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教師も理数はお嫌い


■先生方も理数はお嫌い

 現在の職場に、この4月に8名の教師が転勤してきた。どなたも立派そうな人たちで、あまり積極的に仕事に精出していないわたしなどから見ると、とても経験者(といっても現任校2年目なのだが…)面をしてどうこう言えそうにない。じつは、まだそれらの人たちとは、親しく話をしたことがないため、名前と顔が一致しなくて困っている。わたしの生来の不精癖から、きちんと名前をおぼえようとしないことも原因していると多少反省もしている。

 もう、きょうが1学期の終わりで、終業式である(この文を書きだした日)。このまま、名前と顔が一致しないで今学期が終わってしまうのかなとおもっていた。今朝出勤すると、生徒の新聞委員会が出している「**高校新聞」というのが、机の上に配布してあった。第75号である。その後ろのページを見たら、今年度転勤されてきた8名の方の写真と名前とインタビューした内容が載っていたので、「これは、名前を覚えるのにいいや」とさっそくプロフィールをじっくり読ませていただいた。教科は国語が3名、社会が2名、体育1名、音楽1名、英語1名だった。今年度理科は1名削減で、新しい人は来なかったため、とうとう5名になってしまった。現在の職場では、数学5名、理科5名でともに教員数の少ない教科になってしまっている。

 新聞の中でのインタビュー項目に「嫌いな教科は?」というのがあり、8名中6名の方が理数をあげていた。文系の先生方が主なので、それは仕方ない。しかし、理科の中でも「物理」と名指しであげていた方が3名おられたのには、何とも身のすくむおもいがした。おそらく高校のときの印象がよくなかったのだろうかと推測し、同じ科目を教えている身としてはなぜか申し訳ないような気がした。それに、この高校はほとんど「文科系(体育系?)高校」なので、理数教科は肩身がせまい。おそらく、今年度転勤されてきた方々が特別であるという理由は見当たらないから、現在、職員全体にアンケートしても、ほぼ同じような結果がでるだろうことは、十分予想できる。みなさん、高校まではほとんど有名な進学校に在籍されていた方が多いので、数学やら理科などもきちんと勉強されてきたとおもう。その結果が、「理数嫌い」になってしまっている。何とも申し訳ないやら複雑な気持ちである。

 神奈川県だけに限らず、特定の進学校を除けば、多くの高校で理数教科は衰退の一途を辿っている。わたしの勤務する高校でも、その例は免れない。化学は今年度までは全員必修の科目になっているので、それなりに現状を維持できているが、ほとんど自由選択科目に近い「物理」などはほぼ全滅である。数学なども自由選択科目にしたら、おそらく壊滅状態になるだろう。同じような選択制(アラカルト方式という)にして大きな失敗をした80年代のアメリカでは、現在ではこの方式を止めて、きちんと数学や物理を勉強させるようにしていると聞く。わたしも、以前は「物理など好きなものがやればいいのだから、選択制でいいよ。」とおもっていた。が、どうも現在の生徒たちを見ていると、むずかしいものにアタックするという克己心があまりに感じられない。放っておいても物理や数学が好きな生徒はいるだろうとおもっていたら、そうではなかった。易きほうへ易きほうへと流れるだけのようだ。

 じつは、わたしが高校生の頃だって、本当はそうだったのだとおもう。やらなければいけないので、仕方なくやっていたというが実態だとおもう。でも、それでも若いときにそういう好きでもない教科に触れておくというのは大切なのではないか、と最近おもうようになった。現代の社会では、もう文系だの理系だのといっていられる状態ではなくなっているからだ。わたし自身、高校の頃もっと文学やら歴史などをきちんと勉強しておくんだったと反省する毎日である。先生の大半が嫌いな科目は生徒も嫌いになるというのは、当たり前のことかもしれない。科目とともに、それを教えている教員(わたしなど)も嫌われているのかな、とちょっと不安になる。何といっても人間は「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」となりがち。おそらくそうなのだろうと、すでに諦めの境地になっている。

■日本は文科(化?)国

 わが国は、昔も今も文科系の人たちが国を支配する国である。だから、「文科国」といっていい。不思議なもので、日本が長らくお手本にしていたお隣の大国「中国」では、現在、国の指導者層の8割は理科系の人間である。もちろん欧米でも、指導者層の理科系の割合は相当に高い。わが日本の指導者層(あのお偉い政治家さんたちがこの国を指導しているとは本当に実感できないのだが)では、その8割ほどは文科系の人たちである。理科系の人間がそれらの指導者層に入れないように、ちゃんとシステム上のしかけもしてある。これは、近代国家になったといわれている明治のはじめからの「お約束」である。法を重んじる法治国家としては、法(人間が作った法律)にくわしいものが、国の指導をしてゆこうという方針のようだ。だから、技術に長けた人は職人やエンジニアに、科学理論などにくわしい人は研究者へと区分けはされてゆくが、その人たちが国を引っ張ってゆくという土壌はとうとう生まれずにここまで来てしまった。テレビなどでは、未だにそういう憂き目にあっている人たちのリビドー(欲求不満)をガス抜きするかのように「プロジェクトX」などと称して、それらの人たちの機嫌をとっている。

 国自体が「文科国」なのに、その後継者である若者に「理数系の勉強をしっかりやれ」というのも、おかしなものである。勉強したって、将来の道はたかが知れている。理数系のあることがらに「没頭できる人」は、そのことに喜びと充実感が得られるから、それはそれでいい。しかし、ほとんどの人間は、何かおいしそうだぞという予感が得られなければ、あえてそういうものを学ぶ動機はない。わたしは、政治的なものや文学的なことにはほとんど魅力を感じなかったためか、知らぬ間に理科系とよばれる分野に入ってしまっていた。もしかしてとおもい調べてみると、いわゆる理科系といわれる分野で仕事をしている人は、日本全体でも割合的には多くはない(統計を調べたらほぼ3割)。国の教育を担当する官庁が、もとは文部省であれ、名前を変えて文科省であれ、「文」が先で「理(科)」はあと。要は、社会の基盤(インフラ…infrastructure)の部分だけは「地上の星」などとおだててしっかりやらせておいて、甘い汁はしっかり文科の連中が吸うという構造になっているのであろう(中島みゆきは好きなので、別に責めているわけではないが…)。

 1つの国家として、しかも経済的には世界第2位の地位をもつこの国が、何とも不思議な構造で成り立っていることに多くの人は疑問すら感じていない。明日にでも、理科系の人間が全員揃って、仕事ボイコットに入ったら、一体この国は立ち行くのであろうか?ほとんど文句も言わずに、もくもくと仕事にいそしんでくれているこれらの人たちの上に、わが国の政治・経済・日常生活は成り立っているのではないのか。あまりに身贔屓な考えと笑う前に、わたしたちの身の回りを見れば、そこにはだれかの技術や科学知識によってできた品物であふれているはずである。そういう生活をしていながら、知りませんでしたとは、言えないだろう。分業は人間社会では当然であるが、かといって、不公平感を伴う制度はそう健全とはいえない。本音的にいえば、「もう少し、理科系の人を大切にしてください」ということである。ただ、大声でいえないのだが、理科系の人間は概して人間関係などが不得意な面もあるので、その辺は、少しずつでも改善してゆく必要はあるだろう。これは、わたし自身にも言えることであり、自戒の念を込めて書いておきたい。

■理科系の現状とわが国の将来(ちとおおげさ…)

 理科系といっても、細分化されたそれぞれの分野で、相当に雰囲気はことなる。それに、「理科系人間」というようなステレオタイプの人間がいるわけではない。一つの範疇におさまるようなことは決してない。だから、よく生徒の進路情報誌などに載っている「あなたの進路を判断します」のような記事を読むと、何となく笑ってしまう。ちなみにわたし自身がやってみると、どうも理科系には向いていないみたいで、さもありなんと妙になっとくしてしまう。あくまでも、わたしの身の回りにいる理科系の人たちを見ると、けっこう読書や趣味でも守備範囲は広い。小説や音楽や歴史などに懲りまくっている人もいる。文系の人たちは、ほとんどの場合「数学」が出てくるようなものは、本能的にか手に取らないようで、そういうアレルギーがない理科系の人間にとっては、どちらのものでも平気で対応することができる。文系の得意技とおもわれているような「英語」に関しても、理系ではちょっとした論文なりを書くときは、当然世界的に一般化している英語で書くのがふつうである。英語は道具であり、ちょっと深く専門的な分野を学ぼうとおもえば、英語でもドイツ語でもロシア語でも必要なものはどんどん身につけるしかないのが現状だ。日本語に翻訳されるのを待っていては、研究などできないからだ。中には苦手な人もいるだろうが、必要最低限の語学力は理系の人ならだれでももっていると、わたしはおもう。

 じつは、わが国だけがみたいな書き方をしたが、国際的にも理科系の人間は少数派である。それぞれの国の方針があるので、国によってかなりの温度差はあるが、概して理科系の人口はどの国でも少数派になっている。どうしてか?はわたしにもよくわからない。しかし、多くの人にとって不思議な自然現象などを見るのは驚きあり興味もわくが、それがどうしてか?と解明してゆく過程はそれほど簡単なことではないので、そういう段階になると興味を失ってしまうのかもしれない。「実験をたくさんして、その面白さを体験できれば、理科に興味をもってくれるのでは…」というような考えがあるが、どうもわたしにはこの視点はどこか実態からかけ離れているようにおもえて仕方ない。人はおもっているほど、何かを調べたがっているわけではないようにしか見えない。わたしもじつはそうなのだが、それでは実験して…とおもうことは、そうはない。できればやりたくない。本当にやれねばならないときだけ、仕方なくやる。実験や観測は本当に大変で、強い動機がないとつい不精になってしまうのだ。そして、それがふつうの人間のような気がする。立派な学者さんたちは、自分が小さいときから理(数)科少年だったというおもいがあるから、いろいろな実験や観察をしたりすると、みんなが「理科好き」になるとおもってしまうような傾向を感じる。現実は、そういう人間は少ない。これは洋の東西を問わない。

 今後、理科に限らず、理数の教員はますます減少してゆくとおもう。若い教員も理数を学んでいない人が増えてくる。教員ができないこと、好きでないことを生徒に教えることはできない。人に教えることはとてもむずかしい。「知らせる」→「説明する」→「教える」という流れでみると、「知らせる=他人が知るようにする」はまずまずできる。「説明する=相手がわかるように説き明かす」となるとほとんどの人はかなり大変になるだろう。「教える=相手の知らない知識・技術をわかりやすく説明し、それが身に付くようにしてやる」は相当に困難なことだろう。わたしも正直なところそれほど自信はない。科学の基礎からきちんと学び、それを確実に身に付けており、しかもはじめて学ぶ生徒たちに教えることのできるレベルまで持って行ける若者はどんどん減ってくるだろう。そのとき、日本の教育にどういうことがおこるのかは、不安がある。しかし、本当は心配などしても意味はないのかも知れない。どの時代でも、そんな教育が確実に行われたことなどないのだから。わたしたちにできることは、そのときの若者を信頼することだけだ。それらの若い教員に託すしかないのだ。こういう政策を考えた担当者は当然のことながら、知らぬ存ぜぬを決め込んで悠々自適の生活をしているだろうが…。その頃には、日本の行く末もおおよそその姿が判明しているだろう。

 最後に、物理を教えているものとして気になるデータを載せておきたい。これは、平成15年4月段階のものであるが、

平成14年度高卒者(平成15年3月卒業)約130万人
センター試験受験者         約56万人
理科受験者              約35万人
 化学TB受験者          約20万人
 生物TB受験者          約18万人
 物理TB受験者          約15万人
 地学TB受験者          約 2万人

となっている。これに各大学で行われる物理Uの範囲までの内容を加えると、おそらく、共通1次試験がはじまる以前なら、高校生全員が学んでいたレベルまでの内容まで勉強している現代の高校生は、全高校卒業生の1割を下回ることは確実である。これが個性化・多様性をうたい文句にしてアラカルト方式(生徒が自分で勝手に選択する方式)が生み出してきた結果である。ちなみに英語の受験者は55万人で、国語の53万人を抜いている。わが国の英語力を考えると明るい未来が見えてくるはずであるが、どうも現実はそうではないのはどうしてだろう?(現在ではわれわれの時代にはなかったリスニングもきちんと入っている!)。不思議な国である、わが日本は…。

 2003/09/11(木) 09:12

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