渦巻偽典

調律士


 調律士なる職業は、厳密に言うと存在しない。というのも、調律士とは、あらゆるものの不協和音を正し、優れた響きを奏でられるようにする職能の総称であって、彼らの才は実に万象にわたる。

 その好例が、ほんの少し前まで花形職業であった蒸気調律士であろう。

 近年、機械は伝子で動くようになったが、ほんの少し前までは蒸気がその代わりを勤めていた。

 街の至る所で管風琴(パイプオルガン)のような蒸気管が天を突き、白く澄んだ蒸気と共に吐き出された音は、優雅な『楽曲』となって世界を震わせていたのである。

 その情景は、宛ら巨大な楽堂の胎内に居るようであったと言われている。

 中でも、百年ほど前に実在したとされる、狐の耳を持った蒸気調律士の青年は、蒸気だけでなく、耳では聴く事の出来ない、世界のあらゆる『音声』を聞き取る事が出来たと伝えられている。

 しかし今日でも、伝波の届かない辺境の土地との交信には、蒸気交信機を使用している為、蒸気調律士と、情報媒体変換の為の翻訳調律士、そして伝子調律士による、華麗なアンサブルが行われている。

 時折遠い旋律が聞こえてきたなら、是非、耳を澄ませてみると良い。


2001.06.02

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