Patchy
その物語は、何時も未だ始まっておらず、かと思えば何時の間にか全てを語り終えてしまい、また他の物語を紡ぎ始めるので、私はその物語の内容を未だ知る事が出来ない。
最もそれを困難にさせている主要因として、織物の紡ぎ手が一人ではない事、織部が語る物語の時系列と、その分量が一定でない事、その虚実が容易に判別出来ない事が挙げられる。
もしかすると、この物語そのものが最初から存在していないのではないかとも思えたのだが、私は黙って瞼を下ろし、その考えを伏せ置いた。
永い睡眠りから目醒めると、傍らで睡眠っていた恋人の姿は喪失われ、代わりに巨きな三叉樹が慰めるように寄り沿い、聳えていた。
曾てこの窓より見霽した街は無数の塩の柱と化し、深深と降りしきる灰が無を募らせている。
最早其処には誰の姿も無く、崩壊した博物館の地下室に残された水の無い水槽に浮かぶ蒼い蛹だけが静かに微睡み、その時を待ち侘びていた。
仄昏い産室に住む繭に包まれた少女達は、絶えず未来の死者を孕み続けるのだが、生み落とした途端、それは何故か只のぬいぐるみと化してしまう。
毎日、何処からともなく懐かしい贈り物が配達されてくるのだが、それらは皆、未来から届けられる。
その時計は、何度修理しても直ぐ左回りに運行してしまうので、気が付くと世界が始まりの前に戻ってしまう。
寂しさの余り、他者との境界を少しずつ融融していったら、何時の間にか世界は私そのものになっていた。
逆しまの雨が降る度、私は何時も無数の謂れ無き追憶に苛まれる。
自分にとって無用と思われたので、追憶を売るべく、記憶のほとりから過去を抽出したのだが、そこに浮かび上がってきたものは、まるで見憶えの無い異界の光景であった。
或る高名な詩は、幾千もの言語に翻訳され、知らぬものとていない名詩に数えられているが、驚いた事にその原詩を存じている者は誰一人おらず、どの資料にも記されていない。
「ないもの」だけが欲しくて、捜して求めて已まないのだが、「ないもの」は見付けた途端、「あるもの」に擦り変わってしまうので、何時までも本当に「ないもの」を手にする事が出来ずに居る。
その街に住む人々は皆、どういう訳か着ぐるみを纏い、如何なる時も決してそれを脱ごうとはしないのだが、彼らを見ている内に、何時の間にか自分の背中にもファスナーがある事に気付いた。
自分の言葉を使って自分の事を書く、と云う宿題が出されたが、皆、他者の言葉と他者の記憶しか持ち合わせていなかった為、誰も作文を提出する事が出来なかった。
自分の事を補完する為に、他者の記憶を寄せ集めてみると、実際に自分自身を形造っている情報の総和よりも、遥かに巨きかった。
誰かの身代わりとして、あらゆる艱難辛苦を享受して来た彼の最期の仕事は、誰かの身代わりとして死ぬ事であったが、彼の死後、彼の身代わりとなる人物は未だ顕れていない。
戯れに、或る史料の一部を切り取った所、何時の間にかその年代は無かった事とされ、我々の歴史はほんの少し短くなってしまった。
その作家は幾千冊もの著書を上梓したのだが、それらは全て処女作に記された言葉を解体し、組み直して書かれたものに過ぎない。
「兆」が近付いてきたが、その予兆の正体を判明させる前に、それは何処へともなく遠避かって行ってしまった。
ここに書かれている事は、実は全て嘘なのだが、誰もその事を知らないし、また自ら進んで知ろうともしない。
始まりと終わりの違いを説明するに当たり、0に1をかけるのと、1に0をかける事の差異を例として用いたのだが、誰一人、真実の追求を由としなかったので全ては徒労に終わった。
とても大切な事を忘れているような気がしてならないのだが、もしかすると、何か大事な事を忘れてしまった振りをして、誤魔化したいだけなのではないかと訝しんでいる。
世界は疾うに終わっていたが、誰もその事に気付いていなかった。
書斎の整理をしていたら、抽斗より色褪せた写真を幾枚か発見したが、何れもその肖像だけは蒸発したかの如く、仄白く脱け落ちている。
先日、数学者であった叔父愛用の写真機を譲り受けたのだが、遮光幕を切る度、必ず同じ少女の姿が映り込んでしまう。
地上で唯一つ残った石壁には、曾て其処に居た無数の人々の影が、僅かも褪せる事無く、今以て色濃く息づいている。
果物を食した後の種子をどうしても捨てる事が出来ず、部屋には種子の収納められた標本瓶が無数に転がっている。
恋人達は互いに贈る愛の詞を思いつくと、それをゼラチン製のカプセルに封じ込め、口移しで与え合う。
国境線をなぞり築かれた石塁に、兵士が壁の間隙に蔦を這わせたら、やがて甚だしく生長した蔓が防壁ごと国境線を破壊するに至った。
曾てこの街には双子のカリヨン塔が聳え、定時の訪れを告げる鐘の音を交互に鳴り響かせていたものだが、今やその鐘は瓦礫の下に崩折れ、地上に唯一人残った『人間』の末裔が、時折、訝し気に耳を側寄するばかりである。
この原子時計は、螺子を巻く際、規定の回数以上発条を回転させると、遅延していた刻限分の時間を溯らせてしまうのだが、私はしばしばこの過ちを犯し、僅かずつ時の終わりを引き延ばしてしまう。
負傷の為、復員した友人は、毎日、看護婦に林檎を食べさせられながら、譫言のように戦場で目撃した九姉妹の話ばかりしている。
教授の生誕百周年記念に発刊される未発表論文の編纂に携わっているのだが、若き日の教授自ら破棄してしまわれた一頁の為に、その研究の真意を解明する事が出来ない。
長年の習慣として、起床時、枕元の備忘録に昨夜見た夢を書き記していたのだが、或る日を境に、一瞬秒たりと夢を見られなくなってしまった為、もう幾重もの白紙の束を積み重ねるばかりである。
彼が瞬きをした途端、世界は終わり、また新たな世界が生まれて来るので、周囲の人々は固唾を呑んで彼の瞼の推移を見守っている。
子供の頃に拵えた鉱石ラヂオが見付かったので、徐に周波を合わせると、電子信号の如き音声が厳かに発せられ、やがて完全に沈黙した。
その街が未だ軍事都市として機能していた当時、機密漏洩を防ぐべく、情報伝達韻号を全て数字の組合せに置換し、これを用いていたのだが、そうした慣習が余りにも長かった為、今もその地域の主要な言語は二桁の数字の組合せになっている。
これ迄、伝説とされてきた亡国の地図が、地下の石床から発掘されたのだが、此は一分の一の縮尺に基づき精密に作成された亡国そのものであった。
回廊の至る所に刻印された点を、添えられた数の昇べき順に繋いでいくと、巨大な天球図が顕れるそうだが、刻々とその点の数や位置が書き換えられてしまうので、未だ誰もその全貌を目にしていない。
あの人は絶えずその場に留まっていられない為、誰の目にも、誰の手にも触れる事無く、また如何なる物質とも触れ合わない儘、その儚い生涯を閉じた。
両親から大層奇妙な名前を付けられたその子供は、誰からも一度も正しい名前で呼ばれた試しが無い。
幾つかの金属の輪で綴じられ、頁の至る所が分断された本を読んだが、それは何処が最初で何処が終わりなのか、何度読み通しても遂に判明しなかった。
永年、機密書庫の深奥に眠っていた書物を繙いたら、活字の部分だけが残らず紙魚に喰い破られていた。
未亡人は夫の死後、毎日住居の裏手にある撮影所の廃棄箱から、遺棄されたセルロイド・フィルムを拾い来ては継ぎ接ぎ、亡くなった伴侶の生涯と同じ長さの個人映画を作り、過ごしている。
蕭蕭と降る天気雨の中、もう動かない振子時計を抱えた老婆が唖黙り、音のしそうな蒼穹を仰いでいた。
若き音楽家は、毎夜、自室に水の入った瓶を無数に並べ、手製の音匣を鳴らし、その界面の震えを記譜している。
彼女は六歳で身体を売り、十二歳で神に叛き、十七歳で左眼、十八歳で脳内記憶素子を仮相空間に貸出すまで、自分には三人の人格が宿っている事を知らなかった。
広場の脇で上映されている映画が盛況なので、物は試しと観に行ってみると、銀幕に倒影されていたのは空白の齣ばかりだったが、観客達は例外無く滂沱し、その瞼を遮ろうとしない。
「解らない事があったら何でも聞いて下さい」と仰られたので、「解らない事が解りません」と尋ねると、「左様な事は解りません」と断言されてしまった。
その人はいつも正反対の言葉を同時に声にしてしまうので、本当は何を伝えたいのか解らない。
2002.10.31