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入試のミスは当たり前?


■高校の入試ミスから大学の入試ミスへ

 先日の山形大学での入試合否判定ミスにはじまり、富山大学、金沢大学、関東学院大へと入試をめぐるミスのニュースが新聞紙上をにぎわしている。神奈川県でも昨年の公立高校入試で合否のミスがあり、県教委から公立の全高校へ入試をめぐるミスのないようにとの通達や具体的な指示が何度も出され、現場の教員はヘトヘトの状態で入試を終えたところである。現場で働いているものとしては、「こんなことは昔からあることで、何を今になって大騒ぎをしているのかな?」と疑問すら感じている。決してそんなことがあってもいいとかはおもわないけれど、完璧を求める傾向が度を越しているというのが私の偽らざる印象である。

 コンピュータを使った完璧な入試システムであるはずであったが、人間の側のプログラム上のミスとかで、責任のなすりあいまでおこっているとのこと、何とも滑稽である。入試の制度そのものが煩雑になれば、それを処理するためのコンピュータシステムのプログラムも煩雑になることは容易に推測できたと考えられるのだが、いかんせんやるのは人間である。ミスは当然予想されるものと考え、それに対処していなかったのは、情けない話である。(「人間はマヌケである」というディルバートの法則がおもい出される)

 あまりに厳密に合格者の人数を切るのではなく、ボーダーライン近くにある程度の幅をもたせ、ひとまずその周辺にいる受験生を合格にしてみてはどうだろうか?大学に入れておいて、1学期あるいは前期の成績具合を見て、正式に合格にする案である(キックアウト制の変形)。入口をあまりに厳格にすることへの疑問もある。この案にしても、結局どこで切るかの問題で、大学に入れてから付いて来れないものを切ることになるのだが、はたして大学の教員がそういうことができるほど能力があるのかは疑問を残している。

 大学や一部の私立高校などで入試の解答を公表していないのは、あまり声高にいわれていないが、不思議なことである。公立高校などでは新聞まで使って正解を公表して、それがもとでいろんな不祥事をまねいてもいるのだが、国立の大学にはじまり、私立大学、私立高校のかなりの部分で入試問題の正解が公表されていない。公立高校の入試で見られるような批判があらかじめ出ることを予想して、実施していないのではないかと勘ぐられても仕方がないだろう。おそらく問題を作成している立場の人間も何パタンもかんがえられる解答をすべて知った上で問題を作っているわけではないだろう。いわゆる「模範解答」というのは、出題者が解答したものではなく、予備校や参考書の著者が解答したもので解答の中の1つにすぎないのが現実である。出題者自身が自分の作った問題に正解ができないことも現実にあり、この手の問題をより複雑にしている。

■ミスはどうやってもおこる

 私は現場で毎年入試の採点をするが、当然のことながら正解にすべきところを×にしたり、その逆をしたりとミスをする。それを防止するために、何回も別の人が見直しをする。私も他の人が採点したあとに見直しをする。何と、2001年の2月の入試では、採点をサインペンの色を変えて3度ほど、見直しは6〜7回ほどあり、計10回前後の作業をした。しかしである、それでもミスはあるのだ。やればやるほどミスはなくなると考えている人は、甘い。人はだれでもマヌケなのである。前の人が○をつけていれば、流れ作業の中ではそれを無意識に信じてしまう傾向があるものなのだ。ここでも、「ミスが少なくなればなるほど、さらなるミスを見つけるには莫大なエネルギーを必要として、実際はそれほど成果はあがらない」という収穫逓減の法則は厳然として働いている。ましてや、人間が作業をすれば、疲労からくるミスも重なる。こうして、ミスはどの学校でも皆無ではない。

 それでは、機械をつかって(まあこの時代だから、バーコードリーダーとコンピュータを利用したマークセンス法あたりがふつうだろが・・・)やれば、こういうミスは防げるのではと考える人も多いだろう。これが、なかなかどうして曲者なのだ。バーコードの下に数字や記号が書いてあるのは、ご存知だろう。あれは、何か?レーザー光線や赤外線を使ったバーコード読み取りにしても、完全ではないので、もし読み取りに失敗したときには人間がその数字や記号を手で入力するものなのだ。ということは、この入力でミスをすれば、またミスの発生である。センター試験などで利用されているマークセンス法はいかにも完璧に見えるが、何十万人という受験生のカード読み取りの中には確率的にミスがおこっていて当然である。

 ミスは実はおこって当然なのである。ある量を正確に測ろうとすればするほど、その確率的なミスの発生は必然になってくる。何事も誤差を見越して対処するのが一番なのである。マスコミなどに見られるように、ちょっと採点ミスなどがあると「鬼の首でも取ったように」大騒ぎするのは、数学アレルギーのある文型記者の典型だろう。ミスを少なくするのは大切なことであるが、「人間はミスをするものなのだ」という当たり前の常識をもう少し取り戻してほしいものである。そのために、ミスを見越したある程度の安全装置(入試ならボーダーラインを広く取るなど)が必要なのである。

■ミスはあっても人は進む

 毎年のように入試のミスが取り上げられて大騒ぎをするが、それでも人間はどんどん進んでいく。入試でミスがあると日本の歴史でも変わるというのだろうか?そんなことはありえない。私は現在の日本の入試(いろいろなタイプがあるが、ここでは通常のペーパーテストを念頭におく)は概ね間違ってはいないとかんがえている。社会に存在する若い知性の吸い上げにはほぼ成功しているとおもっている。高校中退者が増加しているとか、大学生の学力が落ちているとか、いろいろ言われているが、ほとんどの若者が高校まで進学して、さらに4割近くの若者が大学へ進学しているのだ。全体的な平均値が下がるのは当然である。世界的にみてもこんな国は珍しいほうに入る。世界の大勢を冷静に見れば、いかに日本の現状はトンデモナイことになっているのがわかるはずである。そういう視点でみれば、高校の中退者などはむしろ少ないくらいで、もっと厳しくしてもいいほどなのである。

 入り口としての入試でのミスは必ずおこる。それに該当してしまった人の救済は必要だろうが、それは大勢には影響はない。こんなことをいうと、「いやカオス理論的には最初の微小な変動がその後の動きに大きく影響することがある」などと反論する人もいるかもしれない。しかし、拡大解釈は何とでもできる。このような議論ではそれは該当しないだろう。はっきり言って入試での合否ミスは日本に学校制度ができて以来絶えたことはないだろう。それでも、大枠では大きな取りこぼしはなかったとおもう。何かこの日本には「何でも皆が真剣に取り組めば、ミスはおこらない」というような共同幻想が撒き散らされているようで、実に怖い。

 ミスを生かして次へのフィードバックとするのは大切なことである。しかし、ミスを糾弾することばかりが横行して、「なぜミスが構造的におこるのか?」を真剣に見直そうとしない態勢こそ、問題なのである。ミスは一部の人間の怠慢でおこるのではないのだ。最後に、付け加えておくが、私たち公立高校の教員が「入試の採点」を行うのは、別に仕事の一環ではなくて、あくまでも県がやらなければならないことを代行してやっているボランティアであることを明記しておきたい。本来は、県(県教委)が自分たちで実施すべきものを各高校が代行してやっているにすぎない。金は出し渋るのに、ミスがあると現場を責めることばかりしている行政はこのことをほとんどわかっていない。おそらく入試の意味もほとんど理解してはいないのだろうが・・・。

 2001/10/14(日) 08:21

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