Wonder


 その鏡は、アリスの身長よりも、うんと大きいものでした。
 表面は大層眩しく磨き上げられ、どんな光をも跳ね返しています。これでは、鏡に近付くどころか、鏡を見る事さえ儘なりません。
 アリスは眼を固く閉じて、恐る恐る鏡に近付きました。すると、確かに両の掌に冷たいものが触りました。閉じた瞼の裏側を透かして、烈しく明るく輝くものも感じます。
 鏡の表面は水鏡の様にとても心地好い冷たさで、アリスはそっと右の頬も鏡に押し当ててみました。森の奥に湧き出ている泉の様に、眼の醒める様な冷たさで、触れている部分から身体全体に染み渡る様な爽やかさを感じて、思わずアリスはお城の騎士の様に、凛と背筋を伸ばしきっていました。すると、掌が触れていた部分に、水の波紋が生まれ始めました。
 「もしかして!」
 アリスは思いました。
 どうやら、この鏡は鏡の国へ通ずる魔法の水鏡のようです。
 どうにかすれば、家庭教師の先生から聞いた
鏡の国へ行けるかも知れません。
 アリスは勇気を振り絞って、もう一度鏡に近付いて行きました。そして、掌を強く前へ押し出すと、不思議な事に、掌が水の膜を突き抜けてしまいました!
 「やった!」
 アリスは嬉しくなりました。鏡の向こう側へ思い切って足を踏み入れますと、其処にはしっかりとした石の床がしつらえてありました。もう、心配な事はありません。
 アリスは、完全に鏡の向こう側へ出てしまうと、恐る恐る瞼を持ち上げました。すると、どうでしょう! 此処はさっきと鏡映しになっただけの世界でした。
 「これでは、先生から聞いたお話と違うわ。」
 アリスは慌てて元居た世界に引き返そうとしました。
 振り返ると、鏡に映ったアリスの姿はあの可愛らしく可憐で清楚な少女の姿ではなく、すっかりと美しく成熟した大人の女性の姿になっていました。着ている服も子供っぽい(でもとても良く似合っていたのですが)水色のワンピースではなく胸の大きく開いた、大人の女性のドレスに変わっていました。
 アリスがつい、大人になった自分の姿に見惚れていると、鏡の前に醜い変質者が現れました。変質者は紅潮した顔でアリスの名前を何度も呼んでいます。
 その声はまごうかたなき先生のものでした。でも、数学の教科書を手にして、幼女を憧憬と欲情の眼差しで見詰めるその姿は、鏡の向こうからでは、只の変質者にしか見えません。

 そうです!

 鏡の国からこれを見ると、人の心が鏡映しに見えてしまうのでした!

 アリスは背筋におぞけの様なものが、さっと走り抜けるのを感じると、黒い羽根の天使達に誘われるが儘に、鏡を振り返る事なく外の世界へと出て行ってしまいました。
 そして、いつまでも庇護される少女の姿でいたら味わえなんだろう禁断の快楽を貪り、その美しさが許される儘、放蕩の限りを尽くすと、長生きをして幸せな生涯を閉じたという事です。

おしまい


2000.12.132002.08.31