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父の死


亡き父との最後の写真(通夜の深夜に)

今は亡き父との最後の写真(通夜4/20の深夜に写す)

■親父逝く

 父が死んだ。とうとう逝ってしまった。享年86歳。母が18年前に他界してから、胃ガンと脳梗塞という2つの大きな病気を乗り切ってきた父であったが、一昨年末からの肺の衰弱に追い討ちをかけるようなインフルエンザA型感染、そして両肺の上部からの壊死(肺炎)とぎりぎりのところで頑張り続けていた。が、ついにこの4/19(土)9:42に静かに息を引き取った。残念ながら、最後の瞬間には間に合わなかった。ただ、この8年近くを身近で見てきたためか、最後を看取れなかったことにそれほどの後悔はない。看護婦さんの「眠るように静かに息を引き取りました。」ということばに少し安堵の念を感じている。

 遺体はその日のうちに故郷会津まで移送してもらった。姉と姪が付き添ってくれた。わたしたち家族は、荷物をまとめるとその移送車を追うように、会津まで東北道を飛ばした。ひさしぶりに戻った会津は、ちょうど桜が満開であり、父はまるでこの桜を見るために会津に戻ってきたような感じであった。わたし自身、この時期に会津にもどるのは高校以来だ。会津鶴ヶ城周辺の桜は一気に咲き誇り、見事な景観だった。この時期に戻った父はいい花見をしたにちがいない。その夜は、会津に住む姉の家に父の遺体とともにお世話になり、孫8人とわれわれ子供夫婦が線香が絶えることのないように見守りながら、つつましく酒を飲み交わし、父との思い出話にふけった。孫たちはじつによく、最後まで父の傍をはなれずに、見守ってくれた。

 翌日の夜に、通夜があった。このときには、横浜からわが山岳会の仲間3人(山路氏・指原氏・湯上氏)が他の仲間の志を携えて、はるばる会津まで来てくれた。駅まで迎えに出て、改札口に現われた彼らを見て、それまで抑えていた涙が目の中に自然にあふれてくるのをどうしようもなかった。職場の同僚の人たちには申し訳ないことをしたが、父を見送るのに会津以外のところは考えられなかった。山路・指原両氏には納棺(通常は本当に身内だけ)にも立ち会っていただき、父も喜んでいたとおもう。そして、4/21(月)に告別式が行われた。変な言い方だが、思い出に残るいい葬儀であった。火葬に向かう途中で、父が築いた実家をひと目見せた上げたいというわたしたちの意向をかなえてもらい、コースを義兄がアレンジしてくれた。実家に近づくと近在の古くからの人たちが大勢集まってくれており、それも皆が泣いていた。わたしも感涙を抑えることはできなかった。父の築いていたものは、家だけでなく、それ以上のものであったことをその人たちを見て感じ入った。故郷会津の人たちは、30年以上もこの地を離れているわたしたちをもあたたかく迎えてくれた。そして、その人たちに見送られながら、父の乗った車はゆっくりと火葬場へと向かった。雨が降ったかとおもうと晴れ間が出たりと変化の多い天気ではあったが、火葬が済んでの帰りには、会津磐梯山を被うようにきれいで大きな虹がかかり、父の感謝の念がそうしたようにも感じられた。

 父・弥三郎は大正5年に生まれた。福島県の南会津郡田島町長野というところに実家がある。父は三男だったので、12歳で当時東京の御徒町にあった自転車店に丁稚奉公に出た。そして、そこから旧日本陸軍に志願兵として入隊して、太平洋戦争敗戦まで軍人としての仕事をまっとうした。最後は陸軍少尉であった。高等小学校しか出ていない父はかなりの努力をして、この階級まで登りつめたものと想像する。この頃のことは、父はほとんど話さないで他界してしまった。戦争時のことは、父にとって人に語るような出来事ではなかったのかもしれない。先日の通夜の際、まだ準備中のところに、あるご老人が杖をついてやってきた。わたしたち親族のだれも顔に覚えがない。わたしは喪主になっていたため、あれやこれやの準備に追われて失礼してしまったが、あとで姉に聞いたところでは、戦時中の部下であったとのこと。新聞に出た父の訃報で知り、あわてて訪ねてきたそうだ。父が軍隊にいた当時のことを知る人は次々とこの世を去り、語ってくれる人もいない。わたしたち残された家族にとっても貴重な話なので、四十九日の納骨の際には参列して頂き、当時のことを話してもらうようお願いした(その後、ご都合が悪くなり辞退の連絡あり)。

 正直に言えば、父の死は18年前に亡くなった母のときに較べ、それほどの衝撃は受けないだろうと自分では思っていた。もうわたしも50歳にもなり、それなりの覚悟はできていると思い込んでいた。しかし、いざ亡くなってみると、わたしの受けた心身的な影響は、母のときよりも大きかった。意外でもあった。母にとってはもちろんのことであったろうが、父は3人の子供のうち末っ子で長男のわたしをじつは一番かわいがっていたようだ。通夜の前日、父の眠っているような亡骸のそばで、わたしたち3人が思い出話にふけっていたときに、姉たちがさかんにそのことを言っていた。わたしは、今までそういう意識をもったことがなかったため、うかつにも父のわたしに対する態度を当然のことのように思っていたが、姉たちにはそれがはっきりと感じ取れるものだったとのことだ。何という愚か者であったことか、わたしは…。父には一度だけ大目玉を食ったことがあるが、それ以外はとくに叱られたこともなかった。「勉強しろよ」などという人でもなかった。職人肌の父は、自分の仕事をきちっと仕上げることを常に気遣っていた。愚痴を言ったりはせずに、自分の置かれた環境の中で精一杯努力をすることをわたしたちに無言で教えてくれていたように思う。孫たち8人にもとてもいい教訓を与えてくれたようで、告別式のときに1人ずつ語ってくれた弔辞では、参列者のすすり泣きが会場中で聞こえた。86歳といえば、もう世間では十分に生きた年齢でもある。でも、父を思っていてくれる人がこれほどにいようとは、息子であるわたしはこのときにはじめて知った。父は死んでこのことをわたしに教えてくれた。会社勤めなどのいわゆる組織人ではなかった父がこんなにも多くの人たちに支えられて仕事をしていたとは知る由もなく、能天気に好き勝手に生きてきたわたしは恥ずかしい限りである。

■これで三家系はすべて親なし

 わたしの父が亡くなり、姉2人の家系と我が家の家系ともすべて両親が他界してしまった。もう、親関係のことで集まることも少なくなるだろう。やはり寂しい気持ちがする。父を神奈川の自宅に引き取り、介護をはじめてから、いろいろなことがあった。脳梗塞で倒れ、実家での一人暮らしが不可能になり、我が家に来てもらった。長男であるわたしが実家に帰ってくるのをひたすら待ち続けていた父であったが、「帰って来い」とは一言もいわなかった。そんな父に甘えて神奈川で教員生活を長々と続けてしまっていた。息子であるわたしが戻ってくる可能性などほとんどないことを父はわかっていたと思う。ただ、一代で築き上げた実家の跡を取ってくれることを望んでいたことは痛感していた。わたしは、それを承知で神奈川での生活を選んだ。故郷会津はわたしにとって生まれた土地ではあったが、住みたいと思える所ではなかったから。父には済まないことをしたといつも思っていた。その気持ちは、父のいなくなった今も同じだ。父が何もないところから作り上げた実家は、今は空き家になって田舎にある。実家の前には見事な三角錐をした会津磐梯山がすくっとさえぎるものなくそびえている。

 誰かの不幸があったとき以外は、親戚が集まることはそうはない。今回の葬儀でも普段なかなか会うことのできない人たちと再会できた。父はもう死んで、何も語らないのだが、この父を介して多くの人たちとの出会いがあった。これはじつに不思議な感じだった。父や母の兄弟姉妹たちは、そのほとんどが他界してしまい、わたしにとっては「いとこ」にあたる人たちの代になってしまい、その中には全く疎遠になってしまった人も多い。わたし自身はそれほど血縁をこだわるところはないのだが、ひさしぶりに会ったりすると、顔形、話し方などどことなく自分に似ているところが感じられ、やはり血のつながりというものはすごいものだなとおもったりもしている。

 子供の頃、親が死んでしまうということに相当の恐怖感を持っていたのを記憶している。それは、自分の存在がなくなってしまうというのに近い恐怖で、かなり深刻に悩んだことが長年つけている日記にも書いてある。今となってみれば、母を送り、そして父を送り、今度は本当に自分の番が回ってきたことを実感している。「死」に対するイメージもかなり変わったとおもうが、基本的には高校生頃までに考えたことと大差はない。それは、「死ねば、それで終わり」ということだ。残された遺族などにとってはいつまでも心に残しておきたい気持ちがあるのは当然であるが、死んでしまった人にとっては何も関係ない。ことばでは「あの世で幸せに…」などと言ったりはするが、そういう世界の存在をわたし自身は信じているわけではない。死ねば、肉体は分解して、また地球上の物質の一部に戻るだけだとおもっている。おそらく精神的なものもおなじであろう。だからといって悲しくおもったりはしていない。精神的な面は残された人たちの気持ちの中で生きつづけてゆくにちがいない。わたしの母も父もそうである。

■気が抜けて

 父の葬儀を終えて、会津から川崎に住む一番上の姉を車に乗せてもどってきた。車の中では父の思い出話が何度となく出た。父が好きで孫たちを連れて来ていた思い出のそば屋さんにも立ち寄って昼食をとった。あれから、2週間ほど経つが、じつはまだボーとしている。父に関するいろいろな事務的な仕事もあるのだが、どうにも気合ははいらない。1つの手続きを終えるごとに、父はこういう方面のこともやっていたのかと知り、ふと元気なときの顔や病院で寝ているときの顔、そして亡くなってすぐのまだあたたかい顔、火葬にふされる前の顔などが次々に思い出されてくるのだ。

 母が亡くなったときには、まだ仕事と子育ての忙しい時期であり、かなしみにふけっている暇はなかった。現在は、子供も手を離れ、時間があるせいかもしれない。父と過ごした時間を無意識に振り返っているような感じである。姉たちも同じようなことを言っていたから、やはりこれが父が最後にわれわれに残して行ったものなのだろう。ゆっくりと父との思い出に浸ろうとおもう。仕事に集中しているときには、そんなこともないから、影響はないはずだ。仕事を終えて、ふとしたときにそうなるというだけだから。

 いい人生ってどういうのかはわたしにはわからない。ただ、有名人でもなんでもないごくふつうの人間が、こうしていろいろな人たちの心の中に何かを残して旅立ってゆくというのは、すごいことだなと感じ始めている。肩書きにも何にもとらわれずに、ただ、自分のささやかな人生を全うして逝った父を尊敬している。今は気が抜けてしまっており、何だか抜け殻みたいになってしまっているが、きっとまた気合も出てくるだろう。それが、父への最高の供養になると自分ではおもっている。すばらしい生き方を見せてくれた父に感謝している。

 2003/05/11(日) 17:09

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