
敏元が亡くなって三年、彼はそれを毎日欠かした事が無い。
始めの内は、敏元同様働きの悪い者を斬る為に行っているのではないかと訝しまれていたが、悪意無き心よりの気遣いであると解ってからは、下の者達の信望を日増しに厚くしていった。
やがて、敏久は馬小屋の前にやってきた。
いつもの様に彼は、数多繋がれた駿馬を世話する男に労いの声を掛けた。
「兵馬、いつもご苦労だな。」
男は黙って頭を下げ、側にいる栗毛の馬を撫でた。
「火傷の具合は大分良いのか?」
兵馬と呼ばれた男は、顔中を覆う包帯の下からくぐもった声を出した。
「は。お陰様で傷の方はもう余り痛みませぬ。」
敏久は安堵の笑みを浮かべる。
「遠国の戦より逃げ延びた私めを取り立てて頂き誠に有難き幸せで御座います。」
「兵馬のお陰で我が城の馬は不思議と毛艶が良い。また戦ともなれば是等を用いてきっと領内を守り通してみせるぞ。だから安心して、いつまでもここにいるが良い。」
「…勿体無きお言葉で。」
再び深々と身体を折る兵馬。こうしていると解らぬが、その背格好は何故か敏久ととても良く似ていた。だが、その背に負う気配は何処と無く尋常らしからぬ物を秘めている様に思える。
故に、彼の取り立てについては家臣全員が反対したのだが、
「人を見掛けや境遇、素性で判断するものでは無い。心根正しき者は分け隔てなく接するべきじゃ。」
との敏久の一言によって、馬の世話役を申し渡されたのであった。
しかしそんな彼等を色々な意味で案ずる者は少なくなかった。
三日月の晩、蔵の見張りをしていた家臣の耳に、微かな人の声が届いた。
「…では手筈は斯様に致します故、兵馬様もお気を付け下さいます様。」
見張りの者は、腰の大刀に手を掛け、壁土の向こうを窺う。
すると、深闇に映える幽かな月光が兵馬と呼ばれた男の本当の姿を浮かび上がらせた。
見張りの者は思わず息を呑んだが、次の瞬間、背から貫く熱い刺し傷が彼を昏迷の縁へ追いやった。
「兵馬様、今宵はこの辺りで。」
敏久の家臣の一人が、屍を担ぎながらそっと兵馬に耳打ちする。
「ふふ。もう直ぐじゃ、もう直ぐじゃぞ兄上。」
月光に照らされる敏久と同じ顔を持つ男は、その憐れな目撃者を一瞥して、口端を嫌らしく歪めた。
2001.10.04→2003.06.02