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学校教育に関する本・本…


■やっぱり教員だもんなー、少しは…

 友人の佐々木君にはまた笑われてしまいそうですが、このところ、自分の仕事でもある(学校)教育に関する本を読みふけってしまいました。私はふだん「教育関係」の本はほとんど読みません。ところが、最近それらの本をかなり読んでしまったのです。なぜか?は自分でもよくわかりません。時勢がらもきっとあるのでしょう。

・竹内洋『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』中央公論新社
・苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書
・宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書
・堤清二/橋爪大三郎『選択・責任・連帯の教育改革』岩波ブックレットNO.471
・堤清二+橋爪大三郎『選択・責任・連帯の教育改革【完全版】』勁草書房
・河上亮一『学校崩壊』草思社
・和田秀樹『学力崩壊』PHP出版
・喜入克『高校が崩壊する』草思社
・岡部恒治/戸瀬信之/西村和雄『分数ができない大学生』東洋経済新報社
・和田秀樹/西村和雄/戸瀬信之『算数軽視が学力を崩壊させる』講談社
・和田秀樹『受験勉強は子どもを救う』河出書房新社
・森口朗『偏差値は子どもを救う』草思社
・中山治『中学生のための「個性別」超勉強法』洋泉社
・中山治『高校生のための「個性別」超勉強法』洋泉社
・中山治『あせらない・あせらせない受験の本』洋泉社
・野口悠紀雄『「超」勉強法』講談社文庫
・市川伸一vs.和田秀樹『学力危機』河出書房新社
・百瀬昭次『百瀬昭次の大学受験を自分の味方にする本』旺文社
・桑田昭三『偏差値の秘密』徳間文庫
・竹内洋『立身出世主義』NHKライブラリー
・小浜逸郎『先生の現象学』世織書房
・諏訪哲二『「管理教育」のすすめ』洋泉社
・ピーター・サックス 後藤将之訳『恐るべきお子さま大学生たち』草思社
・大森不二雄『「ゆとり教育」亡国論』PHP
・川成洋『大学崩壊!』宝島社新書
・高島哲夫・小篠弘志『塾を学校に』宝島社新書
・小原秀雄『教育は人間をつくれるか』農文協
・河上亮一『プロ教師の生き方』洋泉社
・河上亮一『教育改革国民会議で何が論じられたか』草思社
・藤田英典『教育改革』岩波新書
・山住正己『日本教育小史』岩波新書
・小宮山博仁『塾の力』文春新書    などなど

 これらの本の中にはかなり以前に読んだものを再度読み返したものもあります。単行本で読んでいたのが、文庫本になったので、手軽さを考え買いなおしたものもあります。本の寿命は短く「教育改革」などのブームが去れば、自然に姿を消してしまうものが大半なので、本屋で見つけたときにはできるかぎりその場で購入しておいたものを、ランダムに読み進めてみたのです。まだ、他にも読んでいる本もありますが、ここ2〜3ヶ月間に読んだものをリストアップしてみました。ここにこれらの本を上げたのは「これだけの本を読んでいます。」と自慢するつもりではありません。読んだといってももう読んだ先から、内容を忘れてしまっているものもあり、とても「読んでわかった」→「実際にその知識を活用できる」とかいうレベルではないからです。この種の本がたくさんでており、それらはお互い同士矛盾するような内容になっているものも多く、とてもまとめきれる内容ではないと感じたのが精一杯でした。

 それでもこうして書き並べてみると、それなりの冊数になっていました。読んで関連性をもたせるというようなこともしていませんから、読後の感想というほどのものはありません。ただ「学校教育」に関することだけでもじつにいろいろな考え方があり、とても一つの範疇に納めることはできないなーとおもいました。私自身と似た考え方をしているものもあれば、まったく反対の考えもありました。本を読んだからといって、急にそれを自分が変わるということはまずありませんし、賢くなれるわけでもないことは自分をみても、当然わかります。おそらく、何百冊の本を読んだとて同じことでしょう。自分の知識や経験と比較して吟味して、その中で少しでも自分で実践できるものを取捨選択するしかないのが現実です。自分にできることなど、自分が考えている以上に少ないものだといつも感じています。しかし、教育ではそういうムダを経ることなく何かをなすことはできないと私は考えています。「効率」を重視することは大切なことですが、教育を「効率」で計ろうとするときっと多くのジレンマに陥ること必至です。教育自体がかなり矛盾を含んだ営みだからです。

■勉強法もこれだけちがう

 勉強法についてもその方法の元になった考え方を遡っていくと、そこには著者の教育観や人生観や経験などが厳然とあります。そして、それが著者の勉強法にも大きく影響しているように感じました。その著者の考え方(思想といってもいい)と方法論は当然のことながら密接に結びついているのもはっきりとわかります。面白いのは、どうも本の著者の学歴をみると「東大系」「慶応系」「京大系」「旧東京教育大(現筑波大)系」「その他の大学系」などの系列に分けられるようです。さらに、系列ごとに主張する内容がある程度パタン化しているのにも気づきます。私の感じた印象では勉強法に関しても、
・「東大系」→「解法暗記重視型」
・「京大系」→「思考(自分で考える)重視型」
・「慶応系」→「東大反発型」
・「旧東京教育大(現筑波大)系」→「生真面目型」
・「その他の大学系」→「一匹狼型」
のようなパタンがあるようです。著者がどれだけ意識しているかはわかりませんし、読者である私の主観は当然入っています。ですから、どれがいいとかは一概に言えません。というより、どうも人によって向き・不向きがあって、だれにでも通用するような万能の勉強法などない、というごくふつうの結論を確認するだけになってしまいました。私もそうですが、自分のやってきた勉強法を無意識のうちにいいものだと考えがちですが、自分で実践している内はいいのですが、他の人にすすめるときは十分な注意が必要であることは、わかっていただけるとおもいます。

■教育論も花盛り

 教育論に関しては、最近の「学校崩壊」「学力崩壊」などをメインに据えた議論を読んだわけですが、毎日職場で感じる「崩壊感」とはかなりのズレが感じられました。現場ではもう「崩壊」などという段階はとっくに終わり、私の勤務する公立底辺校などでは、ほとんどの職員が「託児所のつもりで勤務している」とはっきり公言しています。もう教育などする場所ではなくて、ただ決まった時間、身体の大きな(好き放題に飛び回っていますが…)乳幼児を預かっているというのが現実になっています。たしかに、私の勤務する高校の生徒たちが、社会に居場所もなくてたむろしておれば、社会治安上も大きな問題になるでしょう。表現は良くないですが、どこかに隔離しておく必要があるのは、ちょっと考えればわかります(じつはこの発言を実際に警察の方が発言するのを聞いたことがあります)。「託児所だ」という発言の意味がわかっていただけるでしょうか?「教育」などというきれい事はこのレベルの高校ではとっくの昔に終わってしまっていることなのです。「教育??」「ご冗談でしょう…」というのが日常のふつうの会話になってしまっているのです。「教育にたずさわる者がそんな考えでいいのか?」とご立腹の方がかならずいるのですが、そうカッカしないで、現実はそうなんだ、ということをまず確認しておくことが大切でしょう。出発はすべてここからなのです。

 小学校・中学校でそれぞれ少数派ながら存在して、学校をあるいは学級を「崩壊」に導いたような生徒たちが、大挙して押しかけるのが、首都圏では公立の普通科底辺校です。入試と言っても形ばかりの試験を受けて、5教科各50点満点中、各教科1桁というような生徒、しかも内申点もほとんどオール1というような生徒が集まってくるのですから、想像を絶するものがあります。これらの生徒たちを相手に毎日授業をしていると、一体この生徒たちは学校へ何をしに来ているのか?と絶えず疑問がおこってしまうのは当り前です。学校教育に対するいろいろな提言なども読んだり聞いたりしますが、その前に一度でもいいからこういう現場に数ヶ月来て実際に生徒を指導してみてから意見を言ってほしいとおもうです。自分にできそうもないことを余り偉そうに言っていると誰にも馬鹿にされるのはどの世界でも同じです。

 それに、こういうことは余り口にする教員はいないのですが、このような学校で勤務していても、別に特別手当でも出るわけではないのです。ほとんど問題のない上位の高校に勤務する教員となんら待遇的には同じなのです。私は商売人の息子ですから金銭にはちとうるさいのですが、これらの学校の教員には現在の3倍位の給料を出してしかるべきだと考えています。これは、当然の主張です。家庭で持て余している連中を半日以上も面倒みているのですから(社会治安上でも貢献しているとして)、これはごく当り前の主張であると考えます。昔から文部省(現在は文部科学省)もその金魚の糞みたいな各県教委なども、教員の給料についてはケチることばかり考えて、いかに安上がりの方策ばかり取ってきたことか!今の給料を3倍にすれば、若くて優秀で粘りのある諸君が教員に喜んでなってくれるとおもいます。「教育は国家100年の計」とか口では言いながら、全く安上がりに済まそうとばかりしてきた行政にはホント腹が立ちます。

 教育については、誰でも一言いうことはたやすいのです。日本国民なら、義務教育という小学校・中学校の経験は誰でもあるからです。しかし、自分の受けた教育の観点だけから議論する傾向が強くて、とても辟易しています。

 学校は国公立・私立を問わず、組織として成り立っています。その中には教員という仕事柄からすると不適切(?)なことをしでかす者もたしかにいます。しかし、圧倒的多数の教員は黙々と仕事をしていることは間違いないことです。学校という制度そのものに問題のある点も多々あることは、言うまでもないことです。塾関係者から「塾を学校に」などの主張が行われていますが、これとて、実際に塾が学校に変われば、そう時間が立たないうちに今の学校と同じような問題を抱えることは明白です。なぜなら、今の塾が成り立っているのは、学校という大きな制度に対するアンチテーゼ(対立概念)としての意味があるからです。塾が制度としての学校と同じになったら、ただ「学校」という言葉が「塾」と変わっただけに終ってしまうでしょう。制度として組み込まれたが最後、その組織は守りの体制に入ってしまうことは今までの歴史が示していることです。きつい言い方かもしれませんが、塾や予備校や私学の先生方が必死で仕事をしているとしたら、それは身分が保障されていないという不安がそうさせているのだと考えます。もし、それが取り払われたら、それらの先生方も今の国公立の学校の教員と同じような状態になることは大いに予想できます。その、国公立の学校の教員とて、もう身分が保障されるというような時代ではなくなっているのです。学校制度にもいつかは終わりがくるでしょう。現段階では、学校と塾・予備校との関係は相補的になっていると考えています。お互いの勢力分布はその時代背景で変わるでしょう。塾や予備校の教師が「われわれのほうが実力が上だぞ!」と学校の教師を批判してもそれはあまり説得力がありません。受験に必要な学力をつけるための授業をしている公立などの学校は地方の進学校などを除くとほとんどないからです。それに、塾や予備校の教師の中でも本当に実力のある人は2割もいないでしょう。これは、学校においても同じことです。良い教師はどんなところにもいるし、それと同じように悪い教師もどこにでもいるのです。

■教育の本は面白くない…

 私は公立の高校で教えている関係で、教育関連の冊子や白書類などもよく目にするのですが、読んでみて一番面白くないのが教育の本です。著者はほとんど「まじめすぎるくらいまじめ」で、教育のことを真剣に論じています。それが、返って面白さをなくしているように感じています。教育ってそんなに深刻に論じないといけないものなのかな、といつも疑問におもうのです。教員の免許を取るために、大学で学んだ「教育心理学」とか「教職教養」などで使われた本は、私には興味が沸きませんでした。でも、本屋さんで独りでに手にとって読んだ本には面白いものがありました。

 私には教育の本を読むよりも、他の分野の本を読んでいるときのほうが、「これって、まさしく教育の問題だよな」と感じることのほうが多いような気がしています。つまり、わざわざ教育の本などと銘打たなくても教育の本は書けるということです。おそらくそれらの著者は自分が教育の本を書いているとは全く考えていないとおもうのですが、そこが成功している理由でしょう。これは考えてみるまでもなく、私たちの日常生活はどんなことをしていてもほとんどが教育に関係していることがらなのですから当然といえば当然ですね。意識はしていなくても、人に教えたり教えられたり、それこそが教育そのものなのでしょう。学校という組織の中で学ぶことなど、それらに較べたら実に限られた内容のものが多いのです。

 これほど多くの教育関係の本が出ていることは、別な観点からみると、いろいろな場面で行われている教育という営みがうまく機能していないことを示しているとおもいます。これは、教育を制度化したことによる避けられない結果ではないかと考えています。制度化すれば、それは当り前のことになり、まだ未成熟の頃の新鮮さは失われてしまうものです。何事も「当たり前」と見なされるようになると、もうそこには気だるい日常の感覚しか感じとれなくなってしまうものです。本当はその中に次への変化の芽が絶えず潜んでいることに気づくことなく…。

■教育に定説はない

 教育学という学問分野には定説はあるのでしょうが、教育の現場(学校教育にかぎらず)には定説はないと私は考えています。それはいろいろな言い分(言説)が限りなくあることからも判断できるとおもいます。私にはそれぞれの著者が自分の経験談を披露し合っているというのが現在の状況ではないか、とおもえるのです。

 科学や技術などの変化はじつに速いものです。しかし、人間自体の変化は非常にゆっくりしているように感じられます。たしかに、目に見える生活一般の変化は目まぐるしいほどです。でも、人間の内面はそれについて行っているのでしょうか。5000年ほど昔のエジプトのヒエログラフの中には、自分の息子に役人になるように説得している官吏の文章があるそうです。今でも世界中でおなじようなことを子どもに言ってきかせている親は多いことでしょう。論語なども今もって読まれています。教育というのは、まことに不思議な世界だとつくづく感じています。

 最後に私の教育に関する好きなことばは、軍人ではありましたが、日本海軍の大将であった山本五十六の言ったことばです。「して見せて、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらなきゃ人は動かぬ」というものです。これは、私の尊敬するゼロ戦エースパイロットの坂井三郎氏(2000年9月22日に亡くなられた)の『大空のサムライ』光人社の中で紹介されていることばです。まさに教育の本質をズバッと表現したものです。これを読んだときにはあまりのすばらしさに絶句してしまいました。私の教育現場での指針はまさにこのことばに尽きています。これを絶えずおもい出しながら、仕事をし、反省をしていると言っても過言ではないでしょう。

 教育に定説はありません。しかし、それでも私たちは教育を止めるわけにはいかないのです。人間が人間として生きているかぎりは…。

 2001/04/08(日) 11:38 新入生を迎えて記す

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