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殺し文句(その2)


■生徒がつかう殺し文句

 先日のこと、いつものように男子生徒用のトイレを使って用を足していると、2年生の男子生徒が「先生はなんでこのトイレを使うの?」と聞いてきました。ぼくは、別段何の意味のなく、ただ物理準備室に一番近いから使っているだけなのですが、ちょっと反応をみるために「トイレでタバコを吸っている生徒が多いので、その巡回に来ているんだよ。」と答えてみました。すると、予想したように「先生は、生徒を信じていないんだね…」というではありませんか。思わず笑いの出るのをこらえながら、「それじゃ、君は教員を信じているの?」と逆に聞きかえしました。その生徒は、言葉につまったようで、そのまま逃げるようにトイレを去って行きました。この生徒も一応教員を脅かす「殺し文句」を知っていたようです。

 広島大学だったか忘れましたが、そこの教授の新堀通也氏が『殺し文句の研究』という面白い本を書いており、読んだことがあります。そこには、主に教育関係で使われる「殺し文句」の研究が述べられてあったのですが、教員→生徒・保護者への「殺し文句」が主として取り上げてあったように記憶しています。しかし、現在では時勢も変わり、生徒・保護者→教員への「殺し文句」が相当に増えているように感じます。

 おもしろいのは、生徒などほとんど信じてもいない教員が生徒から「先生、俺たちのこと信じていないんだね?」などと言われると、「いやそんなことはないよ…」などと慌てふためいて答えてしまうことです。私など「まったく信じていないね。だって、君たちも私のことなど信じてはいないだろう。他人にだけそういうことを強要するのはいけないよ…」などと平気で言ってしまうのですが、こういうのは教育の現場ではあまり推奨できることではないようなのです。一応ポーズだけでも取ることが大切なのでしょう。

 私など管理職からも「言葉がちょっときついのでは…?」などと注意を受けたこともあるのですが、遠慮して腹をふくらませているよりは「言いたいことは生きているうちに」と考えているので、私の真意ができるかぎり伝わるように話すようにはしています。もちろん、相手の気持ちを傷つけるようなことは配慮していますが、口数が多いだけ失敗も多いのはいうまでもありません。「行動をしない者に失敗はない」というではありませんか?失敗したら素直に謝ることを励行すればそれでいいとおもうのです。私の言ったことなど、1ヶ月も覚えている人などそうはいないはずです。1年も覚えていてくれたら、それが私の失敗であってもそれはむしろ嬉しいことですね。

 話がそれてしまいましたが、「生徒を信じる」とはどういうことでしょう?生徒自身や父兄からも出てくる言葉なので、考えてみました。私たち教員は、学校という施設の中で教育活動をおこなっています。生徒は毎年数百名ずつ入れ替わって行きます。その中で、クラスを担当すれば、30〜40名の生徒と毎日顔を合わせることになります。私は今年は1年生の担任ですから、クラスの生徒の名前や顔は全員覚えました。そして、毎日学校生活のようすを見ていると、その生徒の性格やら行動もある程度理解できるようになります。しかし、これはあくまでも学校の中での姿であり、彼らの一部分を見ているにすぎません。「氷山の一角を見ている」だけと言っていいでしょう。これ以上でもないし、これ以下でもありません。こういう状況の中で、「生徒を信じる(信頼する)」ことなどできるのか、私には疑問です。それに、生徒に限らず「人を信じる」のは、それほど容易なことではないはずです。自分自身ですらよくわからないときが多いのに、そんな簡単に人を信じたりできるのでしょうか?私には「少しだけ生徒を信頼している」程度のことしか言えません。

 「教育には先生と生徒の信頼関係が大切である」とか、まことしやかに語られています。教育評論家の人たちの本などにもよくこの文句がのっています。でも、こんなことは教育の現場だけでなく、人間が活動しているところならどこでも当り前のことです。こういうことが言われるということは、裏を返せば、「教育という現場ではいかに信頼関係などというのは成り立たないか」ということです。私など「生徒を信頼してないと、本当に教育はできないのだろうか?」と疑問のほうが多いのです。顔も名前もましてや性格などほとんど知る機会もない大勢の生徒をなぜ信頼しないといけないのか?そんなことが本当に可能なのか?言っている人に確認したい気持ちです。そんな「絵空事」のようなことを言っている暇があったら、自分の「できる範囲の教育を」というごくふつうのことを実践したいと考えます。
 (記:ここまでは、前任校で書いておいたものです)

■なぜ教員は「殺し文句」に弱い傾向があるのか?

 教員の言動は矛盾に満ちています。自分で経験もしたこともないことやよく理解していないこともさもわかっているような「振り」をして生徒や父兄に話すことが実に多いのです。本人が意識しているかどうかには関係なく、そういうことを求められていることを肌で感じているためについそのように演技してしまうのでしょう。そう、教員の言動の80%は20%の真実しか含んでいないのです。「演技している」と言ってもいいのかもしれません。そういう演技をすることを上からも下からも求められていることも事実なのです。自分の主義主張とちがうことでも生徒に教えなければならないときもあるのです。

 このことが「殺し文句」に弱い教員の背景にあると思うのです。自分で本心から思っていることとは違うことを日常したり、言ったりしているのです。これではどうしても「後ろめたさ」を感じざるを得ないでしょう。本音で生徒や保護者と対峙しているわけではないのです。その点を見抜いている生徒や保護者はこれはという場面で「先生だって本当はそうは思っていないのでしょう…」という言葉の代わりに「殺し文句」で突いてくるのではとないでしょうか?

 こういう馬鹿げたことを止めるには、「本音での教育」をするのが一番いいのですが、もやは社会の一大制度になった学校という組織の中では無理かもしれません。管理職や教員だけでなく、学校の元締めでもある「文科省」でさえ、本音で何かをしたり言ったりすることはまず絶対にやらないのです。みんなが何かを恐れているのです。下手に本心を言ったりしたら、どこから叩かれるかわからない時代になってしまっていたのです。私たちも、現場では頻繁にそういう指導(学校組織の内部のことを外部で話したりしないよう)を受けています。これは、個人情報を漏らすというような明らかに公務員としての「守秘義務」を守る次元とは違うものです。

 「殺し文句」は「おどし」でもあります。私たちの周囲を見渡しても至る所に「おどし」はあふれています。「高校ぐらい出てないと云々」というものから保険会社の宣伝や各種のコマーシャルなどなど、もう1日中が「おどし」のオンパレードです。脅しに負けないだけの知力や体力や経験をきちんと持っている人はそうは多くないはずです。みんなどこかに「弱み」を持っているからです。

 失うものなど何もなく、「おどし」など笑って流せるようになったときに、本音での教育もできるのかもしれません。そんな時代がいつか来るなどという理想を私自身はもってはいませんが、私自身が心がけていることが一つだけあります。それは、「この与えられた環境の中で1日1日を本音で精一杯生きる」ということです。ときには、他人からは誤解されることもあるでしょう。友人を失ったり、大損をしたりすることもあるかもしれません。でも、いいのです。生物学的には一度しかない、この人生。何があるかわかりませんが、自分でできる範囲で精一杯生きることはできるのではと楽観的に考えるように努めています。

 2002/06/22(土) 09:48

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