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息子の入試を終えて


昨日(98/2/17)、神奈川県の公立高校の入学者選抜学力検査(入学試験)が終わった。国語・社会・数学・理科・外国語(英語)の5教科によるペーパーテストが9:20より始まり15:15まで各50分の試験時間で実施された。この試験の合否判定における割合は4割あり、残り6割が中学校から提出される「調査書(いわゆる内申書)」を占めている。

昨年より新しい入試制度になり、それまで2年生に実施されていた「アチーブメントテスト(ア・テスト)」の得点(9教科の得点を10段階に直したもの)が入試で使われない新しい方式に変更になったのだ。「内申点」と「入試」で合否を決める今の方式に変ったわけである。しかも、志望校は第1希望と第2希望の2校を書くことができるようになったので、一見すると「志望の選択」が広がったように錯覚するが、実はそうではない。第1希望で「落とされた」生徒は自分の知らぬ間に「第2希望」に回されることになり、序列がより鮮明な形で現れて来ている。「生徒の選択権を保証する」「学校間の序列を少なくする」などの大義名分は早くも破綻してしまっているのが、はっきりしてきた。「入試はいじればいじるほど悪い方向にいく」ことは、他の都道府県の例を見てもすでにわかっているにもかかわらず、またしても同じ轍を踏んでしまった、ということである。

中学・高校段階でどんなに制度をいじってみても、上の階層に位置する大学が一向に変ろうとしないのだから、同じリングの中であっちへ行ったりこっちへ行ったりするだけで、リングの外には出られないのは始めからわかっていたこと。親も子供も大学への進学に少しでも有利と思われる「進学校」へ行きたいと思うのは、ごく当たり前のことである。こんなことは、今に始まったことではなく、古今東西どこでも同じである。過去には「行きたくても行けない」時代は長くあったが、そのチャンスさえできればどの親だって、生徒だってそういう学校に行きたいのだ。「いい学校」→「いい職業」はいつの時代にあってもみんなの偽らざる気持ちなのである。「昔はそうではなかった」などの論を張る人も多いが、そういう人の学歴を見よ!しっかり、有名なところを出ているものなのだ。「子供の希望を尊重して云々」などの意見も「言い訳」のように聞こえるのは私だけだろうか?

私の長男も今年の高校入試に挑んだ。中学校の2年・3年の成績が「内申点」ということで、入試の判定に使われる。息子もそれなりに意識して懸命に頑張っていた。これは、事実である。そして、他の同級生たちも同じであろう。中学校の定期テストや豆テストなどはすでに「入試」の一部になっている。夏休みや冬休みの課題も成績をつけるための大事な資料となるので油断はできない。この辺は、10年近く中学校で教えていたので、職員室内のことはもう手に取るように私にはわかっていた。息子はのんびりした性格で要領も決してよくない。加えて、当たり前ではあるが、まだ自分が将来何になりたいのかも見定めていない。試験勉強にはこの「目標」が大きく左右することは、自分の経験上からも十分に認識している。そういう環境では、多少息子の尻を叩くのもやむを得ないことと、感じていた。

私は朝が早いので、息子にも朝の勉強の方が効率が良いことを盛んに言いつづけ、また実際に私が起きてしばらくすると息子を起こすようにした。3年間眠そうな顔をしながらもよく頑張ったと思っている。勉強の内容については聞かれなければ教えないようにしていた。息子は私に似たのか、人に聞くことをしない方なので、どうしても軌道修正が必要と私が判断した(これがよく間違う?)ときは、遠慮なく指摘した。自分の子供だけでなく、多くの生徒を見ていると、子供というのは実に「頑固」である。私自身が子供のときを思い起こすと自分もそうだったように思う。「子供は純真でまだ白紙の状態」というようなことを言う人がいるが、私はそんな寝言みたいなことは信じない。子供は十分に色づけられているし、またそれでいいのだと考えている。

この受験についても、いろんな改善(悪)案が次から次へと出されてくるが、「人を選ぶ」というのは、どんな方法を考えても実に難しいことで完全を期すことは不可能であると思う。ことわざにもあるように「名馬は常にありて、伯楽は常にはあらず」なのである。やれる範囲でやるしかないのが人間に与えられた限界であると常々感じている。だから、息子の能力に関しても公平に見るだけの冷静さは自分には望めないと考えざるを得ない。与えられた環境の中で、その人間がどれだけのことができるか、がその人間の能力と割り切るしかないのだ、と自分ではいつも考えている。

息子の成績は通っている中学校の学年で格別いいというほどでもない。親としては「もう少し頑張ってくれれば…」と思うこともある。しかし、彼は彼なりに自分のできる範囲で頑張っていてくれることは、誇りに思っている。学校の成績はその人間の持つ「ほんの一部の」ある能力を測った結果であることは、現場で見ていてもはっきりわかる。成績をどのようにしてつけるかは毎日の仕事で私自身がやっていることなので、もう手に取るようにわかっている。中学校での教職経験もあるので、生徒の成績を段階(10段階・5段階)に振り分けるときの手順などはその現場にいるくらいに想像がつく。息子の成績でどのくらいのレベルの高校へ進学できるのか、担任の判断を待つまでもなく、はっきりわかる。そして、成績は非常に不確定要素の多いもので、ちょっとした動機で急変することも数多くその事例を見てきた。秀才といわれる生徒がどれほど不確かなものなのかも見ている。塾や予備校などでいわゆる「点数を取れる学力」を身に着けて来た生徒は本当に実力があるのか?と考えることも多い。「実力って何か?」も悩む。そんなこともいろいろあって、私は息子の通っている学校に行ったことは ない。担任の先生にとって「同業者」は大変煙ったい存在であることは、自分の経験からも理解できるからである。おそらく、他人である担任の先生の方が冷静に判断しているはずだ、と思っている。進学先の話し合いには妻と息子が行って話をして来てくれた。私には行く勇気はなかった。

日本でトップの大学といえば、「東大!」と考える人が多い。「あの学校からは東大に何人合格した」というのは、もう学校のレベルを見るときの「基準」になっている感すらある。もうそんな時代は過ぎた、と言われて久しいのに今もって変っていない。日本の大学の頂点だそうで、なるほど優秀なはずの官僚もここから輩出している。現実、そんなに優秀なのか?答えは簡単。東大でもピンからキリまでいるということだ。優秀な人もいるし、そうでないのもいる。大学の中全部が優秀なんてことはない、という当たり前のことに気づけば、どこにでも「馬鹿」はいることもすぐに理解できる。ちなみに「東大」は世界的に見れば」たいした大学ではない。施設が古い、予算が少ないなどごちゃごちゃ言い訳を言っているものもいるが、そんな中でもやっている人はきちんとやっているのである。だいたい東大にしがみついて「コケ」のように張り付いているものが多すぎる。他の大学を馬鹿にしたり、私大を腰掛けにして上がりは東大でなどと考えているものも多いのだろう。

官僚や政治家などが汚職などで捕まるとすぐに大騒ぎになるが、そういう人物が中にいることなど当然なのである。どんな職業だろうが、その職業に本当に適していて仕事もきちっとやる人間など、まず2割もいないのだ。「人選び」は常に「一種の賭け」であることは、人間を長くやっていれば、誰でも気づくはずである。人生これ「人選び」の連続であることは、何も私が声高に言うまでもないことだろう。これで苦労してこれで笑い、これで泣く。人生の節目・節目で誰もが嫌っていうほど感じさせられて来ているはずなのだ。入試だってこの節目の一つにすぎない。

息子も公立高校の入試をもって一先ずこの節目の試練を終えた。結果はまだ出ていないが、息子なりに懸命に努力したことは嬉しく思っている。失敗しても人生にはいろいろある。失敗もそれを生かしていけば、道は自ずと開けてくるものだ。大きな病気をすることもなく、変にひねくれた行動に走ってしまうこともなく、元気にここまで育ってくれたことは親として感謝しなければいけないと思う。欲を言えば限がない。有名校に行ければそれもまた結構。二流校でも本人次第。あとは、自分で自分の道を切り開いて行ってくれれば私としても言うことはない。息子の成長を静かに見守って行きたいと思うのみである。

 1998/02/19

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