渦巻偽典
序─渦巻偽典の復刻によせて
私がこの本を初めて見たのは、名も知れぬ界隈の古書店であった。
太陽が酷く照りつけていたあの日。
私はぼんやりと街を彷徨っていた。何処かで涼をとりたかったのであろうか?
朧げな意識の中で、徐に曲がった路地の先にあった古書店の敷居を跨いだ。
それが後にこうして編纂を手がけ、序を書かなければならなくなるとは、その時誰が預言しえようか?
かくして、神でもない一介の「個人」であった私は、何かに導かれるように、己が本能のまま、この怪しげな書肆へと立ち入ってしまったのである。
中は古書店にありがちな、混沌とした雰囲気はなく、壁に造り付けられた書棚に整然と豪奢な装丁の本が並ぶ様は、余りにも冷徹で、奇妙な違和感が私を襲った。
やはり店に入るべきではなかったか、と一瞬後悔したものの、毒を食らわば皿まで、自作の肥やしになるに違いないと欲をかいて、結局そのまま店に留まる事にした。
さして広くもない店内の書架をぐるりと巡ると、馴染みの無い著者や、題名の本ばかりがその空虚を埋め、当随存じている筈の書物は一切扱われていなかった。
私は、その事に非常に強い関心を抱き、どうせなら飽くる迄、この目で眺めてやろうと思った。そこで、私は手近な高さの棚の端から、一冊ずつ抜き出し、はらはらと飛ばし読みを始めた。すると、これまた店の品揃えに相応しい奇妙な書物、或いは書物と呼べるものなのか判断し難いものまで、実に珍奇な本ばかりが収められていた。
或るものは、判読不能の文字を使って書かれ、
或るものは、すべて飴製の頁で綴られており、
或るものは、一枚の大きな地図のようなものに連綿と記号が書き込まれ、
或るものは、黒い紙に黒いインキで記された光を媒介とする書であり、
或るものは、白い紙に白いインキで記された影を媒介とする書であり、
或るものは、すべて白紙の頁が綴じ込まれ、
或るものは、紙を綴じてさえおらず、
或るものは、電子で出来ており、
或るものは、「本」の形さえしていなかった。
更にその驚くべきは、そのいずれも著者は不明、或いは不在とされており、何故か全て完本ではなく、数箇所が脱け落ちていたり、原形さえも留めていない断片だけである事であった。かたちだけではなく、その筆力ですらこれ程の者はそうなかなかおるまいにと、驚嘆を隠せず、熱心に書棚と両の掌を見詰め続ける私に、店の主人はこう告げた。
「お気に召した虚構がありましたら、どうぞお持ち帰り下さい。」
いや、代金を払わねばなりますまいと財布を取り出そうとする私に、主人は黙って一冊の古びた書物を押し付けた。いやいや、それでは余りに失礼だと問答となる内、私は何時の間にか元の界隈の道筋で一冊の古書を抱えて倒れていた。
私はやはり、何の等価も払わずしてその書を持ち帰るには忍びなかったので、再びあの書肆に戻り、せめて礼の一つも申さねばと、踵を返したのだが、日が暮れる頃になっても、その場所へ行く事は適わなかった。
いたしかたなく、私はその本を持ち帰る事にした。
夕餉の後、その書籍を繙くと、どうやらそれは事典か評書のようであった。皮製本の堅牢な装丁で綴じられており、膨大な記録が静謐に編纂され、その知識が飛翔する日を待ち兼ねているかに見えた。
書物の封を解くと、頁に穿たれたインキは紐のようにするすると宙へ浮かび上がり、私の脳天から螺旋に吸い込まれてしまった。古紙がインキを吸い込むように、私の脳髄は尋常ではない情報を浴び、大半のものは涙や吐息となって流出してしまった。
かくして、極僅かな、さして重要でもないような記録だけが私の内に留まるに至ったのだが、それも何時失われてしまうか解らない。
私という肉体の持つ不安定さは、あの事典の何%までを正確に記憶しているかは毛頭判断しえない事だが、ただ失われていくよりはと、この度、その残存し、脳裏に反響する木霊を書き留める事にした。
従って、ここに紹介した事物に関する記録は、ともすれば偽証になっているかも知れない事を明記すると共に、私の脳裏で螺旋に渦を巻き続ける、奇妙な記録の一遍でも、皆様にお楽しみ頂ければ幸いである。
平成拾参年 河村 塔 拝
2001.06.02
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