もけもけと募金


 乱雑さもここ迄来れり、と云う部屋で、かなりの面積を取っているベッドの上に、どんな大震災が来ても絶対起きないであろう、野比のび太然と熟睡中の長髪の男がシーツに包まり、静かな寝息を立てていた。
 その傍らを、もけもけは気遣いながら歩く。
 進行方向には、昨日練習で使われたばかりのベースが、無造作に立てかけてある。乱れた部屋の中で、唯一と言って良い程、手入れだけは不気味にしてあり、スタンドに大人しく収納され壁に凭れている。
 しかし、このスタンドはいかんせん、もけもけの進路を微妙に遮り、飛行によっても解決出来ないような位置に据えられている。
 仕方無しに、もけもけは持てる限りの腕力でスタンドをゆっくりと横にずらそうとした。
 しようとした。
 精一杯努力した。
 が、その尽力は微妙なベクトルバランスの崩れを招き、より悪い結論を導き出した。
 不意に己に降りかかる巨大な物体。
 コマ送りの如く迫り来る事物に対し、理屈は反応していてもその一歩が出せない。
 永い一瞬秒の後、もけもけの腹上には黒いフェンダーが覆い被さっていた。
 声も出ず、身が竦む。
 無意識に傍らへ視線を投げる。
 男はそんな同居人のパニックに気付かず惰眠を貪っていた。
 最早、助力は望めぬと悟ったもけもけは、無理やり冷静さを復活させ、漸くベースの下から這い出ようとした

 瞬間

 死角に存在していたストラップが、もけもけのちまちまとした足に絡みつき、ベース毎仲睦まじく転倒。
 驚く程良く響く物音と同時に、鈍い切断音が二、三。
 「…何だよ、うるせーなー。」
 寝起き(低血圧)の不機嫌そうな表情のまま、男は首だけ動かし、床上の惨状を目にした。
 「…何やってんだよお前、
あっ、手前ぇ、俺のベース! あー、弦まで切れてんじゃねーかっ!
 もけもけは、テーブルの上に放置されたチラシの裏に何か書き、申し訳無さそうに俯きながらそっと手渡す。
 「謝りゃ良いってもんじゃねーぞ。」
 男は絶対零度の視線でもけもけを射しながら、テレビを点ける。
 ゼラチン質の音が重苦しく響き、フェイドインしていく暗灰の画面では、鼠色のスーツを着た男が低い声で語る。

 『えー、阪神大震災から約一月半が過ぎた訳ですが、その被害の甚大さには目を見張るものがあります。実に五千人以上の方が亡くなり、何と、その内九割が圧死という事なのですが、これにつきましては──

 もけもけは男のTシャツの裾を引っ張った。手にしていたチラシの裏側をもう一度見せる。
 「へ? 圧死? ああ、建物とかの下敷きになる事だ。べしゃっとな。」
 もけもけは一瞬の一考の後、急に身体をわななかせ、縋るようにTシャツの背中に貼り付く。
 「ちょっ、急にどうしたんだよ。何かあったのか?」
 ふるふるとしがみついているもけもけを剥がして、テーブルの上に座らせる。更にしがみつきたがるもけもけ。
 「どうしたんだ? 本当に。」
 様子のおかしなもけもけに一先ず背を向けて、吊してある服に着替え始める男。
 もけもけはテーブルの上で何時に無く気持ち悪い位、大人しかった。
 黙って服を着替えた男は、がしっと腕から離れないもけもけを抱えて部屋を出る。
 階下のコンビニに向かうのであろう。
 ステップを踏み鳴らす靴音が高く耳についた。

 「ありがとうございましたー。」
 バイトの娘は笑顔で男に釣銭を渡す。
 しかし、レシートを文鎮替わりに小銭を置くその独特の手法は、余り感心できるものではない。
 案の定、男の長い指の隙間から僅かに硬貨が零れた。
 カウンターの上に落下し、回転する一円玉。
 もけもけは素早くそれを拾って、男の掌に戻そうとする。
 振り帰り際、視界の端を掠める黄色い小箱。

 脳裏をよぎるあの記憶。あの画像。

 何を思ったか、もけもけは黙って、それを黄色い箱のスリットへと投じた。
 「あっ、この野郎やったな!」
 男は反射的にもけもけの上に左拳を翳す。
 弾かれるように頭を隠すもけもけ。
 「…と、言いてえけど、まあ良いわな。」
 男はジャンクフードの詰まったビニール袋を提げて店を出る。
 もけもけはその後ろをそっとついて行った。


初出1995.02
改筆2000.11.24

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