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瀬谷西高校での思い出 


■ようやく気持ちも落ち着いて

 生徒・学生に卒業があるように、教員には転勤という職場との別れがあります。私は1年ほど前(1999年3月)に神奈川県立瀬谷西高校に別れを告げ、現在勤務している神奈川県立新磯高校へ転勤してきました。前任校の瀬谷西高校には6年間在職しました。今振り返ってみると、本当に短く感じた6年間でした。しかし、この6年間の思い出は心にずっしりと詰まっているのを実感しているこの頃です。冷静に前任校を見れるようになった現在の気持ちを少し書いておきたいと思い、キーを叩くことにしました。

 なお、瀬谷西高校の卒業生であられる秦泉寺(じんぜんじ)さんが、とても充実した瀬谷西高校に関するHPを作っておられるので、学校のようすや在校生・卒業生の活動などについてはそちらのページを参考にしていただくと職員とはちがった角度から瀬谷西高校をご覧いだだけると思います。

■瀬谷西高校に転勤が決まる

 私は生来の性格のせいか、あまり「因縁」とか「見えない糸があるんだ」みたいな話はまず笑って受け流すほうですが、確かに奇遇というのはあるのかも知れないと感じたのが、瀬谷西高校へ転勤が決まったときです。

 平成5年(1993年)4月より、瀬谷西高校へ勤務することになりました。その前月までは学区がちがいますが、同じ横浜市内にある神奈川県立S高校というところに4年間勤務しました。大和市から現在の座間市の自宅に転居したため、通勤時間が2時間近くになってしまい、通勤がとても厳しい状況になっていました。そこでもう少し近い職場をと転勤希望を出したわけです。すぐに転勤が決まるとは予想していませんでした。ふつうは1・2年待ちなどよくあります。それに県内でも最底辺校であったその当時のS高校からそう簡単には転勤はできないだろうと半分は諦めていました(教員も人の子。だれもわざわざ苦労はわかっている高校へ転勤を希望する人はまずいませんから…)。

 その年の2月上旬に校長からお呼びがかかり、校長室に行きました。校長はすまなそうな顔で「申し訳ない。本当はこの学校で苦労していたのだから、もう少しレベルの高いところ(…この表現は、在校生・卒業生には不愉快なことは十分承知しながら使わせていただきます)を持って来れれば良かったのだけれど、ここでどうでしょうか?」と提示されたのが、瀬谷西高校でした。その名まえを聞いた途端、不思議なことに瀬谷西高校のあの森に囲まれ、こじんまりとした学校のようすが目に浮かびました。そして、何の不安もなく「行かせてもらいます。手続きをよろしくお願いします。」と即決で返事をしたのです。

■瀬谷西高校とのはじめての出会い

 それまでに私が瀬谷西高校へ行ったことがあるのは、1回だけです。それは、横浜市立の中学校へ勤務していた頃に生徒の入試事務(たしか内申書を届に行ったのかと思うのですが)のためでした。その当時もボロだった相鉄(相模鉄道)の瀬谷駅から、通称「海軍道路」を歩いて瀬谷西高校まで行ったように記憶しています。じつは、瀬谷西高校は私が教員生活をはじめたまさに同じ年に開校した高校でもあったのです。

 瀬谷西高校の学区内(横浜西部学区という)にある中学校へ私は初任教員として赴任しました(詳しくはこちらをどうぞ)。現在でも続いている「上飯田山岳会」はそこで生まれました。そして、これまた不思議なことに、その中学校もその年に開校したのです(本校から分かれて新しい中学校になった)。そのあと、もう1つの中学校へ勤務して、そこから神奈川の県立高校へ転出したのです(もちろん通常の筆記試験・面接ありで、まあ偶然に合格したのでしょう…これ本音)。しかし、この転出はほとんどいいことはありませんでした。転出先は県下でも有名な最底辺校で、しかも給料は横浜市と神奈川県の給料体系がちがうため下がってしまうなどさんざんな目にあってしまいました。授業の内容も中学校のほうがはるかに程度の高いことを教えていたので、「これじゃ、中学校にいたほうがよかった。」と何度も後悔しました。しかし、友人たちや中学の同僚にもこんなことは言えませんから、笑って「まあ、大変は大変ですね・・・」などと言葉を濁さざるを得ないこともたびたびでした。

 もう時効でしょうからはっきり言ってしまいますが、神奈川県立高校の4分の1ほどの下位レベル校はふつうの公立中学校より学力のレベルは低いのです。考えてみるまでもなく、入学時の学力はきれいに輪切りされています。これは、中学校の教員が意識的にしているわけではありません。教科の成績をつけるときに、相対評価をおこなうため、担当教員の意思とは関係なくおのずと成績がランク付けられるのです。このことに対して、ふつうは「そういう生徒ののランク付けはいかん」というような発言が一般市民のかたから出てきます。さらに面白いことに学校教育の元締めの文部省役人などからもあがってくるのです。文部省はそういう方針を立てて日本中の小・中学校へ命令を出しているのですから、話が「マッチ・ポンプ的」でおかしくなるのも当り前です。

 私は学力で生徒にランクをつけることはそれなりに合理的であると考えています。学校なのですから、「腕力」や「美貌」とか「友だち間の人気度」、あるいは「人間性の豊かさ」などというあまりに漠然としたもので生徒を評価するのには賛成できません。学校という制度のもとでは学力でランクをつけるのが理にかなっていると私は考えています。点数ばかりで生徒を判断してはいけない、などと批判がでると思うのですが、それでは代わりに「何を基準に」しますか?学力以外のものを基準にしたときに私たちはそれに耐えられるでしょうか?「門閥制度は親の仇である」とあれほど封建制と門閥制度を嫌った福澤諭吉の考えに私は共感を覚えます。本人の預かり知らぬ家柄や階級、さらには体力や気質などで学校の成績をつけられたら、たまったものではありません。そういう歴史を経ながらようやく学校では「学力で」評価する方式が根付いてきたのです。それを元にもどすことをお望みなのでしょうか?ランク付けそのものが間違っているという人がいると思いますが、ランク付けというのは「値踏み」または「選択」のことでもあります。この世に「値踏み」や「選択」をしないで生活できる人がいるのでしょうか?私には、そんなことは不可能にしか思えません。辛いことかもしれませんが、日々この「値踏み」や「選択」をしてさらに「ランク付け」をしながら私たちは生活しているのが実際の生活の姿でしょう。

 話がそれましたので、もとに戻します。上で述べたような高校でかなりの苦労を体験したせいか、瀬谷西高校へ校長面接(実際にこれでどうこうなるとかはないのですが…)に行ったのが1993年2月の入試の前後の頃ではなかったかと記憶しています。そのとき、海軍道路を歩く瀬谷西高校の生徒たちを見て、久しぶりに高校生にあったような変な感じをもったのを覚えています。同じ高校生とはいいながら毎日接していた高校生とは全く雰囲気が異なるのには驚きました。中学校に勤務していた頃に、何人もの生徒を瀬谷西高校へ送り出したのですが、私は過去のことはすぐに忘れてしまう欠点があり、どの生徒がどの高校へ進学したのかは卒業式が終わるとぺロッと忘れてしまうのです。ですから、中学の卒業生の同窓会などに呼ばれても、本当は誰がどの高校へ進学したのかなどは覚えていないことが多いのです。生徒諸君にはまことに申し訳ないのですが、教員とは目の前にいる生徒が仕事の相手なので、どうしても過去のことはどんどん忘れていかないと仕事にならない面があるのです。

■瀬谷西高校での生活

 瀬谷西高校へ勤めはじめると、自宅からは大変近くなりじつに助かりました。通勤地獄からも解放されました。それまで、自宅を1年を通して早朝の5時半に出ていたのが、7時頃に家を出ても8時前には高校へ着けるという具合に変わりました。生徒もおっとりとしていて、何がいいかと言って「身の危険を感じない」ことがもっとも気持ちの上で楽になりました。前任校のS高校では、ちょっと注意でもしようものなら、身の危険を本当に感じましたから。生徒の学力も前任校に較べたらはるかに高く、「日本語が通じる!」と感激したものです。職員室には机だけ置いて、通常は北棟2Fにある薄暗い「物理準備室」で仕事をすることになりました。すでに10年以上も瀬谷西高校で仕事をしているという丸子先生や地学の小山先生などと雑談にふけったり、ときおりは仕事が終わると軽く一杯などと「実験用アルコール(?)」をたしなんだりしました。

 瀬谷西高校での6年間で、理科T・化学TB・地学TA・物理TB・物理Uなどを担当しました。私の授業でどれだけ生徒さんたちのお役に立てたかは疑問ですが、自分としてはそれなりに全力を尽くしたと思っています。職員室が3階にあるあの変則的な校舎の内部。校舎のまわりを森で囲まれた独特の雰囲気。冬に底冷えのする立地条件。修学旅行で北海道の東部(阿寒湖を中心としたスキー旅行)を人なつっこいクラスの生徒たちと旅した思い出は今でも心地よい思い出として残っています。3年生のクラスも私にはとてもよい印象を与えてくれました。あの生徒たちと今度会えるのはいつになることかと楽しみにしています。ひょっとするともう会えないかも知れませんが、私としては悔いはありません。3年間私のクラスになってしまったちょっと不幸な(?)Aさん。彼女は自分の本当にやりたかったダンスの世界に入るために大学に進学してゆきました。彼女の踊る姿をいつかきっと見ることができると信じています。

 もっと長く勤めていたい、という気持ちもありましたが、年々職員も変わってゆき、私も自分自身で6年いたら転勤しようと一応は決めていましたから、その年月になったときに転勤希望を出しました。そうして、昨年(1999年4月)から現在の勤務校に移ったわけです。この転勤では、自分だけの寂しさも感じました。初任で教職に着き、高校に移っても横浜市内に勤めていたのですが、はじめて横浜市を離れ相模原市という私には未知の場所にある高校への転勤でしたから、相当な不安がありました。同じ神奈川県といっても横浜市内と県央地区とでは気風がかなりちがうのです。転勤してきてみて、確かに生徒も職員も雰囲気がかなりちがうことを日々感じています。一番ちがうのは、職員の居住地がほとんどこの勤務校周辺なのです。横浜では考えられないローカルさです。つまり「地の人」が多いのです。私のように地方から来て住みついた職員は意外に少ないのです。瀬谷西高校の職員は地方出身者がかなり多かったので、住み心地はよかったのですが、ここに移ってからは物理室で独りで仕事をしていることが多くなりました。もともと独りで生活するのは嫌いなほうではありませんから、自分で楽しみを見つけ、それなりに生活はしています。ただ、「どう?今夜あたり軽く一杯…」というような雰囲気はなくなったので、一抹のさびしさはあります。ここで、仕事をしていると本当に横浜が遠くに感じてしまうのです。何やかんや言われても私はやはり横浜が好きだったのだと痛切に感じているこの頃です。

 最後に、瀬谷西高校に勤務した者として、瀬谷西高校をいつまでも見守っていきたいと思っています。教員が好きでない学校を生徒が好きになることはまずないでしょう。学校とは建物のことではなくて、それを支える生徒・職員が目に見えない形で作り上げてゆくものだと考えます。私の出身高校も私が入学したときは、校舎が焼けて数年たったあとの木造の焼け残りでした。しかし、校舎のボロ具合とは関係なく、友人や先生方は良かったと今でも思っています。伝統のある男子の進学校でしたが、部活に勉強に自分なりに取り組めたし、友人たちともよくバカをやって遊びました。皆、中学校ではトップクラスの連中ですが、いろいろなタイプの人間がいて人間観察にも役立ちました。高校の中で働いているとつい自分の高校生時代のことを忘れて、偉そうに生徒に説教などすることがあるものです。でも、高校時代にそんなにまじめにやっていたなんてことはまずありえません。「現在の自分を精一杯生きる」ことしか、未来へ向かっての道はありません。在校生諸君にもぜひ高校時代にしかできないことを高校在学中に精一杯やっていってほしいと願っています。もう瀬谷西高校へゆく口実もなくなってしまった一職員としてできることはこれくらいでしょう。瀬谷西高校が統廃合などにならないで、いつまでの瀬谷区の片隅で静かな学園として存在していってほしいと心から願っています。

 2000/07/21(金) 06:46

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