『壊闢師―もうひとりの揺震部の物語』


 此処ではない何処か。
 現在ではない何時か。
 吐息の様に淀んだ空気と、優しく温かい廃墟。
 永遠に巡り来る時間と、生き存え続ける死体。
 無数に充溢する、未完の物語の欠片。
 それが、この街の全てだった。

 所々点る、青緑色の非常灯を頼りに、薄昏闇の通路を進む。
 三方を囲む腐食した金属。崩れたコンクリート。絶えず滲み出る地下水が、耐電外套を湿らせ、旧い革靴をしとどに濡らす。時折、分厚い隔壁の向こうから弾丸地下鉄の軋みが轟く他、異形の獣が舌舐めずるのに似た、不快な己の跫音以外、何も聞こえない。
 孤独で静謐。それ故、神聖さを帯びた隔離領域。
 私は名も無き衝動に従い、更に深奥へと向かう。
 強固な電脳障壁を破る様に階段を降り、無数の結節点を跨ぐ様に分岐点を曲がり、複雑な電脳網を辿る様に隘路を歩く。
 どれ程、枢奥に潜ったろう。
 進路を遮る、錆び朽ちた重厚な電子扉。脳髄に映る電子窓には、未だ論理錠が生きている証。
 私は反射的に、生体電脳を検索し、全宇宙を構成する原子の数より多い言詞の中から、鍵韻号を探すと、それを唱和する。
 「
 嘘みたいに軽快な電子音。
 掻き消す様に鳴動する、厳粛な軋み。
 舞い上がる錆粉。
 誰も読んだ事の無い書物の頁を捲る如く、忌わしい瘧と共に、扉の封印が解ける。
 果たして室内には、ひとりの少女が眠っていた。
 見憶えの無い容貌。
 なのに、酷く懐かしく思うのは何故なのか。
 生体電脳の誤認か否かを確認するのを忘れ、私は誘蛾灯に飛び込む羽虫宛ら、足を踏み入れた

途 端

獲物を捕獲した食虫花みたく、背後で扉が閉じる。
 ミリ秒でなく、ナノ秒で起動した邀撃式。
 罠か招待かは解らない。
 いずれにしろ、私の行うべきは唯ひとつ。
 街に充ち溢れる、物語の欠片を探し出し、本を読み解くが如く、文字通りそれを繙き、壊す事。
 それが、私に与えられた役目だから。

 薄紫色の人工羊水と、昏々と眠り続ける思春期前期の少女で充たされた、旧い標本壜を想起する円筒型の生命維持装置。
 外部電脳に照会せずとも判る、前世紀の遺物。
 だが、脳髄に映るDNA配列は、彼女が単なる人形ではないと教授する。
 「何故、こんな処に生体量子電脳が?」
 けれど、初期衝動に駆られ、謎解き遊戯に身を投じる気にはなれない。
 不定形な波の様に、刻一刻と姿を変え、虚構も現実も、言葉ひとつで容易く入れ換わり、世界を支える永久不変の絶対真理さえ、自由に書き換えられる、この不確定な電脳世界で真実を追究する事に、どれ程の価値があろう。
 戯れに頭を擡げた好奇心を抑えると、私は生命維持装置の表面に触れ、読めない書物に記された、見えない文章をなぞるみたく、指を這わす。
 鋭利な刃で果実の皮を剥く様に、無機の殻を構成する電脳卦式を繙き、壊す。
 解けた言霊の連なりは、螺旋を描いて昇華し、砕けた言詞の塊は原子、電子、量子に分解・還元され、再びこの世界に孵る。
 新たな物語を闢き、それを綴る為に。
 故に、ひとは私を壊闢師と呼ぶ。
 『物語』なる単語が、書物や人生のみならず、時に『世界』そのものを示す様に、『物語』の『欠片』もまた、言葉や数式による記録だけでなく、物に封じられた記憶や、生命を語る塩基、言葉に表せない事象・現象と言った、抽象的な『もの』や『こと』である事も少なくない。
 今まさに、私の眼前に眠る、この少女――否、この生体量子電脳みたいに。

 壊れた機械から零れる、薄紫色の生温い液体。
 その感触に既視感を憶えつつ、壊闢を続ける私の脳に奇妙な声が聴こえたのは、泡沫に帰した水の記憶の底に、少女の体温を感じた瞬間だった。
 「○◯0OoΟοОо0Oo。゜°」
 生体電脳の故障か。弾かれた様に、指を離す。
 「御免なさい。脅かすつもりは無かったの。」
 だが、その疑問は瞬時に解消した。
 解読不能言語の発信者は、彼女だったのだ。
 「唯、未だ私を壊して欲しくなかったから…。」
 「君を壊す?」
 「貴方、電脳法術士…ううん、壊闢師でしょ?」
 「唯の生体量子電脳が、何故、壊闢を拒む?」
 「だって、私はこの世界そのものだから。」
 意想外の戯言に、私は思わず口元を歪める。
 「咄嗟の嘘にしては、巧い台詞だな。」
 「どうして、私の言葉を嘘と断言出来るの? 私が本当にこの世界そのものだとしたら、この世界の登場人物のひとりに過ぎない、貴方の存在自体も、全て嘘になるのよ。」
 例え、彼女の主張が真実としても、私にその真偽を確認する術は無い。私に出来る事は唯ひとつ、物語の欠片を壊闢する事だ。それに、仮に私の存在も、この世界の全てが嘘だとしても、それはそれで構わない。『物語』を『世界』や『現実』と同義と看做すなら、全ての世界=全ての物語は皆、唯の『虚構』に過ぎない。何故なら、全ての現実は須らく虚構を含んでいるのだから。
 私は彼女の意思を無視する様に、再び己が指先で彼女の身体をなぞった。
 「どうして…、貴方は壊れるのが怖くないの?」
 文字通り、蛍雪の如き存在へと壊闢されつつある生体量子電脳の欠片を戯れに掴むと、私はそれに優しく語り掛けた。
 「そんな単純な事で壊れてしまう位なら、『世界』と言う名の『物語』なんて大仰なもの、最初から存在出来やしないさ。」
 それに。壊闢は破壊ではなく、創造なのだ。
 その証拠に、この物語は未だ終わらない。
 何故なら、彼女の痕跡から生まれた新たな物語が、今まさに私の眼前で綴られ始めたのだから。

<了>


2005.03.26

書肆/Textsニ戻ル