Perfume


 先刻愉しんだ湯豆腐の香りも覚めやらぬM家。

突如

何かが切断された様な鈍い音と共に、一家は暗黒の彼方へと放り込まれた。
 「何? 停電?」
 可愛らしい若妻・可愛らしい母を経て、可愛らしい奥様へとクラスチェンジしたばかりの、やや天然入ってる妻・良子が落ち着き払った様子で、光を喪失した蛍光灯を仰ぐ。
 「っきしょー、後ちょっとだったのによー!」
 闇の中で暗灰色の画面を見つめながら、思わず某家庭用ゲーム機のコントローラーを畳に投げ付けずにいられない、多感な小学生・浩介は苛立ちを隠せぬまま居間へとやってきた。
 「母さん、ウチに蝋燭あったかなぁ?」
 リストラとは縁の無い世界でビール腹を抱えながら働き、一家を支えている夫・栄太郎が呑気な口調で、取り敢えず懐中電灯を探し当て、スイッチを入れた。ダイニングに、儚い家族の灯火がぽつりと点る。
 「この辺にあった筈よ…。あら、変ね。」
 良子は僅かな光量の中で台所の棚をそっと探りながら呟いた。
 「…やれやれ。明日、会社の帰りにハンズで買ってくるか。ついでに非常用袋一式なんかもイザとなった時必要になるだろうしな。」
 栄太郎が呑気に切り返した。
 「それはいいけど、今、この状態を一先ずどーにかしよーよ!」
 浩介が闇に佇む間違った危機感に怒りをぶつける。
 「そんなこと言ったって、しょうがないでしょ。他に灯りになりそうなものっていったら、お父さんが持ってる電灯位しか無いんだから。」
 「母さん。この様子だと、美佐(バイトのせいで帰宅がいつも深夜に及ぶ「anan」と「きれいになりたい」を愛読している大学生の娘)の方は、電車止まってるかもしれんなぁ。」
 「困ったわねぇ。」
 他愛無い両親のやり取りを耳にした浩介の脳髄に

刹那

閃光が走った!
 「そうだ! 確か姉ちゃんの部屋に蝋燭があった様な気がする。」
 「あら、本当?」
 「うん。この前辞書貸して貰いに行った時、見かけた。」
 「じゃ、これ持って美佐の部屋から何本か取って来なさい。」
 「OK!」

───暫しの後
 息を弾ませた浩介が居間に戻って来た。 
 「やっぱり、あったよ! ほら。」
 浩介が抱えていたそれは災害時に用いるには余りに細く・短く、装飾的ではあったが、彼らは構わず点火した。
 居間で何本も揺らめく蝋の灯火が、平凡な居間を完全に怪しい場へと演出する。だが、ちょっと不気味な空間において、一家の面持ちは安堵と一種の達成感に包まれ、安らぎと幸せに満ちていた。

───が
 間も無く、室内の要所要所から謎の芳香が立ち上ってきた。
 「ん、何だこのトイレの臭いは。」
 「父さん、こっちからは甘ったるいココナッツの臭いがするよ。」
 「これ、もしかしてアロマキャンドルっていうものかしら。今、流行の(かどうかは定かではないが、彼女はそう認識している)。」
 本来は芳しく、疲れきった人の心を癒すはずの成分を含有した香りがどんどん入り混じり、凶悪な芳香と変化を遂げつつある密室の中で、床上から不気味に照らし出されたお互いの姿を思わず見詰め合ってしまった。
 そうして、
電力が復旧するまでの間、誰一人口をきく事は無かった。


1999.11.112000.07.02