the Cafe
この街であの古びた喫茶店を知らぬ者は、誰一人いなかった。
メニューは一種類──ただ珈琲のみの薄暗い店。いつ行っても客はおらず、たまに何も知らない余所者が店へ入ろうとするが、店主の初老の男が悉く追い返してしまう。経営は成り立っているだろうかと、誰もが首を傾げているが、三十年来一度も閉っていた事が無い所をみると、別に収入を持っていて、店はあくまでも彼の趣味に過ぎないのであろう。
所が先日、偶然にも件の店の前を通りがかった際、店から出てくる人の姿を目撃した。
無口で如何にも頑固そうな店主と親しげに会話を交わしている辺り、もしかすると彼の古い友人なのかも知れない。けれども、それにしては客の様子が少々おかしかった。
第一に、客は公用語を話していなかった。
遥か遠くの異国の言葉とも、耳にした事の無い音楽の様にも聞き取れるそれは、ある意味人間のそれではないとも言えた。
第二に、客の姿が奇妙であった。
真夏だと言うのに目深に帽子を被り、長い外套を羽織っている。だが、妙にその腰椎部がもたついているのだ。何と表現すれば良いだろうか。二人羽織をしている風だ、と言うのが尤も適切であろう。
第三に、客の影が異様であった。
そこにいる客人の姿形と、影のそれとが相似していないのである。正確に言えば、影そのものが無いのだ。影盗人にでも盗られたか、あるいは初めから影を持たぬ人であるのかまでは解らない。
しかし、余計な詮索をする気も、好奇の赴くまま真実を確かめようとも思わなかったので、黙ってその脇を通り過ぎようとした
瞬間
色濃い夕陽が射し込む店の中に、二人の影人間が珈琲を楽しんでいる光景が映った。
そして、その視線を咎める店主の双眸に瞳孔は無かった。
途端
私の背後で、何かがほつれるような音が悲しげに響いた。
翌日、朝日に照らされた己が身体は、最早影を持ち合わせていなかった。
私は再び、件の喫茶店の方へ足を運んでみると、私の影は既にそこに座って、一人窓辺で本を読んでいた。
2002.03.31→2002.05.31