Spare


 雉の鳴き声と、渓谷のせせらぎに融けるような読経が始まった。
 霧のたなびく山並みが紫に染まっていく。
 少年は薄明を便りに朝餉の支度に取りかかった。
 湯気に霞む彼の髪は剃られておらず、漬物を盛り付ける袖は僧衣ではない。しかし、穏やかな風貌に似つかわしくない目の鋭さは、彼が口減らしや身寄りが無い故に預けられている訳ではない事を示していた。
 その証拠に、もう十二になろうというのに彼は仏事に携わる事を免除され、代わりに僅かばかりの雑用と読み書きなどを仕込まれていた。
 眩い日差しが本堂を射す。
 水を打ったように止む声。
 彼はそっと膳を運んで行った。

 「一つ頼みたい事があるが良いかな?」
 朝食を片付ける少年の背に、住職は穏やかに話し掛けた。
 「何で御座いましょうか?」
 察しは付いていた。住職が彼に申し付ける用事は、決まって何時も山を下りてお茶を買ってくる事だった。
 ふんふんと、素直そうに頷いて銭を預かると、彼は子供とは思えぬ早足で長い参道を下って行った。

 住職が馴染みとしている茶屋は、寺から遠く離れた町の一番奥にある。
 ふもとの町には茶の座があって、何軒もの茶屋があるのにも関わらず、彼は何故かその町から二里も離れた別の町の街道沿いにある茶屋へ遣わされていた。それがどういう意味を持つか解りこそすれ、真意までは知らない。
 少年は参道を外れ、物音を立てぬ様に斜面を逆行し、縁の下に身を潜めた。
 暫くすると、参道を登ってくる屈強な足音が三つばかり聞こえてきた。侍らしかった。
 住職は建物から出て、彼等を本堂の脇の控えの間へと招き入れる。
 少年は出来る限り気配を殺して、間室の会話に耳を済ませた。

 「…虎千代殿も十二になりますか。」
 「来月、元服と祝言を予定している。」
 「それはめでたいですな。」
 「で、竹丸の事についてなのだが…。」
 不意に自分の名を呼ばれ、少年は息を呑んだ。
 「虎千代の万が一を考え、長きに渡り、竹丸をここに置いておったが、虎千代が無事成人し子を成せば、竹丸の役目は終わる。この寺は里より遠いとは言え、同じ顔の
夜叉子が所領内に居ては、いらぬ火種の元。幸い、竹丸は虎千代や儂の事は知らぬ故、如何にせんかと思うてな。」
 「…僧として遠国へ送るか、或いは『西方』へ旅に出すか。」
 寺に出入りしている修行僧に境内の掃除を頼むのと同じ口調でさらりと提案する住職。
 茶を入れる音の他に、ごそごそ紙包みを弄る音がした。
 「附子か。」
 「左様。それならばこちらでも御用意出来ましょう。」
 竹丸の首筋から汗が引いた。
 「…そちも相変わらずよのぅ。僧など辞め、儂の元へ仕えぬか?」
 和やかな含み笑いが床下に響く。
 竹丸はそっと、その場を離れ、夕刻になるのをじっと待った。

 傾いた陽が境内を紅く染める。
 竹丸は薄暗くなった廊下をそっと歩いた。そして、突き当たりの襖を勢い良く開けた。
 長く伸びた眉が善人そうに下がっている住職が、ゆっくりと振り返る。
 「おお、竹丸。御苦労であっ
 言い終わらぬ内に、鈍い激突音が山を震わせた。
 竹丸は穢くなった金色の観音像を片手に踵を返し、一目散に参道を下って行った。


2001.04.172001.10.03