Pleasure
夕食を摂った後、グズ夫は両親が寝静まるまで物音一つ立てず、蒲団の中に丸まってその機が訪れるのを待った。夜半、グズ夫はやおら起き出し、慎重に窓と戸の戸締りを確認すると、体格に合わせてサイズを変更できる可変式の学習机の上に、小さく折り畳まれた変身道具を広げる。おしぼりを極小さくしたそれは、指で揉み解す内に元の大きさに戻った。逆さまになった青いヘルメットの内側には、J型のバッヂと、真っ赤なマントが収められていた。
藤子不二夫デザインとしか思えない程、素朴でシンプルなコスチュームを半信半疑で身に纏う。
そして、グズ夫はおもむろに昼間採取しておいたコンクリートの欠片を顔の高さに放り投げると、戯れに拳を振るった。
瞬間
コンクリート片は眼前で微塵に砕け、部屋の床に白い粉が降る。
グズ夫は信じ難い表情で、暫く拳と証拠を見比べていたが、やがて異様な鼓動の高まりと、奇異な衝動が胸に湧き上がってきた。どうしようもなく押さえ難い、初めての衝動。グズ夫にとって、それが何を意味するのかは解らない。黒闇の中で渦巻き、溢れ出すリビドーに、グズ夫は胸を震わせ、下着を見た事も無い粘液で汚していた。
明くる日。グズ夫は太腿も顕わな紺の半ズボンのポケットに、変身道具を忍ばせ登校した。
「あら、珍しく早いじゃないの。」
と、にこやかに笑う母親。思えば、彼女がいつもの息子の背を見るのもこれが最期であった。しかし、二人ともその未来に気付く訳も無く、グズ夫は通学路へ飛び出して行った。
スクールゾーンと緑の塗料で大書されたアスファルトの上を歩むグズ夫。三丁目の老婆一人が経営する煙草屋の角を曲がると、音に聞こえぬテーマ曲と共に、ゴリ太と二人の駒に出くわした。
ゴリ太は嬉しそうにグズ夫に近付き、肩に腕を回した。
「よう、グズ夫。遅刻ばっかりのお前にしちゃ、今日は随分早いじゃねぇか。そんなに俺に逢いたかったのか?」
小学生の癖に常に正装の短躯と長身の少年が、ケンケンの如き薄笑いを浮かべ、後に続く。
「今日は宿題忘れずにやってきたか?」
「グズ夫にそんな事聞いちゃ失礼だよ、コメツキ。」
途端に笑い出す三人。
だが、グズ夫は意にも介さず、先を急ぐ。
「ちっ、グズ夫の奴、生意気に俺様の事を無視しやがった。」
「まぁまぁ、ゴリ太。後でゆっくり矯正すればいいじゃない。もう学校の始まる時間だしさ。」
キレかけているゴリ太をそっと諌めるコメツキ。一歩間違えば、自殺行為になりかねないが、コメツキはその台詞回しや口調、声をかけるタイミングまでを熟知していた。ゴリ太は怒りを内に堪えて
「俺をないがしろにした罪は重いぜ、グズ夫。」
学校へとつま先を向けた。足取りはしっかりとしていたが、その眼の光は実に虚ろで底知れぬ憎悪に満ちている。
高らかに終業の鐘が鳴る。
帰りの会が終わったと同時に教室を出るグズ夫。
その背を、ゴリ太と子分が悟られぬように追う。だが、グズ夫は気付かぬ素振りで通学路を進み、ご丁寧に曲がり角が多く、人気の少ない方へ遠回りしてやる。
頭の足りないゴリ太達は、好機とばかりに狭い三叉路で三手に別れ、ゆったりと歩いてやっているグズ夫が訪れるのを待ち伏せした。グズ夫は、そんなゴリ太達の他愛の無い作戦に内心舌を出しながら、ズボンのポケットに忍ばせている変身道具に指を這わせた。
三叉路の結節点に差し掛かると、まるでドラマのようにタイミング良くゴリ太達が行く手を塞ぐべく現れた。
「よぉ、グズ夫。」
ゴリ太は獣の唸りの如き一声を上げ、グズ夫の眼を見据える。
「今朝はよくも俺様の挨拶を無視しやがったな。」
グズ夫は意にも介さず、ゴリ太に冷たい視線を投げかけた。瞳孔には既に光が無かった。
「それが何を意味するかは解ってるんだろうな?おい。」
ゴリ太はキャッチャーミットにも似た分厚い掌をゆっくりと胸の前で組み、指関節を鳴らす。グズ夫は黙って、ポケットから変身道具を取り出し、コスチュームを身に着けた。
コメツキがコオロギのようにけたたましく笑う。
「何だよグズ夫、その玩具は。それで強くなったつもりになろうっていうの?そんな事したって無駄だよ、ゴリ太に敵う奴なんて一人もいないん
グズ夫、いやジャスティス仮面は空家のブロック塀を軽く払った。
豪快な音と共に、粉微塵と散るセメント材。
だ・か・ら…。」
ジャスティス仮面は、滑稽なヘルメットの下からゴリ太を覗く。そのデザインとのギャップが余りにも烈しい殺気が、目の前の標的を刺し捉えていた。
「…何でぃ、何でぃ。それ位でびびるゴリ太様じゃないぜ!伊達に人殺しなんてやっちゃいねぇんだからな!」
最早、己を奮い立たせるしか役目を失った大声量が、人気の無い住宅街に虚しく響く。
一歩、一歩とゆっくりゴリ太へと歩み寄るジャスティス仮面。
射竦められたか、それは彼の最期の意地なのか、その場から一歩も動こうとしないゴリ太。
異常な緊張感の支配。
時は果てしなく、永遠の0と1の間で彷徨っているかのようだった。
しかし、互いの距離がおよそ武道で言う『己の間合い』に到達した時、ゴリ太は思わず拳を上げてしまった。
猛り狂う手負いの猛獣の如き声を上げ、ジャスティス仮面へと襲いかかるゴリ太。
だが、ジャスティス仮面は、ただの民間人であれば致命傷になり兼ねないその突きを、掌で殺した。
そして、容赦無く隙だらけの胴をもう片方の掌打で打ち抜いた。
ゴリ太の背中から、ジャスティス仮面の掌が飛び出し、型抜かれたゴリ太の肉塊がアスファルトの上に惨たらしく潰れた。音の無い通りに、生卵が割れたような嫌な音が響く。と、同じにゴリ太は七孔噴血し、凭れ掛るようにして絶命した。
ジャスティス仮面は、ついほじってしまった鼻糞を捨てるように屍骸を打ち捨て、信じ難い光景を目の当たりにした二人の方へ振り返った。血に浸された腕と、多量の返り血を浴びた幼年漫画の主人公のような彼を見ても、二人は惨めたらしく小便を漏らしたまま、悲鳴一つ上げられない口も塞がず、その場に立ち尽くしていた。
ジャスティス仮面は、正義の味方らしい爽やかな微笑を送ると、コメツキの頭を軽く払い、痩身の男の頸を飛ばした。仁王立ちのままドラゴン花火のように鮮血を噴出する痩身の男と、地面の沁みと化したコメツキ。そして、血溜まりの中で朽ちて行くゴリ太を見て、グズ夫は夥しく下着を汚し、ようやく少年らしい充実感溢れる笑顔を見せた。
そして、衣服を脱ぎ捨て、誰にも解らないように一般ゴミとしてダストボックスへ投げ入れると、何事も無かったように帰宅した。
「ただいま。今日のおやつ何?」
玄関先で出迎えてくれる母親に、子供らしい無邪気な声を出すグズ夫。
「お帰りなさい。今日は天心堂のドラ焼きよ。」
「わぁい。やったぁ。」
普段よりも明るい息子の表情を見て、母親はこう尋ねた。
「あら、今日は何だか随分と嬉しそうね。学校で何か良いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね。」
グズ夫は、ちょっとだけ漢字の書き取りが出来るようになった程度の演技をしてみせる。だが、その瞳孔の奥には、底知れぬ黒い炎が渦巻いていることに、誰一人気付いていなかった。グズ夫に変身道具を託した仮面の男を除いては。(つづく)
2000.06.20→2001.10.16