TopPage


教師の高齢化


■教師の高齢化

 公立の学校に若い先生がめっきり減ってきた。というより、若い先生が入って来ない。年を経るごとに現役の教員は年をとってゆき、もうどの職場も40代半ばくらいが平均年齢になってきている。そのためか、職員室に活気がない。みんな訳知り顔をした教員だけが多くなり面白くない。前任校もそうだったし、今度転勤した学校も同じだ。若い教員がいれば、それだけで職員室に活気がもどる。中高年のベテランも若い教員がいてはじめて、その存在価値がでてくる。職員の人間関係にもバランスが取れてくる。今は、どんどん歳をとるだけの中高年の職員だけで職員室があふれている。これは、小中高のどこでも同じであると思う。その中の一人として自分もいる。

 そんな考えをもっていろいろくだらんことを考えていたときに、インターネットの産経新聞のサイトで『悪問だらけの大学入試』集英社新書を書かれた河合塾顧問の丹羽健夫氏が「正論」というコーナーで「教員の高齢化」に伴う諸問題について書いておられたのが目に留まった。そこで、早速テキスト部分だけ保存してゆっくり何度も読んでみた。「なるほどなー…」と共感することが多かった。自分に照らし合わせてみると、思い当たることも多く、反省することしきりだった。著作権にうるさい人にはすぐに怒られるだろうが、その文章が現在もサイトで読めるかどうかわからないので(今調べてみたらもう見当たらなかった2002/09/15(日) 12:34)、ちょっと長いけれど全文引用させてもらうことにした。
なお、この論説は、2001年末から2002年の初めにかけて書かれたものだと思われる。

<以下引用>

■正論 丹羽 健夫氏
--------------------------------------------------------------------------------
河合塾顧問 河合文化教育研究所長
教員養成系大学を蘇生する道は?
学校は若い先生をもっと採用せよ

《無視できない先生の高齢化》

 学校で教えてもらう先生の年齢は何歳ぐらいがいいのかは、なかなか難しい。年配の先生には長年にわたって積み上げた経験と技があるだろうし、若い先生には年配の先生には少なくなったエネルギーがあるからだ。学校というところは両者の長所短所がほどよく入り交じってこそ、よい場や雰囲気が醸し出されるのだと思う。

 ところがいま小中高の学校でこのバランスが崩れている。小学校を例に取ると平均年齢は四十五歳を超している。何歳を若い先生といっていいかは判らないが、仮に四十歳で線を引くとすると四十歳より若い先生は、多分全体の三分の一くらいで、三分の二が四十歳以上の先生で占められているはずだ。はずだというのは、三年ごとの文部科学省統計から類推してという意味だ。二十代の先生となると一割に満たない。このことは運動会などに行けば一目瞭然(りょうぜん)である。

 なぜこうなったかというと、子供の数が減ったので若い先生を近年ほとんど採用していないから、一年ごとに音を立てて高齢化していくのだ。ちなみに昨今どのぐらいの数の若い先生が誕生しているかというと、ここ一、二年増加しているとはいうものの平成十三年度の場合、小学校では現職教員四〇万七〇〇〇名に対し教員の採用数は一%台の五〇〇〇名強である。これはあくまで全国平均であって都道府県ごとの較差はあるが、二万四〇〇〇近い小学校の数を考えればルーキー正規教員ゼロの小学校が圧倒的に多いはずである。

《若い人に魅力のない理由》

 ここで学校の先生の平均年齢うんぬんとは別の問題が発生している。教員養成系大学学部の問題である。国立の教員養成系大学学部は、いま各都道府県に必ずひとつはあるが、ここを卒業しても念願の教員になれる確率はきわめて低い。平成十三年度の例では全国の教員養成系大学学部の卒業者一万四六〇〇名中、小中高などの教員に採用された人数は三七・七%の約五五〇〇名(うち小学校は約二五〇〇名)に過ぎない。しかも正規採用は卒業者の一三%である。これは看板に対して詐欺だといわれても仕方のない数字であろう。

 このような状況の中で当然のことであるが、教員養成系大学学部はいまや大学志願者からほとんど見捨てられてしまっているのだ。ひとつの例でいえば大学入試のペーパーテストの難易度を、学部系統ごとに平均するとトップが医学部で、体育・芸術系を除くとどんじりが教員養成系なのだ。もちろん教員養成系大学学部を志望する子のなかには成績優秀な子もいれば、教師という職業に熱い想いをもっている子もいっぱいいる。

 しかしこの事実はほかの理由もあるにせよ、教員養成系大学学部に受験生が背をむけてしまったことを強く物語っていると思う。これからの日本の教育を担う若者を育てるはずの教員養成系大学学部が、かくも若い人に魅力の乏しい存在であっていいものであろうか。

《同世代感覚やオーラの前に》

 そこで申し上げたいのは、公私を問わず小中高の学校現場に若い人をもっと採用せよということである。理由のひとつは危機的な状況にある教員養成系大学学部を、再び若者に魅力ある進学先として蘇生(そせい)させるために。そしてふたつ目は現状の教育現場の先生の年齢構成は不自然であり、これを是正するためである。

 つらい話であるが予備校で先生方をみていると、一般論として年齢とともに生徒による授業評価の満足度は落ちていく。つまり人気がなくなっていく。はたからみていても、学識、スキルは積み重なり情熱はいやまさりに優っているとおもわれるのに、年齢とともに人気が低下するのだ。

 この現象を論理的に説明できる根拠は今のところない。しかし経験的に言えば若い人のもっている、溢れんばかりの同世代感覚やオーラの前に押されてしまうと言えようか。そしてこの同世代感覚やオーラが教師にあるかないかは、生徒の学習意欲と大いに関係があるように思われる。

 再度言う。予算や仕組みの問題もあるであろうが、この国の次世代のことを真剣に考えるならば、若い先生のしかるべき数をただちに採用すべきであると。

 これら教員および教員養成系大学学部の抱える諸問題、再編・統合問題も視野に入れて、私どもは三月二十五日に文部科学省関係者、教員養成系大学学部関係者等を招いて、全国約二十カ所を結んだサテライトシンポジウムを開催する。未来に向かっての実りある果実を期待して。(にわ たけお)


<以上引用終わり>

■中高年の教員として

 私自身がすでに教育現場で働く教員の平均年齢を超えてしまい、丹羽氏が指摘するように若い頃のようなオーラはなくなっているのだろうと自覚はしている。しかし、不思議なもので、自分ではそれほど歳をとったという実感が仕事をしていると感じていないのである。自分のことは自分自身では返って見えないのかもしれない。実験装置を作ったりすることがおっくうになったとか、黒板に書く字の筆圧が落ちたとか、声が出づらくなったとか、それなりに自覚できることはあるが、「まだまだこれからだ」というような気持ちが正直なところある。ただ、教えられている生徒から見ればどう見えるか?にはちょっと自信はない。「生徒による教員の勤務評定」みたいなものがあれば、おそらく落第点をいただき、明日から即刻リタイアの憂き目をみるのかもしれない。

 私が教員になったばかりの頃は(中学校へ赴任したが)、年配の人、仕事バリバリの中年の人、ちょっと年上の先輩の人、そして私のような新人がそれとはなくうまい配分で職場におり、いろいろな人間関係も含めて大いに勉強になった。毎晩のようにある飲み会(夜の職員会議と称していた)は、社会人になった証でもあり、仕事の張りにもつながっていたように思う。教員としてというより、教育という仕事をする社会人として先輩たちも私たちを育ててくれていたように、今にして思い出される。授業の仕方、板書の仕方、説明の仕方、クラス経営の仕方などわからないときは、すぐに相談できる先輩たちが身近にいたし、それが当たり前だと当時は思っていた。あの当時の先輩たちが、病に倒れ、この世を去るという衝撃を何度も体験するようになった。気がつくともう私自身がその先輩たちが私を新人として迎えたような年代を越してしまっていた。

 いつの頃からか、若い新人の先生が来なくなった。私の年代より10歳ほど若くなると急激に正教員がいなくなっていた。たまに若い先生が入ってくると本当に背中の向こうが輝いているように感じることもあった。生徒たちも若い先生が好きである。どんなに技術的に未熟であっても、そんなことは生徒には関係ない。生徒が好きで、懸命に仕事をする若い教員はそれだけで生徒たちにはよき先輩なのである。年数をかければ、教育の仕事もそれなりに上手になるものである。しかし、それと反比例して若さのエネルギーは失われていく。何でもかまわずにやってしまうあの止めようのないエネルギーを。おそらく、この失われるエネルギーの代償として、技術やテクニックが身につくのかもしれない。

 今や教育現場でも、現職研修が盛んである。いつでもいつでも研修でゆっくり飲みにゆく暇も金もない。人間50歳もすぎれば、いくら研修を強化してもそうそう勉強になり、身につくというものでもない。それよりは、若い同僚と飲みにでも行ったほうがいい勉強になると思うのだが、こうも若い教員がいないのではそれもかなわない。本当に珍しいくらいに稀に新採用で来る若い教員がいても、「昼間の」研修が多すぎて、夜など先輩たちとのんびり付き合ってなどいられない。それに彼らは教育界のエリートなのである。放っておいても同年齢の教員は少ない。未来の校長は決まってしまっているみたいなものである。こんな風になってしまったのは、一体だれに責任があるのだろうか?

 教員は現在余っているそうだ。だから若い教員を採用しないのだそうだ。欧米など先進国では、1クラスの定員は20名以下にすることを目標にして、実際にその方向で政策も組まれているとのこと。わが国では、法律で建前上は1クラス40名としている。それをもとに教員の人数が決まる。この1クラス40名として計算すると、教員は余っているという。少子化で生徒も減ってきているといわれるが、この40名は変わらない。空き教室と余剰教員が増えてゆく。しかし、しかしである、1クラス20名以下にすれば、何も新しく学校など作り直さなくても、空き教室も余った教員もいなくなり、さらに教員は足りなくなるから若い教員が必要になってくる。これは、夢物語ではなく、いずれそうなる日は来ると思う。しかし、時期を失すると、とんでもないことになる。若い教員を指導すべき先輩教員がいないのである。またまたそれも、「研修」で?

 その他ごちゃごちゃいろんなことを考えたが、何か八つ当たりしているみたいで自分でも情けなくなるので、もう止める。最後に若い教員を新採用でとるのに、それほど費用がかかるのだろうか?例えばであるが、1人1年で1000万円として、2万人採用すると2000億円である。ちなみにこれがどれくらいのお金かというと、村上龍『あの金で何が買えたか』小学館によれば、バブルの漬けとして富士銀行に投入された公的資金が1兆円であることと比較されたい。知人の話によれば、この銀行はこれだけの公的資金(ようは税金)を国から恵んでもらったということ。そして、ここの銀行員はこの不況にもかかわらずかなりの高給を取り、けっこうな生活をしているらしい…という。世の中不思議なことも多いものである。

 以上、丹羽氏の論説を読んでの感想でした。

 2002/09/15(日) 15:20

■ 前のページへ ■ 次のページへ ■ メニューへ ■ TopPageへ