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28<Illinois州(Springfield)→Missouri州(Jefferson City)>


夕焼けの大空をミズーリ州目指して飛ぶF-14

夕焼けの空をミズーリ州Jefferson Cityへ向けて飛行するグラマンF-14A Tomcat

■空港が小さいならいっそ戦闘機で…

 梅雨にしては暑い日々がつづいていましたが、きょう(7/7折りしも七夕!)は梅雨空にもどり、少ししのぎやすい1日でした。夏山を前に「あんまり早く梅雨明けするのも困るんだよなー」とか勝手な希望を述べながらも、夏休みを心待ちにしています。この厳しい社会情勢の中で「何が夏休みだ!」と怒られそうですが、そういう時代だからこそ、心静かに山と向かい合う時間もあってもいいようにおもうのです。

 土曜日の午前中の仕事(といっても勤務は12:30まで)を終えて、その足でちょっと用事をすませて帰宅しました。そのあとは、ご想像通り居間でゴロゴロ軽く昼寝。最近疲れが抜けないのが悲しいです。少し涼しくなってきた4:00頃に「よし、飛んでみるか!」と気合を入れてパソコンに向いました。FS2000を起動して、まずは機体選び。少し前のページでも触れましたが、州都の旅での悩みは州都近くの空港の狭さです。滑走路が3000mはないとふつうのジェット旅客機はなかなか飛ばせません。機体が重いのと離陸速度に達する前に滑走路が終わってしまうことが多くて、何度か失敗しています。JASのBoeing777(レインボーカラー)の機体で飛んでみたいのですが、しばらくはお預けです。そこで、小型ビジネスジェットも少し飽きてきたので、エンジンパワーであっという間に離陸のジェット戦闘機をまたしても選んでしまいました。その名もあの映画「トップガン」でも有名な「グラマンF-14A Tomcat」です。この機体は私の自宅からも職場の物理室からもよく見ており、しかも厚木飛行場のエアーショーでは何度もその実機にも触れている大好きな機体です。きょうはこの機体で夕方の空をミズーリ州の州都Jefferson Cityまで飛んでみることにしました。

 2001/07/07(土)16:50準備を終えて、イリノイ州Spring Capital空港を離陸しました。エンジンのパワーがすごいので、あっという間に離陸。NaviはいつものFSNavigator。離陸してすぐにギアの格納。フラップを戻し、自動操縦に切り替えました。こういう知らない空を飛ぶときにはNaviの性能はじつに大切です。私も両手に余るほどNaviは使ってみましたが、視覚的に非常に単純でわかりやすいFSNavigatorに落ち着いてしまいました。これとてはじめての方には使いやすいのかは疑問ですが、本物のNaviの使い方を学ぶのに較べればまだ楽なほうでしょう。さて、飛行のほうは順調で高度25000ftほどを300ktsでのんびり飛んでいます。真っ赤に染まった夕焼けの空をF-14が飛んでいる写真をもっていますが、それほどまでとはいえませんがFS2000の中で同じような雰囲気をスナップに撮ってみたいとおもい、何度か試みてみたもののうちの1枚が上のショットです。もちろん実物にかなうわけはないのですが、そこそこに撮れていて気に入りました。しばらくデスクトップの壁紙にでもつかってみようかなとかんがえています。

 周囲の景色は次第に夕暮れの群青色の空に変わり、上空には星ぼしも見えてきました。学生の頃、FM東京の「ジェットストリーム」という夜中0:00から始まる放送で聞いた名ナレーターの城達也さんの声が今にも聞こえてきそうな雰囲気です。いや〜堪りませんね。つい雰囲気に酔ってしまう私でした。

 飛行機が目指すミズーリ州の州都Jefferson City空港に着いたのは17:30ちょうどでした。もう周囲は夜でした。滑走路の照明塔がじつにきれいでした。思った通り滑走路は短くて、F-14の可変翼のおかげでで十分に減速して着陸できました。今まではビジネスジェット機にこだわっていたのですが、この際だから私のFS2000の中に格納してある種種の飛行機を使いまくるのも悪くはないなーとおもいはじめています(もちろんゼロ戦もありますよ…でもこれじゃ飛べないですよねf^^;))。楽しい40分のフライトでした。

 2001/07/07 (土) 19:17:33記す

■飛行機に魅せられて(長文)

1 なぜ飛行機が

 会津は山国で周囲はすべて山で囲まれている。ちょうど鍋底のように狭い盆地がそこにある。そこが、「会津」である。私の実家はその盆地のほぼ中央に位置する田んぼの中にある。実家の東方に家はなく、会津磐梯山が家の中にいても見える。そのピラミッドのような美しい姿を見ながら、私は少年時代をここに過ごした。

 こんな山の中にはもちろん飛行場などというものはない。時折、飛行機が高空を飛んでいくのを見ると、物珍しいものを見るように見えなくなるまで見続けたものだった。天気の良い日などは家の屋根に登って眺めたこともある。飛行機を間近に見たことがないので、少年向けの雑誌などに出ていたゼロ戦や隼などの戦闘機などをノートや教科書などに描いては飛行機に少しずつ興味を抱いていった。

 小学校低学年の頃、近くの田んぼで始めて「ラジコン飛行機」なるものを見た時のショックは今でも鮮明に覚えている。後で聞いた話では、そのラジコン飛行機を飛ばしていた人は近くの村落に住む人のおじさんとかで、時折遊びに来る時にその飛行機を持って来て飛ばしているとのことであった。大人の両手を広げたほどの大きさの飛行機をアンテナの付いた変な箱みたいなもの(私はそれが何というものであることはまだ知らなかった)で、操縦していた。飛行機はグルグル回ったり、回転などをしたり、まるで本物の飛行機のように飛ぶのを飽きることなく見ていた。田んぼの脇の砂利道に上手く着陸して、そのおじさんが帰る時には、「もっとやっていてほしい」と心底思ったものだった。いつか、自分もあのような飛行機がほしいな、とおじさんの後ろ姿を恨めしく見送った。彼が、どこかの飛行機会社のパイロットであると聞いたのは、それから少し経った頃だった。「そうか…、パイロットか」。私の気持ちの中に「パイロット」という言葉が気にするともなく、浮かぶことが多くなった。「大きくなったら、自分でも飛行機の操縦がしたい」と意識するようになったのは、それ以後だった。

 同級生に、おじさんが航空自衛隊の飛行機に乗っているという、友人がいた。彼の家は私の実家からは相当に離れていたが(今では車で10分位だが)、そのおじさんがよく読んでいたという「丸」とか「航空情報」という本があるというので、学校の帰りに何度か借りに行ってそれこそ寝るのも惜しんで読みふけったこともあった。多分小学校の高学年から中学にかけてであったと思う。その本の間に「物理演習」だとか「潜水艦のなんとか」という本なども混じっていて、中には変な文字(数式ですね)がズラズラと書いてあり、「パイロットになるにはこういうことも勉強しなければいけないんだな」と子供心に「よし、俺も勉強してやる」と決意をもったものだ(まあ三日坊主でしたが)。実は、な、なんと、その同級生というのは私の家内の兄だったのだ。もちろん、その当時は、飛行機の本を貸してくれる貴重な友人というだけで、本を読みたい一心で「妹さん」などほとんど関心がなかったことは確かである。

 その頃には、もう「自分は飛行機のパイロットになるんだ」と決めていたように思う。中学に入る頃には、もう飛行機しか眼中にはなく、暇さえあれば飛行機の絵を描き、飛行機の本を読んでは自分の将来を描いていた。英語が必要だと聞けば英語に打ち込み、数学や理科の知識が必要だと聞けば、それを懸命にやった。学校の成績はまずまずだったので、というより飛行機の本を読んでいると学校の勉強をしなくても、基礎的なことは知らぬ間に覚えてしまうので、それほど真剣に勉強したという記憶はないのだが(この辺は、どうも自分に都合よく過去を解釈する年代になっているので、本当かどうかは自信を持って言えない)、何とか夢に向かって努力していたことは確かなようである。視力が大事だと言われていたので、遠くを見る訓練をしたり、部活は水泳部に入り、夏はけっこうきつい練習にも耐えて頑張った。なにで行ったのか記憶にないが、福島市にある競馬場に親父と一緒に行ったときには、展覧会みたいなものが催されていて、その中にあの夢にまで見た「ゼロ戦」が展示されていた(どうも南方の戦線で残骸化したものを、整備し直したものらしかった)。操縦席にも入れるというので、長い列に並んでついにその「操縦席」に座ったのである。ものすごく嬉しかったが、ちょっとガッカリもした。思ったより中が今の言葉で言うと「ダサ」かったのだ。でも、操縦棹を動かすとけっこう重く、ペダルには足が届かずじまいであったが、大満足であった。

 高校への進学では、その頃できれば「航空大学校」か「防衛大学」へ進学してパイロットになることを具体的に考えていたので、近くの会津若松市にある進学校の「会津高校」へ行きたいと自分では考えていた。親父は「自転車店」をやっていたので、「息子には跡を継いでもらいたい」ようで、「工業高校でいい」とか言っていたが、お袋は「自分の好きなことをやればいい」と普通科への進学を応援してくれた。受験勉強は自分でも驚くほど頑張った。あの雪に埋もれた冬の会津では早朝はとくに冷え込む。早朝に起き、足を毛布で包んで、眠いのを我慢して勉強した。会津にはその当時進学するには、その高校へ行くしかないと思い込んでいた。福島民報という新聞社の模擬テストも何度か受けたが、成績に波があり(飛行機のことばかり頭にあっては当たり前かな?)、良いときにはけっこう上位に食い込んだりした。

 昭和43年の3月16日(確かそうだったと思う)に入試があった。外は弱く吹雪いていたように記憶している。数年前から受験科目が9教科から5教科になっていた。入試会場(教室)に入る前に、講堂(学而会館という)に受験生が集められ、そこで中学校ごとに整列して、何か話しがあったようだ。私の中学からは5名受験した(1名は浪人…入学して知ったのだが浪人はかなりいた。当時は福島県では浪人は普通のことであったのだ)。そして、受験する教室に向かった。この学校は、明治23年に創設されたこの地区では名門校である。戊辰戦争で官軍に負け、武士階級は青森や北海道の僻地へ流され、残った武士達も悲惨な生活を強いられた。その中でも何とか自分達の子弟を教育したいという悲願をもって、最初「私学校」からスタートした学校である。会津藩時代にあった「日新館」という藩校を基に開校された学校である。校舎の一部にはその数年前に焼け残った木造校舎があった。私が受験した教室は新しく立て直された新校舎の中にあった。

 現在のように「内申書」などというものは、ほとんど重視されていなかった。それに、この学校を受験する生徒はほとんど各中学校のトップクラスなので、内申書などあったとしても「差」などつくはずもなく、当然「試験一発勝負」である。試験が出来なければ落ちるだけなのだ。試験中のことはほとんど覚えていない。ただ、終わったときに、「できた。絶対受かる」とほとんど確信できた。数学や英語はほぼ満点だと思ったし、得意の社会は当然できた。国語は少し迷ったところがあった。理科はまずまずのところだろう。

 発表の日、親父の車に乗って幼なじみのI君と一緒に高校に向かった。その途中で、車のラジオで各高校の合格者が放送で流れていて、車の中で私の名前も呼ばれた。嬉しかった。第一関門突破!。高校の合格発表の掲示板で再度確認して合格書類を貰って、その後I君の受験した工業高校へ発表を見に行った。彼も合格した。翌日の新聞には合格者名が各高校ごとに登載された。こんなことを現在やったら、「人権侵害だ」と騒がれるだろうが、当時(といってもわずか30数年前)はどの都道府県でも当たり前のことであったのだ。こうして、前途は開かれていくように感じていた。入学後、担任の先生からおそらく全員だと思うのだが、何番で合格したかが知らされた。私は、ほぼトップクラスであった。教えて貰った日は、天にも昇る気持ちで、「これならパイロットどころか、東大でも行ける!」と正直思った。実際にその頃は、この高校からも10名前後の東大合格者が毎年いたからまんざら大袈裟でもなかった。卒業生の半分以上は国立の難関大学に入学していたし、決して自分だけがそう思ったわけではないと今でも思っている。まだ、眼鏡もしていない入学式の日の写真が卒業アルバムに残っている。

 入学式が終わり、授業もボツボツ始まり、パイロット志願もまだ健在。勉強を頑張っていけばほぼ大丈夫だろう。部活動も中学に引き続いて水泳部に決めた。そんな4月の後半に身体検査が行われた。現在のぶくぶくした中年オヤジそのままの姿ではなく、そこには運動で鍛えたまずたくましい身体があった。線は細いが十分に健康な高校生といっていいだろう。身長、体重、胸囲…とつづき次は視力。これには自信があった。中学3年まで1.5を堅持して来たので、問題など考えもしなかった。色盲でないことは遺伝的に知っていたし、パイロットに必要な視力はもっとも気をつけてきたものだ。自分の番に来て、測り出すと「あれ?」いつもの1.5のところが見えない。目を凝らすが駄目。結果は0.7。信じられなかった。もっとショックだったのは「どうも、乱視の気があるから、一度眼科医で検査を受けてください」とのこと。ガーンと頭を殴られたような気がした。帰宅後、お袋に聞いたら「乱視と近視だよ」と眼鏡をかけたお袋が簡単に言った。受験勉強も多少やったから、少しは視力が落ちているかもとは思っていたが、まさか「乱視」までは考えもしなかった。精密検査も同じであった。万事ここに休す。目、目、目、…目が駄目なんだ!

 パイロットの夢はここにあっけなく消えてしまった。目標を失うとやる気をなくすのも早い。成績はエンジンの止まった飛行機のように急激に下がっていった。それもあまり気にもならなかった。なりたいものがないのに勉強などやる気になるはずもない。部活動にも身が入らず、ただ何となくやっているだけ。時間ができると、当時は制服での入館は禁止になっていた映画館に映画をよく見に行った。今は福島で医師をしているI君や同じクラスのM君などとよく遊んだものだ。1年生のときは、こんな状態でブラブラしていたというのが本当のところだろう。

 2年になって、物理の勉強が始まった。飛行機の本で読んだ内容とほとんど同じことが一応体系立てて出てきた。すでに、けっこうむずかしい内容のことも大好きな飛行機の本を読む中で、知らずに覚え込んでいたので、「物理って面白いな」と素直に感じた。当時の化学のように「ガツガツ覚え込む」部分も少なく、理屈に従って考えて行くと、ほぼ自分の力で解答を導くことができるのも、その頃「哲学っぽい」ことに興味の出てきた自分には引かれるところが多かった。「物理を勉強してみようかな」と少しずつ思い始めていた。数学は成績は1年生の不勉強がたたって今一つパッとしなかったが、もともと好きだったので、図書館から高木貞治『解析概論』岩波書店などを借り出し、読んでみたりしていた。今思うと、ずいぶん背伸びしていたな、ともいえるが、むずかしいことほど惹かれていく性格はこの頃に始まったようだ。英語は秘伝の「教科書丸暗記法」をやっていたので、成績はかなり良かった。文科系の科目には次第に興味を感じなくなって、あれほど得意だった社会の地理や歴史も授業中ボンヤリと外の景色を眺めて夢想していることが、多くなっていた。

 1年から2年に進級する春休み中に関西方面に修学旅行があった(なんでも、2・3年では受験の邪魔になるというような話であったと思う)。初めて京都・奈良・四国などに行った。男子校なので夜はみんな好き勝手に(??)やっていて、移動中のバスの中は寝静まってシーンとしていた。由紀さおりの「夜明けのスキャット」とビリーバンバンの「白いブランコ」がバスのラジオから何度も流れ、それが今でも耳に深い思い出として残っている。そして、京都!お寺さんはどうでもよかった。バスが「京都大学」の正門前を通ったとき、そこは学生運動の楯看板で一杯だった。私は偶然起きていて、この伝統ある、そしてノーベル賞を貰った湯川秀樹さんのいる(出た)大学を目にした。「いいなあー。ここに入学できたら毎日京都だ!」と信じられないほど直感的に思った。このときは、それだけだった。

 2年のときに、新たな目標探しが潜在意識の中で行われているとき、この印象と直感が少しずつ頭を持ち上げて来た。京都に行って「物理」を勉強する、自分の中に少しずつ次の目標らしいものが決まりかけてきた。もう、3年を目の前のする頃にようやく自分のやりたいことが新たに見つかったような気がした。時期的には間に合わないかも知れない。とにかく、やるだけやってみようと思った。受験勉強開始。

2 飛行機との再会

 大学は残念ながら失敗し、浪人を余儀なくされた。現在のように「明るい浪人生活」など想像すらできない時代で、日陰者のようにひっそりと受験勉強に取り組んでいた。飛行機のことはいつでも頭にあったが、マニアックになるほどではなかった。プラモデルで作る飛行機は大好きだったので、よく作った。この時期にいろんな分野の本を読むことも覚えた。それまで読んだことのない小説や評論など、わからないながらも乱読のように読んだ。本といえば、飛行機関係の本とSFが主であった幼稚な自分が、少しずつ変っていくのが何となく感じられた。友人の影響で、クラシック音楽に目覚めたのもこの頃のことである。それまで断片的にしか耳にしなかった曲を「まるごと」聴くと、それまでのイメージがどんどん崩れていくのが実に爽快だった。バッハやモーツァルト・ベートーベンなどFMで流れるのを聴きながら指揮者になったつもりで、指揮などしながら聴いたものである。

 第一志望ではなかったが入学した大学では、物理を専攻することになった。最初の頃はまだ、第一に希望していた大学に未練が残り、もう一度受け直してみようと受験勉強は続けていたが、下宿にした「みどり荘」というのが実に雰囲気のいいところで、そこで生涯の友人達に巡り合うことになった。いつしか、再受験もあまり意欲的ではなくなり「山登り」に精を出すようになっていた。物理のことや人生のこと、恋愛・哲学・思想などなど朝方まで飲みながら口角泡を飛ばして議論することもたびたびであった。時折、プラモデルの飛行機を作ってはカラーリングも施し、写真に取ったりもしていた。高校のときの一番の親友が再受験をして、見事念願の公立の医科大学に合格したという連絡をくれたときには、自分のことのように嬉しく自然に涙が出てくるのを押さえることができなかった。

 大学時代は物理と山とアルバイトで終わってしまったような感じであったが、本当に充実していて、思い出すたびに「いい大学生活を送れた」と自分では後悔はない。貴重な友人も数多くでき、思い切って会津という狭い世界を飛び出したことを自分でも良かったと思う。 後悔と言えば、専門の物理をもっと真剣に深く学んでおくべきだったことである。

 大学を卒業して教員になったのも、別に大した意味はなかった。実家に戻って来いという両親を説得して関東に居座るには、何かそれなりの職につく必要があったためである。大学院にもぐりこむという手もあったが、それは費用の面で諦めた。幸運にも教員の試験に1つだけ受かったので、そこに勤めることにしただけだ。「教育に打ち込むために」などという考えは全くなかった。今でもそういうことをいう同僚や父兄などを見ると、「この人は本気なのか?」とその精神構造を疑ってしまう。「教育」なんて日常の人間の営みの1つにすぎないと今でもおもっている。その職業に就くのに大そうな理想など必要はないとおもう。必要なのは、体力と粘りだけである。知力は少しはあったほうが助かる。
 
 仕事のはなしはこの際どうでもいい。飛行機との再会である。大学時代の友人で、卒業後、自分でパソコンのソフト会社などをしていた佐々木くんが偶然横浜に住むようになった。そして、彼が私にパソコンとパソコンで飛行機を飛ばすというトンデモナイことを教えてしまったのだ。私の中に眠っていた「飛行機への想い」は、こうして一気に爆発してしまった。私は飛行機を飛ばすために必死でパソコンも覚えた。そのためにはものすごい集中もした。でも、飛行機を飛ばすときにはそういう苦労はすっとんでしまっていた。外国製のソフトが主であったためマニュアルはほとんど英語であったが、英語を読むことにはほとんど抵抗はなかったので、厚いマニュアルもかなりの速さで読めた。というより、飛行機のことなので、読む内容はほとんどわかっていた。そして、どんどんのめり込んでいった。
 
 気がついたらFS2000の世界まで来ていた。パソコンもほとんど鉛筆のようになっていた。FSをするときだけ、パソコンは私専用のコックピットに早代わりした。仕事で疲れて帰宅したときも飛行機を飛ばすと気が休まる。ヒマなときは本を読むか、飛行機を飛ばすのが日課になってしまっている。山も好き、物理も好き、だけど飛行機はもっと好きである。本物の飛行機を飛ばすパイロットには不運にしてなれなかったが、パソコンで飛ばせるだけでも私は十分に満足している。飛行機にマニアックにのめりこむことはないが、飛行機の音が聞こえれば自然に空を眺めるクセがついてしまっている。いまどき、飛行機など珍しいものでもなく、空など眺めている人は見かけないが、私は飛行機をかならず目で追う。それが、飛行機に魅せられてしまった田舎者の悲しい習性かもしれない。

 2001/07/07 (土) 20:37:12(5年ほど前に書いた文章に追加して記す)

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