Shinobi
夜の山を跫立てずに進む者があった。
出来うる限りの匂いと気配を絶ち、常人とは思えぬ速度で移動している。にも関わらず、四方ににじり寄る脅威。明らかに己と同じ生き方に属する者達が発する信号。その意味を認識しながら、それでも歩みを止める事は最早出来なかった。
何故なら、己は既に「己」一人のものではなく、一個の「道具」に過ぎなかったからだ。
それが、闇に潜む「草」の宿命であり、それ以上でもそれ以下でもない。
時として暗殺者、或いは密偵、内乱の起爆剤…ありとあらゆる歴史の立役者達が築き上げる業績と墓標の影で、打ち捨てられた皿の如く誰に見返られることも無い一生。独り立ちしてからは同じ里の者とて敵と成り得る昏き道。
そんな己の半生にも似た山深くまで至ると、奇妙な事に先刻まで己の肌を粟立たせていた殺気が感ぜられなくなっていた。しかし、そんな簡単に追撃が緩む筈も無い。不可解な一瞬時の後、視界が急に高く跳ね上げられた。
緩やかに回転する視線。
河口の如く漫然とした時の流れの中で、己は初めて頸無き己の肉体を俯瞰で確認した。
そして、その懐から命じられていた密書を抜き取り、素早く去って行く影。その背を見詰めながら己が腹の上に落下した。
腹の上で自然、閉じる口元がにちゃり、という微かな濡れ紙の感触を捉えた。
「彼奴等、もう一通の書面までは気付かなんだか…。」
無意識の内に、懐中の書面を届けんと、酸欠の鯉の如く腹の上で喘いだが、己が口から涌き出でた血溜まりの温かみに誘われ、紅の中にそのまま伏した。
1999.11.20→2000.11.15