Yin-Yan


 空気が震えるダンスフロアを見慣れぬ少女が泳いでいる。
 極度に灯りが落ちた室内を必死に掻き分け、隅のDJブースに側寄ろうとしている。が、音に憑かれるまま踊る群集は、彼女の望む進路を空けてくれはしない。
 ほんの数十メートルの距離を、他人の汗に塗れ、肘鉄を食らいながら文字通り這うように進み、ようやく解放された時には、少女の顔に些か憔悴と痣が加えられていたが、我が身に構う事無くブースへ駆け寄ると、
 「DJ-KOHBEさんですよね?」
消え入りそうな声でブースの主に問うた。
 だが、DJは少女などいないかの如く手を止めず、また何も答えなかった。
 しかし少女は怯む事無く、ターンテーブルを回すその手──甲に五茫星の刺青が彫られた──を掴んで、
 「お願いです。助けて下さい。」
と呟くと、そのまま気を失った。不快なスクラッチ・ノイズと床を叩く骨の音が室内に伝播する。
 が、音とリズムに揺れている聴衆は、そんな些細な出来事に気付きもせず思い思いに身を委ねている。
 深手を負った盤を素早く入れ替えると、DJは足元に横たわる少女を抱え、そっとフロアを離れて行った。

 

 額に触れる心地よい冷たさと、瞼の向こうに透ける白熱灯。
 そこで初めて、少女は自分が何処かに寝かされているのだと、気が付いた。
 上体を起こすと、まだ血が通わない脳髄が少し軋んだ。
 「まだ死んでるか?」
 驚く程低く、不機嫌そうな声が彼女に投げ付けられる。
 「い、いえ。」
 「なら、早く帰れ。」
 声の主である、先刻のDJは短くなった煙草を灰皿に押し潰し、蒼い顔の少女を鋭く睨んだ。
 「血が足りないんなら、尚更な。」
 瞬間、弾かれたように背中を震わす少女。
 「誰に聞いて来たんだか知らねぇが、生憎それは俺の専門外だ。優秀な医者にでも診てもらえ。」
 「で、でも…。」
 ナイロンパンツのポケットをまさぐり、苛々とオイルライターの蓋を弄び始めるDJ。
 「第一、俺は見ず知らずの奴の話を聞く気は無ぇし、奇病を治すような力がある訳じゃねぇ。けど、それでもまだ話があるって言うんなら、勝手にそこで朝まで独り言でもほざいてろ。」
 吐き捨てて、彼は安い折り畳み机に突っ伏した。もう、ライターの金属音は止んでいた。
 暫くして、少女はこちらを振り返ろうとしない背中に向かって、とうとうと語り始めた。
 DJはその間、全く微動だにせず、また寝息を立てる事も無かった。
 だが、彼女が事情を全て話し終えぬ内に、彼は突然立ち上がり、部屋を出て行った。
 「ちょっ…。」
 慌てて後を追う少女。まだふらつく足取りで、彼の足取りをなぞって行くと、元のダンスフロアに辿り着いた。

 

 少女が一歩足を踏み入れると、そこは奇妙な安らぎと静寂が湛えられており、小一時間程前までの暗い熱気と喧騒など、最早微塵も感じなかった。周囲を見巡ると、先刻は人並みと照明の暗さで解らなかったのだが、床上には九つの小さな円形のタイルが嵌め込まれ、また四方を囲む壁には、鳥、亀、龍、虎が描かれ、それぞれの獣の瞳が少女を射抜き、彼女を竦ませるに充分過ぎる眼光を放っている。
 「そのまま動くなよ。」
 言われるまでもなく棒立ちの少女の前に、DJが顕れ、盤を回すが如く滑らかに印を組み出した。

突如

少女の腹部を烈しい蠕動と痛みが襲う。
 『それ』を確かめると、今度は印と共に言葉ともつかない何かを暗誦し始めた。

途端

今度は少女の腹部に脈打つものが浮かび上がってきた。
 彼はすかさず、その蠢きに勢い良く掌を打ち当てた

瞬間

少女の口から丸々肥えた蛭が一匹、床の上に吐き出された。
 倒れる少女。
 ぬめぬめと這い回る黒い塊。
 無表情にそれを踏み躙ると、足裏で水音が弾け、床が紅く穢れた。
 だが、彼はそれを拭き取らず、黙って少女を抱えて立ち去った。
 まるで、その沁みが蒸発する事が予め解っていたかのように。

 

 

 額に触れる心地よい冷たさと、瞼の向こうに透ける白熱灯。
 再び少女は、自分が何処かに寝かされている事に、気が付いた。
 上体を起こすと、まだ血が通わない脳髄が少し軋んだ。
 「まだ痛むか?」
 驚く程低く、不機嫌そうな声が彼女に投げ付けられる。
 「い、いえ。」
 「なら、早く帰れ。」
 声の主であるDJは、短くなった煙草を灰皿に押し潰し、蒼い顔の少女を鋭く睨んだ。
 「そんで、もう二度とここに来るなよ。」
 大きめのレコードバッグを肩に担ぎ、振り返りもしないDJを、ぼんやり見送る少女。
 「クラブは『踊る』為の場所だ。面倒を押し付けたけりゃ、今度はこっちにしてくれや。」
 彼は安い折り畳み机の上目掛け、薄い紙切れを投げ捨てると、今度こそ部屋を後にした。
 滑るように掌に舞い降りる『DJ-KOUBE』の名刺。
 だが、その脇には『陰明師 安部 頭』の名前と、連絡先の番号が汚く書き加えられていた。
 少女は慌てて外へ出て、彼の姿を探したが、ついに「ありがとう」を言う事は出来なかった。


2002.01.12