TopPage


理科系・文科系への疑問


 C.P.スノーの『二つの文化と科学革命』みすず書房にも指摘されているように、すでに前世紀(20世紀)はじめ頃より、二つの「文化」への分断がはじまっていた。

 理科系と文科系にどんなちがいがあるのだろう?文科系では一般に母国語をそのままつかい文章を読んだり書いたりすることが多い。すなわち、ふつうにある一定のレベルまでの母国語が理解できれば、あとは専門的な用語を覚えていけば、勉強はできる。つまり、日本語なら日本語をしっかり学んでいれば、あとは理解の程度に応じた勉強(ある人には楽しみかもしれないが…)をつづけていける。議論の中身もどちらかといえば(数理系経済学などは別として)「定性的(数量的な議論は除いて)」な理解の方法をとっているとかんがえられる。

 これに対して理科系では、「定性的議論」+「定量的議論」が必要とされている。母国語で議論したことをいったん「数式(記号)→数学の演算」というフィルターにかけて記号化してさらに議論をすすめる。このために、どうしても「数学」という記号体系の勉強が必要になる。つまり、母国語で議論されている内容を数学記号におきかえる翻訳のような作業をすることになる。数学というものはそれだけを学ぶにもなかなか大変な時間と労力を必要とするものである。求められているのは、その数学を学ぶだけでなく、さらにそれを使いこなすことである。そうなると、より多くの学習と修練がどうしてもさけられないものになる。理科系でもつい最近までは生物学などは比較的に数学を使うことがすくなかったが、もう時代は変わって数学なしではやっていけない。さらに理科系の文章は科学自体の無国籍性から外国語(現在では特に英語)で表現されることが多く、英語の習得も求められているのが現状である(科学論文のほとんどは英語で書かれている)。

 中学・高校段階でも理科系へのおおきな障壁になっているのが「数学」である。それまで、母国語をつかった定性的な話ですんでいるうちは理科に興味を示していた生徒が、数学(化学式などの記号一般をもちいるものもこれに含めると)が顔を出し始めるやいなや「理科嫌い」がふえていくのも理由のあることのように思える。やむを得ないこととはいえ、数学が科学の抽象性を急激に高めてしまうのである。徐々に慣れてゆくのを待つのではなく、強引に科学を数式の世界へと導いてしまってはいないかと危惧している。この「数学重視」の現在の理科のありかたには、フランスのピエール=ジル・ド・ジェンヌ氏(1991年度ノーベル物理学賞受賞)の『科学は冒険!』講談社ブルーバックスにもその弊害が述べられているが、わたしも同感である。数学は大切であるが、あまりにそれを重視しすぎるのもどうか?という疑問をいつも感じている。

 定量的な議論をしたいがための数学の利用が、「理科系」と「文科系」の線引きに使われているのが実態である。これは、わたしが高校生のときもそうだっし、現在でも「理科系」=「数学」の構図をみても変わっていないことがわかる。これでは、せっかくの数学の良さも半減してしまうようで、情けない。たしかに論理的な思考に数学が大きな力を発揮するのは理解できるが、数学なしでは論理的な思考ができないというわけではないのである。理科系では数学ができるにこしたことはないが、数学が「理科系」「文科系」の線引きの役目までするとなると、少し度がすぎるのではないかと私はかんがえている。ちなみに試験での点数が取れる取れないは別にして、数学が大好きであると自分でも思っているわたしも、数学で理科系を諦めかけたことが何度かある。高校までの数学にあまりに重きを置きすぎているように感じているのは、わたしだけではないはずである。

 きょうも、2年生・3年生の物理の授業で、数式を取り扱う議論をした。彼らがこれらの数式に飲み込まれて沈没しないように、できうる限り物理的な観点を前面に出して数式を1つ1つ確認しながら進めていったが、はたしてその辺の呼吸を生徒たちが理解してくれたかは自信がない。彼らはほとんどは理工系の大学や専門学校を志望している生徒たちであるが、たとえ進路先が変わったとしても、物理をいつまでも好きでいてくれればと願いながら授業をしている。本音を言えば、わたしは物理の授業は自分の弟子たちに教える(相互に学ぶ)つもりでやっている。生徒に教えるという気持ちで授業をするのと、弟子を作るという気持ちで授業をするのでは全くちがう心構えになる。一人一人が自分の弟子なのだとおもうと、下手な知ったかぶりや手抜きはできない。これは、わたしのようにズボラな人間にとっては気を引き締める上でもいい方法であるとおもっている。いくら努力したつもりでも、わたしの能力の限界があるので、うまく指導できないことも多い。生徒たちには申し訳ないが、限界を素直に認めることも大切かなと自分では考えている。

 高校生くらいの年齢では、学ぼうとおもえば、何でも学べるのではないか。「自分は理科系」とか「ぼくは文科系」とかあまり決め込まないで、広く深く学んでほしい。よく「深い井戸を掘ると地下水に当たる」とかの比喩で、専門化を早めることをいう人がいるが、わたしはその考えには与しない。狭い穴では深くは掘れない(原油の採掘はパイプで深く掘るようだが、原油溜めは地下水のようにつながってはいない)。できれば、広い大きな穴を掘り進めながら、そのうち気に入った穴があれば、そこから深く掘り進めるのがベターであろう。どんなに学んでも、いずれ必ずその人の能力の壁に突き当たる。そのときに、広く学んでいたことがきっと「やっていてよかった」と実感できるはずである。現在の高校生もきっとできると信じている。歳をとっても学ぶことはできるが、気力の充実している若いときは、それをはじめるにはもっともいい時期なのである。高校生のたちの頑張りに期待したい。

 2003/05/29(木) 17:11

■ 前のページへ ■ 次のページへ ■ メニューへ ■ TopPageへ