敵
国境の先、量子観測機の照準に捕捉された〈敵〉の後姿。
遥か消失点を臨む狙撃手の後頭部に銃口を向け、早数ヶ月。
〈俺〉は独り、房と呼ばれる選択性透過遮断膜に籠り、命令が下るのを待っている。
国境警備兵への発令は二種類しか無い。
解任か、引鉄を引くか、だ。
だが、徴発されたその日から此れ迄、そのどちらも伝達されてはいない。
人を殺さずに済むのは有難いが、耐え難い緊張は緩和されない。
この不毛な睨み合いは、もう何世紀にも及んでいる。
情報統制の所為か、為政者の思惑は解らない。
〈敵〉が実体なのか、仮想なのかさえ、国民は誰も知らされていない。
実験檻の中の鼠みたいだ、と思いながら〈俺〉は今日も量子観測機を覗き込む。
―――数日後。
二発の発砲音が周囲の空間を震わせた。
規則違反を犯し、量子観測機から眼を逸らすと、隣の房の警備兵が頭部を撃たれ死んでいた。脳漿は完全に飛び散り、狙撃方向と距離感覚を失わせている。
〈俺〉は更に規則違反――選択性透過遮断膜を一時的に解除し――を重ね、隣の房に侵入した。量子観測機の照準を覗くと、頭部を吹き飛ばされた〈敵〉の屍体が確認出来た。音の到達速度から、二人はほぼ同時に発砲したと思う。どちらが先に発砲したかは解らない。だが、精確な先撃に対する精確な応射が二兵士を落命させたのは明白だった。
〈俺〉は国境警備隊本部に報告し、遺体の回収を依頼した。
程無く、医療班と記録班、清掃班の三個小隊が現れ、新たな警備兵も補充された。
―――数ヵ月後。
再び一発の発砲音が周囲の空間を震わせた。
反対隣の房にいた警備兵が頭部を撃たれ、命を落とした。
〈俺〉は已む無く、また規則違反を犯し、隣の房へ侵入した。
名も顔も知らぬ警備兵は後頭部から額に貫通した一撃により、絶命していた。量子観測機の照準を覗くと、前方の〈敵〉もまた同種の攻撃を受け、亡くなっていた。損傷情況から、件の警備兵の頭部を貫いた攻撃が、そのまま前方の〈敵〉の頭部をも破壊した事は明白だった。
直ぐ様、量子観測機で後方の情況を確認する。
すると、〈俺〉の背に照準を絞る〈敵〉の姿があった。
〈俺〉は慌てて房を飛び出し、選択性透過遮断膜の防壁水準を上げ、引鉄に指を掛けたまま胎児の様に丸まった。恐怖で量子観測機を覗く事は出来なかった。〈俺〉は半泣きで国境警備隊本部に電信を入れ、遺体の回収を依頼した。
直ちに、医療班と記録班、清掃班の三個小隊が現れ、新たな警備兵が補充された。
―――数年後。
明日、正式な解任令が下ると言う連絡を受け、〈俺〉は最後の任務に就いていた。
あれから幾人もの警備兵が犠牲となった。次は〈俺〉の番だ。と言う死の恐怖に苛まれながら、〈俺〉は量子観測機から眼を逸らす事も、引鉄から指を離す事も出来ず、愚直に任務をこなした。だが、恐怖はやがて精神安定剤と時間が解消し、今や死に対する考え方もすっかり麻痺していた。
〈俺〉は前方の〈敵〉を照準に捕捉し、後方の〈敵〉を注視しながら、未だ下らない命令を唯、待っていた。
解任令は後、数分……数秒で解ける。
だが、その瞬間、果たして非情な言詞が脳内に響いた。
〈俺〉は躊躇わず引鉄を引き、前方の〈敵〉の後頭部を粉砕した。
飛散する脳漿に混じって宙を舞う眼球が、〈俺〉を恨めしそうに睨んだ
瞬間
〈俺〉の後方から放たれた弾丸が、〈俺〉の後頭部を抉り、そのまま頭蓋を破壊した。
痛覚刺戟を享受するより早く解体された脳漿が、〈俺〉の回転する視界で宙に舞う。
その端にちら、と見えた後方の〈敵〉の顔と装備には何処か見覚えがあった。
だが、量子観測機の壊れた今、それを確かめる事は出来ない。
〈俺〉の視界はスウィッチを切った様に、闇に閉ざされ、二度と光は射さなかった。
2005.09.08
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