『真冬の午後』
何でもない冬の午後。
例年より遅く色付いた中庭の木々を抜け、志摩子はひとり薔薇の館に向かった。
はらはら散る季節外れの黄色い葉が、戯れに志摩子の左肩に落ちる。
払おうと右手を伸ばした瞬間、カフスの隙間からロザリオが零れた。
「あ。」
志摩子は発声と同時に、慌ててコートの袖口から顔を覗かす、それを掌で受け止める。
人肌で温められた十字架の温度。
それはあの日、桜の木の下で聖からロザリオを授受された時の温もりに似ていた。
けれど、冬の風は志摩子に、感慨を与える間も無く、無情に金属の塊から熱を奪う。
まるで、二人に残された蜜月の刻を、無残に没収してしまうかのように。
風で冷えた十字架を握り、ふと志摩子は空を見上げる。
高く青い12月の空は、雲ひとつなく悲しいほど、澄み渡っていた―――。
志摩子が旧惚けた館の扉を開くと、微かに先客の気配がした。
凛とした空気に漂う、僅かなひとの温もり。
熱い珈琲の香り。
いつもなら、何の感想も持たない、ひとの営みの感触。
だけど、今日は何となく、そうした他愛の無いものを恋しく思う。
焦がれるような熱情…とまでは行かないけれど、ひとの…出来れば愛しいひとの熱に触れたい。
『そう、例えばお姉さまのような。』
縋るみたいに早くなる鼓動と、歩み。
ビスケット扉を押し開けると、果たしてそのひとはそこに居た。
「お帰り、志摩子。」
「お姉さま…。」
インスタントのブラックで充たされたカップと、暇潰しの文庫を片手に満面の笑みを浮かべて。
志摩子は脱力したみたいに鞄を置いて、流しに向かう。
自分の紅茶を煎れる為…と言うより、惑いの空気を断ち切りたくて。
けれど直ぐ、見透かしたように聖の声が飛んで来た。
「今日は私と志摩子以外、誰も来ないよ。」
「何故です?」
声に反応して、流しから顔だけ出す志摩子。
「黄薔薇さまと、祥子と祐巳ちゃんはそれぞれ家の用事。紅薔薇さまは冬期講習の申し込み。令は部活で、由乃ちゃんは病院。」
「由乃さん…また具合お悪いんですか?」
「いや、単なる定期健診らしいけど?
だから今日、薔薇の館は私と志摩子の貸し切り。」
貸し切り、と言う言葉に我知らず頬を染める志摩子を、聖は見逃さなかった。
「嬉しい?」
「わ…わかりません。」
直接的に訊ねられ、志摩子はその一言だけを搾り出すのが精一杯だった。
らしくない。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
なのに、聖は志摩子の反応を弄ぶように、流しに踏み込み、志摩子の手からカップを奪った。
「久し振りに、私が志摩子の好きな物煎れてあげる。何がいい?」
「…お姉さまと同じ物を…。」
「インスタントのブラック?
無理に私に合わせないで、何でも我がまま言っていいよ。」
我がまま…その言葉に志摩子は酷く違和感を憶える。
「我がままなんて…そんな…。」
「そんな?」
聖は道化た顔から、真剣に妹の言葉を傾聴する表情に一変する。
「…私はいつも、お姉さまに良くして頂いて、山百合会の皆様とも…。それだけで充分、私は…。」
知らず知らず、志摩子は右手首に左手を伸ばしていた。
人肌で温められたそれは、再び驚くほどの熱を帯びている。
不意、聖はその右手首を乱暴に引き寄せ、胸元に志摩子をかき抱く。
突然の行動に志摩子の鼓動は、激しく高鳴る。
「…お姉さま?」
答える代わりに、聖は至極真面目な顔で志摩子の制服のカフスを外した。
華奢な白い肌に絡む鎖と十字架とにそっと口付け、そのまま頬寄せる。
敬虔な儀式に於いて、司祭から受ける接吻のように。
「お姉さま…。」
「そんなことないよ。我がままを聞いて貰ってるのは私の方だもん。」
「え?」
確かに聖は、志摩子と比べれば奔放な性格で、それを隠そうともしない。
けど反面、彼女は人一倍、他者に気を遣い、傷付きやすい繊細な心を持ち合わせている。
その姉が、我がままを…それも自分に向けて、言ったことなどあったろうか?
聖の胸に顔を埋めながら、志摩子は記憶を検索する。
しかし、彼女の望む答えは、何処にも記録されていない。
だが、その答えは一拍の間を空けて、志摩子の耳元に囁かれた。
「志摩子が、私の妹になってくれた。それだけで、私には過ぎた我がままよ。」
「でも、それは…私にとっても…。」
『私にとっても同じなんですよ。』
と言う言葉を、志摩子は飲み込んだ。
自分の双眸を見詰める色素の薄い瞳の、敬虔な光が眩し過ぎたから。
だから、志摩子は代わりにこう答えた。
「…じゃあ、証を下さい。たったひとつ、お姉さまと私だけの、特別な秘密の証を。」
志摩子はもう片方の掌でその瞳を塞ぐと、少しだけ背伸びして、自ら、かたちの良い口脣を塞いだ。
それだけで、二人には充分過ぎる答えになる。
そう、確信してのことだった。
永遠にも似た、短い一瞬の後、つ、と離れた二人の口脣。
薄く眼を開けた志摩子の瞳に、かたちの良い聖の口脣の口角が軽く上がるのが映る。
「じゃ、これは私の分ね。」
再び、志摩子の口脣は、聖のそれで塞がれた。
言葉を交わす代わりに、二人はそうして飽くことなく、何度も何度も証を確かめ合う。
どんな感謝の言葉を重ねるよりも、確かな熱が、二人にはすべて。
右手首のロザリオも、もう決して冷たくはならなかった…。
何でもない冬の夜。
陽の落ちた銀杏並木を抜け、聖と志摩子は校門に向かった。
はらはら散る季節外れの黄色い葉が、戯れに志摩子の左肩に落ちる。
払おうと右手を伸ばした瞬間、聖の指先が触れた。
「あ。」
志摩子が発声と同時に、素早く指先を退こうとするよりも早く、聖の指が志摩子のそれに絡み付く。
無言で視線を交す二人。
永遠にも似た一瞬の空白の後。
二人はまるで、定められていたかのように瞳を閉じて、口脣を寄せた…。
軽く触れ合う快い熱。
それはあの日、桜の木の下で聖からロザリオを授受された時の温もりに似ていた。
聖の指先をしっかりと握り、ふと志摩子は片目を開けて空を見上げる。
冷たく済んだ12月の夜空は、輝く星々に充ちている。
過去から射す、未来を闢く光が、二人の頭上をいつまでも照らしていた―――。
2004.12.21
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