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子供は(?の)天才


■面談の日々

 2学期もきょうで終わり。きょうは長かった2学期も終る最後の日である。まだシーンとしている校内(2001/12/21(金) 07:55)も、あと40分もすると生徒が登校してきて、終業式、それにつづくいつもの光景…通知表…があり、生徒は帰宅して1/7まで(関東では)の冬休みにはいる。がしかし、これは普通の生徒の場合である。私の担当している1学年では総勢219名(すでに20名近くが退学)のうち、何と90名近くが成績不振者(いわゆる赤点保有者)のため、校長・担任との面談がまだまだつづいている。私のクラスもその例にもれず、すでに1週間も毎日保護者を交えた「三者面談」をつづけている。
クラスの半分の生徒が赤点保有者という悲惨な状況に正直なさけない気持ちでいる。

 呼ばれる親御さんも大変だが、呼ぶほうもデータ(出欠記録・成績データ)などを揃える作業に追われる。その間をぬって、退学・転学する生徒の書類を作ったり、通知表の作成をしたりと、それこそ「師走」のことわざ通りのてんてこ舞いの日々になる。校長の面談は、担任が作った資料に目を通しながら10分ほど説諭するだけのものであるが、担任はそのあとのフォローがあるので、せいぜい1日に2人くらいしかできない。校長の面談を受ける1年生の生徒だけで40名前後になる。それ以外に担任との面談をする生徒がいるから、休み前は本当に憂鬱である。休みになれば、休めるかといえば、生徒指導要録(1学年担任はこの時期に書きはじめる)の記入があるので、なんだかんだといって学校へ出勤して仕事になる。

■教員の本音

 そんな忙しない日々のつづく中で、先日「学警連だより」というパンフレットが配布され、いつもならすぐに捨ててしまう私であるが、同僚でもあり私が尊敬する江成先生(生徒指導部主任)のかかれた文章をその中に見つけ、この手のパンフではめずらしくじっくり読んでみた。本人を目の前にして読むのも少し変な感じであるが、「本当にここに書いてある通りですね。それに文章がじつに明快ですね。」と私にしてはこれまためずらしく賞賛してしまった。そこで、それをみなさんにも読んでいただこうとここに本人の承諾を得て、載せることにした。

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         ”子供は天才”
                     神奈川県立A高等学校 江成 光行

 最近、他校の先生方と雑談する機会がありました。その中で、気になる話がでましたので、その中身を2、3挙げ、子供を教育するということについて思うところを述べたいと思います。

 一つめは、喫煙している生徒に、君がタバコを吸っていることを親は知っているのかと尋ねたところ「中学から吸っているし、親も知っています。親には、あまり吸いすぎるなと注意されています。」と答えたそうです。そこで、保護者に喫煙の事実を話すと、「うちの子供がタバコを吸っていたなんて全く知りませんでした。今後は注意をしていきます。」と言われたそうです。
このやり取りは、何なのでしょうか。

 二つめは、些細なことから、職員の眼前で暴力をふるい、相手の生徒に傷を負わせてしまった生徒の保護者に、状況説明をしたところ、「うちの子供は、腕を振ったのがたまたま当たっただけだと言っている。こんなことは暴力でも何でもない。まして、唇を切ったぐらいで何だって言うの。」さらに、「子供同士では、このくらいのことはいくらでもあることで、大げさに騒ぐことはない。」と言われたそうです。
事実を受け入れようとしないしない、この姿勢は何なのでしょうか。

 三つめは、家は出ているが学校には来ない日が多い生徒がいて、心配した担任が、「無断欠席をしないこと。今の状況が続くと進級が難しくなりますよ。」と指導するとともに保護者にも説明したところ「先生が進級できなくなるよ。なんて事を言うから子供が学校へ行かなくなったのだ。」と言われたそうです。
我が子の生活実態を真正面から見ようとしない姿勢。何なのでしょうか。

 その他、生徒自身が起こした問題を、自身が認めない。さらに、そのことについても自己責任を取ろうとしない生徒の増加など諸々のことがでてきました。

 いつからこんなになってしまったんだろう等と話していたところ、ある先生が、HRで生徒に「将来、自分はどんな親になりたいか」とのアンケートをとったところ、次のようなことが書かれていましたとのこと。

(1)子供への過剰な期待をしない。
(2)子供が悪いことをしたときは、ハッキリ叱る。
(3)仲の良い夫婦でいたい。


 これら生徒の答えと、話題に出た状況の間には大きな関係があると同時に、多くの問題行動の根が、その辺にあるように思います。

 青少年の健全育成が声高らかに叫ばれ、様々な機関が連携を取り合うことは大事なことでもあります。しかし、保護・育成に大きく関わるべき親自身が、もう一度真剣に自分自身を見つめ直すとともに、まず、自分の子供の教育に自信と責任を持って、関わらない限り、多くの問題行動をはじめ今の状況は何一つ変わらないのではないでしょうか。
 
 最後に、私たちは「子供は家庭(親)の雰囲気をかぎ分ける天才である」このことをもう一度、深く受け止めて行く必要性があるではないかと私は思います。

 相模原市学校警察連絡協議会編「学警連だより 平成13年度第2号」より
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 私はこれを読んで、さすがに日々学校現場で生徒指導に工夫されている江成先生だけに絵空事でない現実のようすをきちんと捉えておられると共感した。ここに書かれていることは公立・私立、小中高を問わず、現場にいれば日常的に見られる光景だからだ。私も人の子、また子を持つ親としても、自戒の念をこめてこの文章をしっかり刻み込んで自分の子ども、クラスの生徒・親に処していきたいと考えている。

 こういう本音を親に面と向って言える教員も本当に減っている。本音を言っても返って逆手に取られて、逆恨みを買うのが関の山なので、建前だけで言うことが多くなっているのだ。裁判などに訴えられたときにも、教員の本音は返って「人権弁護士」などのあら捜しの対象になってしまうため、管理職なども「言ったこと、電話したことなどはきちんとメモを残すようにしましょう。」などというようになってしまっているのだ。裁判になったときのことまで、気にしながら教育の仕事をするなんて、もう教育のレベルなどではなくなってしまったのである。私もこんなことを書いているといつか彼らの餌食になるのではと考えてしまうが、まあ生きているうちは考えていることを言っておきたいという気持ちのほうが強い。

■子供は(?の)天才

 子供というか、生徒といったほうがいいか、毎日我が子と他人様の子供を見ていると、「こいつら本当に…か」と思うことが多い。世の中にはいろんな人がいるから、「子供は無限の可能性をもっている」みたいな夢みたいなことをいう人もいれば、私のように「所詮、人間の可能性など高が知れている」などと平気で言ってしまうものもいる。子供についても古今東西、いろんなことが言われているが、「子供が子供として社会的に認識されてきた」のはそれほど古いわけではない。これまた、近代といわれる時代になってはじめてその存在が語られはじめたようなのだ。もちろん、子供のいない時代はなかったし、生き物としてはいたのだが、その存在が社会的に認知されたのは比較的新しい出来事だったように思う。1693年に出版されたジョン・ロック『教育に関する考察』岩波文庫などを読んでみると、子供はこの時代の少し前に「発見」されたと言ってもいいのかもしれない。私は教育史を専門にしているわけでもなく、この辺のことはくわしくはしらないけれど、少なくとも「子供」を大人といわれる人間たちが話題にし始めたのはそう古いことではないとはいえそうだ。

 さて、その子供であるが、これがまあ本当に「(?の)天才」なのかは疑問である。実例をあげるとこんなことが最近あった。学期末が近づき、成績不振で学校から親に面談の電話が入ると考えたある生徒が、親への電話が入らないようにこっそり電話線のジャックをはずしておいた、というのがあった。何度電話をしてもさっぱりつながらず、結果的には、その生徒のおじさん経由で親に連絡がゆき、電話線がはずされていたことがわかった。さっそく母親のほうから担任に連絡があり面談になったのだが、「悪知恵」というか、「ずる賢さ」というか、こういう点に関しては子供はまさに天才肌である。私自身の子供時代を振り返っても、たしかにこういう点は中年になった現在よりあの当時のほうがよほど優れていたように思う。しかし、これをもって「悪知恵の天才」ともいえまい。自己防衛にすぐれているかもしれないが、けっこうすぐにボロが出てしまうような浅知恵でもある。緻密な計画性が欠如しているのだ。それで、返って大人は混乱するため、相当な知恵をもっているように錯覚してしまうのかもしれない。それと、子供は雑念さえなければ、相当な集中力をもっている。これは、雑念の多くなる大人とはちがう点である。しかし、自分の好きなこと以外にはこれまた非常に移り気である。そこを集中させながら、何かをやらせていかねばならない点が教育ではむずかしいところでもある。

 いつか書こうとしていて、書きそびれたことがある。それは、「子供一人一人には、有限の時間と可能性しかない。しかし、大勢の子供たちを集めれば、そこそこの可能性はある。」ということ。当たり前なことかも知れないが、職場でも「生徒の可能性をつぶさぬように…」などと歯の浮いたようなことを毎度聞かされていて辟易しているためか、もう教員になった頃から思っていることだ。そんな簡単に潰れるようなものは、才能でも可能性でもないと私は考えている。生徒の才能や可能性を見出せることなど、それこそ一生のうちで何度もあるはずがない。万が一、見つけたとしても私たちにできることは、それを伸ばしたり教え込んだりすることより、見守るしかないのではと私は思う。それぞれの子供にある程度の可能性はあるだろうが、私自身にはそれを見抜く能力があるとは到底思えないのだ。すべての教員にそのような「伯楽」的才能を求めるとしたら、それはあまりに無知というものだろう。中国のことわざにもあるように「名馬は常にありて、伯楽は常には有らず」というではないか。この点で現代人が中国の古人たちより優れているとはとても思えないのだが、いかがでしょうか?

 話はあらぬ方向へどんどん行きそうなので、もう終わりにしたい。最後に、今の子供たちについていろいろなことが言われているが(やれ学力崩壊だとか生きる力がないなど…)、私はそんなことを乗り越えて、彼らは私たちが想像すらできない世界を作ってゆくだろうことは不思議なほど確信をもって信じている。現実の世界ではいつの時代にも未来を予言できるようなことを言う人はいるものだが、それらはことごとくはずれていると思う。未来は誰にもわからない。思い切っていえば、それは神様でもわからない。一寸先は闇である。しかし、だからこそ、希望を持って私たちは生きられるのではないかと思う。(ここでは、自然科学の話はしませんが…)

 2001/12/23(日) 19:48

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