the Evil


 台所からけたたましい陶磁器の割れ音。
 犯人は既に判っている。
 片手に雑巾を持ったまま現場に向かうと、敵は自ら出した音に驚いてこちらへ突進してきた。
 
「ゆえ、また皿割ったな!」
 退路を塞ぐべく家財道具を利用して、自分の姿勢を巧みに変えるが、敵の反射神経は人間のそれを遥かに凌駕している。灰色の小さな悪魔は成長著しい敏捷力でさらりと交わし、後ろ足でプラスティックバケツの縁を踏み台にする。
 宙を舞う敵の肉体。
 バランスを失うバケツ。
 ゆるやかに時間は流れ、スローモーションの如く零れる薄汚れた水。
 それらが全て床にぶち撒けられた衝撃と共に、敵は家屋の奥へと姿を消した。
 狭い我が家で敵を発見するのは困難ではない。まして、数々の夥しい逃走経路を残す犯人である。躾の為にも直ぐ引っ張り出してやりたいのだが、こちらが辿り付く前にサッシの軋みが聞こえてきた。
 それは、完全な敗北を意味する。
 「これで夕方まで帰ってこねぇな…。」
 後に残るのは、激しい疲労と虚脱感。そして厳しい現状───。
 泣いたって後片付けは終わらない。
 「早く大人か、せめて冬にならないかなぁ。」
 敵が我が家に来て、早一ヵ月。彼女にとって、まだまだ家は遊園地みたいなもんなんだろう。

 実家暮らしの長かったわたしにとって、猫を飼うのは昔からの夢であった。
 
の可愛さと悪行振りを描いた本を読む度に、それはますます募った。
 何故なら、猫飼いの日々が如何な忍耐と苦悩に充ち充ちていようとも、誰もが最後には猫の可愛さに敗れ去っているのである。
 そんな悪魔の様な存在が、本当にこの世にいるのか。
 もし、それに魅入られたとしたら、わたしの生活はどんな風になってしまうのだろう。
 大学を卒業し、就職して少ない給与を貯めたわたしは、半年前にこのアパートに居を構えた。
 それから休日ごとに、目に付いたペットショップへ誘われるまま出向き、わたしを魅了する事の出来る悪魔を捜し歩いた。猫種にこだわりはなかった。それに出会えば、きっと運命と言うか熱病に浮かされたみたいになるに違いない。己の直感と偶然を信じて、ひたすら歩いた。

 ある日の早い午後。
 出張帰りで時間の空いたわたしは、買い物ついでにふらりとウインドゥを覗いた

瞬間

感電した。
 敵はこちらに見向きもせず、飼い主に引き取られていくコリーに喧嘩を売っている。
 文字通り悪魔の如き容貌をしていた。だが、不意に顔をそむけた瞬間の、翠に光る眼と背中にそよぐ野性味を帯びた上質のビロードが、たまらなくわたしをその気にさせた。
 烈しい恋の如き熱病に浮かされたまま、わたしは店に入り、契約書にサインした。
 その時、わたしは初めて数多の先達の記録を理解した。

 それからと言うもの、今日に至るまで幾多の戦いに敗れ、安息無き猫飼い道を歩んでいるが、ただの一度も真の勝利を収めた事は無い。
 思えば、あの時からわたしは勝てる筈が無いのだ。所詮惚れた者の負けなのだ。
 だが、これからの長い敵との蜜月を過ごす為に、どうやって敵を躾ていくか、或いはわたしが躾られるのか。
 訪れる事の無い、安息の日々を思いながら、取り敢えずわたしは雑巾を絞った。


2001.09.112004.03.06