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何か変だぞ、推薦入試!


■そもそも「推薦」とは?

 私のような中年世代には考えられなかったことが、マスコミなどでも騒がれずに静かに教育現場で進行している。それは、最初はとくに問題も少なく好意を持って見られていたのだが、次第にあいまいなまま利用されて事態を思わぬ方向に持って行きそうなレベルにまで進んでしまっている。

 それは、入試における「推薦制度」である。本来「推薦」とは「いいと思う人(物事)を他人に勧めること」(新明解国語辞典第五版:三省堂)のことである。「いい」と思わないことは推薦する必要もないし、また、安易に他人に勧めることなどできないとも解することができる。また、推薦するに当たっては、人物なり物事なりに推薦するに足るだけの根拠もなければ、他人には勧めることはできないであろうとも解することができる。つまり推薦する人もそれなりの責任を問われる可能性があるともいえる。

 過去を振り返っても仕方ないことだが、私の高校時代(昭和45年前後)にも「推薦」はあった。しかし、それは、ほとんど問題になるだけの人数もいなかったし、またそれを当てにしている生徒などもほとんどいなかったと今にして思う。本当に教師たちが人物なり学校成績なりが推薦に値するものと判断して、本人を呼んでそのことを相談してから推薦が決まっていた(同級生にも慶応大学に1人行った)。それ以外の生徒には、ごくふつうに厳しい入試が待っていたのが、当然のことだった。推薦を受けて入学した生徒も何か少しうしろめたさを感じているような雰囲気があったのが、その頃のことだった。入試を経ていないことが、その原因であることはまちがいないだろう。

 ところが、現在に至って、事はトンデモナイことになっている。そのことを大抵の一般人は「いいんじゃないの…」と問題にもしていないし、ましてくわしく知る由もない。それだけの問題意識を持っている人などほとんどいない現状である。何も昔を美化するつもりない。現在の大学入試や高校入試などがこうも変化していることを知って頂ければ幸いである。なお、私の勤務する高校は、ふつうには「中堅校」と言われるレベルであり、ここで書いてある内容は、進学校や底辺校では該当しないかもしれない。しかし、統計的には日本中で一番多いのは「中堅校」であると思われるので、あえて1つの例として書いておきたい。

■大学入試は「推薦」花盛り

 現在、高校では「推薦入試」のための書類作りに3年の担任は疲れきっている。私の勤務する高校だけではないことは、いろいろな情報筋から聞いており、おそらく全国的な規模でも同じであろう。何と、クラスの人数の3/4が推薦を受けるなどということは日常的になっている。大学・短大・専門学校が非常に安易に推薦を依頼してくるからだ。もちろん高校側が少しでも多くの生徒をそれらの学校へ送り出したいという願望の結果かもしれないが、できるだけ学生をスムースに確保したいという大学・短大・専門学校などの思惑と高校側の思いが一致してしまったために、ものすごい数の推薦がなされるようになってしまった。もう私立などでは、推薦で入学する割合が多すぎて(一応のパーセンテージは決まっているようだが、それにしては多すぎるのはなぜか?)、一般の受験で取る学生の数が激減している。旧帝大や国公立などは、まだかろうじて推薦枠が少ないので、事態はそこまで行っていないのだが、私学関係はもうどこもかしこも「推薦、推薦、…」というありさまである。

 そのために、上位レベルの大学を除くと、ほとんど「**推薦」というのがふつうになっており、担任のところには推薦書書きの仕事がどんどん来る事態になっている。「推薦」に足る生徒なら何も問題はない。それが現実には、学力もない、授業もきちんと受けていない、成績も悪い、などなど、以前なら考えられないような生徒たちが、堂々と推薦を受けようとしている。また、悪いことに、そういう生徒でも、大学は入学金目当てに合格させてしまう。生徒たちはこういう例を見ているために、推薦を受けて当たり前、みたいな風潮を作り出してしまった。「何であの生徒が推薦で…」というようなことが、どんどん起こっている。そして、推薦で合格すると、もう勉強などしない。卒業まで3ヶ月もあるのに、もう卒業した気持ちになってしまう。困ったことに、生徒の中には、推薦してもらうのが当たり前のような風潮があり、推薦書を書いてくれない教師を批判するような事態も実際に起きている。本当に推薦に値するような生徒を推薦することなどは少なくて、ほとんどデタラメな内容の推薦書とちょっと面接の練習をしただけの生徒でも合格してしまうことはじつに多い。そうやって入学した学生に対して「学力が落ちている」だの何だのと文句を言ってみても、そんなことは当たり前なのである。きちんとした入試(適切な入試問題で)もしないで、いい学生など取れるわけがない。

 このところ増える一方である大学などの推薦入試は、アメリカなどで行われている入試の形態を形だけまねて実施しているケースが多く、じつに安易である。高校側もそれは百も承知。だから、内容など何もない推薦書をどんどん書いて送り込むだけである。大体、1つの高校に推薦に値するような生徒がそんなに(私の勤務校では、じつに学年の半分!?)いるはずがないことなど、子どもでもわかる。何の取りえもないような生徒の推薦書に、あることないことを書き連ねる担任もじつに大変である。私も何度か経験したが、まさしく断腸の思いである。ウソを書くのだから…。それも教育用語では「生徒の可能性を信じて…生徒の不利益になることはできるだけ書かないで…」とか言いつつ行われる。はっきり言って、現在行われている推薦入試は、すべてとはいわないが、その大半は「茶番劇」である。多くの時間を使ってじつに無駄なことをしていると言わざるを得ない。面接を形だけして、実際には高校から来る調査書の成績で合格を決めているのが実態だろう。このような推薦入試がつづくことは、私にはとても不愉快なことである。もっともこういう制度にいいも悪いもないだろうとは思うが(おそらく需要と供給の関係だろうから…)、ふつうに考えれば、何か変だぞ!?という気持ちが起こっても当然である。

 いまや、その推薦に伴う「面接の練習」に私も借り出され、昼休みも落ち着いて取れない状況になっている。中堅校だけの現状かもしれないが、一般入試(ごくふつうの入試)で頑張って突破するという気概を持った生徒の何と少ないことか、情けない。生徒の多面性を見て…などともっともらしいことが言われているが、実際に行われているような短時間の面接などで多面性などがわかるとは、とうてい思えない。本気でやるなら、大学内などに推薦入試専門の部署を作り、長い時間をかけて地道に生徒の発掘をするくらいの覚悟でやってほしいものである。

■高校入試も「推薦」導入狂想曲

 困ったことに、この大学等での推薦入試が高校入試でも拡大しつつある。私の勤務する高校でも、来年(2003年)の1月には、これが実施される。公務員の守秘義務という法律があるので推薦入試の詳細については書くことはできないが、大学のケースとほとんど変わらないとでも言っておきたい。生徒の減少が叫ばれているせいか、公立でも早めにできのいい生徒を確保しておきたいというのが、本音である。来年の1月の推薦入試はまだ県下一斉というわけではないが、県下165校中145校ほどで実施されるからもう態勢は決まったようなものである。それでか、再来年の入試からは推薦入試が全校で実施される予定になっている。公立は何でも右に倣えだから、困ったものだ。これで、「特色ある学校作りを」などと県教委がお題目を唱えているのだから何ともおかしい。あれほど宣伝していた「複数志願制」については、もう知らんぷりをしている。何の反省もなく、次の制度に移行していくのは国の行政とほぼ同じ構造になっている。

 この推薦入試が入ってくる関係で、入試関連の仕事が12月から3月までの4ヶ月もつづくことになる。私は入試選抜委員会のPC担当になっており(転勤してきたらもう決まっていた??)、入試に関するパソコン業務はほとんどやる。現在の入試制度はこのパソコン業務と密接な関係になっており(データ通信や受検データの加工など)、パソコンなしではできないようなしくみになっている。だから、その仕事に当たるのはだれもがあまり好まない。好まないから、できるだけ選択の余地のない者(転勤者がそれに該当するのだろう)に自動的に回ってくることになっている。しかし、考えてみれば、転勤してきたばかりの人にその学校の未来を握る生徒の選抜作業の大事な部分をいとも簡単に任せてしまう状態は、私立では考えられないだろう。公立の高校にしてできる人選と言える。私は文句を言っても仕方ないし、パソコンの操作なら多少はできる方なので、ま、やってみるかと講習会にも出かけてきた。だから、私にとってはもう入試ははじまっている。推薦入試が入ってきたために、煩雑な仕事がさらに増えて、ストレスは溜まる一方である。と言ってもデータの処理等が主な仕事なので、それほど心配はしていない。一番のストレスは操作ミスをしないように気をつけなければならないことだけ。これは、ミスの多い私にとってはなかなかの難題である。でも、他のメンバーと協力して乗り切りたいと思っている。

 問題なのは、何で推薦で選抜をするのかの意味が私にはよくわからないこと。推薦といってもほとんど内申点で決まってしまうものだし、ほんの付け足しで「面接」なども行うが、わずか数分のやり取りで、生徒の何がわかるかなどの問題点も多い。面接のマニュアルで質問項目は決められており(面接に当たる教員によって差が出ないようにするため、という理由)、臨機応変に質問を変えることなどは厳禁である。これでは差がつくはずもないので、やはり最終的には内申点で、と無難な選択になるのが常である。この辺はまさしく日本的でもある。何でも「結果平等」を求める気持ちが先立ってしまう。面接というのは、主観的でいいのである。そのために面接をするのである。主観的にならない面接などありえないし、それを恐れているなら、最初から面接などしない方がいい。それこそ「書類審査」だけで間に合う。

 それと、入選委員に当たっている職員を除く、一般の職員は印刷された受検データだけを見せられるだけで、そのデータがどのようにして出てくるのかは、ほとんど知らない。それがもし、間違いのあるデータだとしても信じるしかない。もちろん出てきたデータのチェックは何度も行うが。これらのデータをもとに、合否の判定会議が開かれる。このデータが出た段階でほぼ合否は確定している。合否の境目あたりで多少の変動はあるが、極端な変動はでないようにしてある。私は、これらのデータを加工して職員に提示する係なのだが、出てきたデータに絶対に間違いがないかどうかは自信はない。係の私自身、パソコンに入っている表計算ソフトの性能を信じるしかない。入力ミスさえなければミスは出ないかというと、そうではない。毎日、操作している者として、ときに変な結果もでてくることを明記しておきたい。そうは言っても、仕事としてやる以上、最善の注意と努力をしてミスのおこらないように(これで受検生に迷惑をかけては申し訳ない)頑張るつもりだ。

 昔のように紙の上で、四苦八苦しながら、選抜のデータをそろえることもなくなり、すべてパソコンでの情報処理に変わった。いかにも現代的でデータにも信頼性がおけるようになったかに見える。しかし、そのデータを出す側の人間にとってみれば、何とも不安感の残る作業に感じるのはどうしてか…。パソコンで作業をするようになったために、以前ならまずやらなかった、むずかしい(意味があるというわけではない)式にデータを入力して数値を出す方法が簡単にできるようになった。でも、よく吟味してみると、それらのむずかしい式に何か統計学(または数学的)な意味があるわけではない、と思う。できるならやってみようというのが本当のところかもしれない。私は単なるデータ処理係なので、その辺のことはくわしくはわからない。ひょっとすると私の思い違いなのかも知れない。ただ、私には事を返ってむずかしくしているように感じられるのだ。もう決まっていることのようだし、言っても仕方ない。

■「学力低下」の原因は「推薦」にもあり

 大学生の学力低下が叫ばれている。それらの声を受けてか、先日、現役の高校3年生の学力をみるために「教育課程実施状況調査」なる試験が全国的に実施されたことが新聞でも報道されていた。結果が出るのは来年になるとのこと。どんな結果が出るかはわからないが、どんな結果が出ても文部科学省には口実はすでに用意されているように思える。もし、学力低下を示す結果が出ても、「いや、試験では測ることのできない”生きる力”はついている」とでも、コメントが出そうな気がする。

 私は、素直な感想として、現在の高校生の学力(基礎的な教科の知識的な面での)はまず間違いなく低下していると思う。しかしである、どの時点が最高であったのかとなるとこれはよくわからない。「低下」と言われているのだから、「昭和**頃」が最高だったとかいうように、はっきりと基準を示すべきなのだろうが、そういうものは示されたことはない。「低下しているように実感する」というのが真相かもしれない。こういうあいまいなところが、教育に関する言説には多い。

 大学生にもいろいろなレベルがあるから、一概には言えないだろうが、平均的にみれば、学力は低下しているのはすぐにわかる。何もむずかしい統計などとらなくても大学生の人数が以前に較べて格段に増えているし、大学の数自体も増えているのだから、全体的には学力は落ちているはずである。大学が一般的になってしまったのだ。特に優れた学生だけを集めているのではない。以前なら考えられないような学力の学生がいても何も不思議ではなくなっている。そういう学力の高校生でも、大学生になれる時代になったということ。そして、その現象を増幅している一端が「推薦制度」なのである。

■安易な「推薦」は止めよう

 「推薦制度」は時間をかけて、じっくりと生徒を吟味し、選抜してゆくという内容で行われれば、それなりに意味のある制度だと私も思う。しかし、現在おこなわれているものは、それとはほど遠い。まだ、過渡期だから…という話もよく聞く。でも大学から高校へとその制度が移行してきて、現状をみると、どこもかしこも「青田買い」に終始しているようにしか見えない。「就職」→「大学」→「高校」と階層を下げてきているだけのように思える。

 大学だと高校3年生の1学期までの内申点が、推薦時に用いられる。高校では中学校3年の2学期までの内申点が用いられている(県別・公私によって多少のずれあり)。合格の通知をもらった生徒にとっては、残りの学期は野球でいう消化試合みたいなものである。これで、学力が下がらなかったら奇跡だ。そんな生徒でも大学・高校はとらざるを得ない。それに、ほとんど公表されていないが「推薦で入学した生徒が一般入試で入学した生徒よりも学力的(あえて性格的なことは無視)に優れている」というようなデータはない。むしろ、高校の現場で見ていると、受験ぎりぎりまで勉強に打ち込んでいる生徒の方がはるかに学力は優れているとの印象を持っている。受験勉強を「本当の勉強でない」みたいにいう人もいるが、そうではない。人間、必死に勉強したことが最後には本当に身につくものなのである。

 大学が「AO」だの「一芸」だの小細工をしたような推薦制度を入れてから、入試の現状はますます悪化している。推薦制度を全部否定する気持ちはないが、あまりに安易な方法で、それも多人数の推薦が行われているのが、問題なのである。推薦をする側が「あの生徒なら」と推薦できるような中身のある推薦制度であれば、それは生徒にとっても「他人からのすばらしい評価」という体験ができるものとして、いい制度だとは思う。そのためには、安易に人を推薦してはいけない、と考えている。

■入試はシンプルなのが一番

 前述のように、私は「推薦制度」を好ましいものとは思っていない。できればなくしてほしいというのが、本心である。中学校で生徒を見ていたときもそうだったし、現在高校で生徒を見ていても、毎日見張られているような(見張っているような)「内申点」は嫌いである。自分が生徒としてつけられるのも嫌だけれど、教員として生徒につけるのも嫌いだ。もちろん生徒の学力の評価を出すことは、教育活動の一環として大切なことではあろうが、それが入試で活用されるのは嫌である。毎日、コツコツ頑張っている人を評価するのが「内申点」のようにいう人がいるが、本当にそうか。たかだか学校にいるときだけのようすを見て、それでその生徒が努力しているとどうしてわかるのか、人の見ていないところで努力している生徒だっているのではないか、等々考えると、それほどことは簡単でないだろう。内申書に書かれる内申点には、あまりにも複雑な要因が多すぎるためか、私自身は重く見るのは危険だといつも考えている。

 高校にしても大学にしても、基本は学力を身につける場所である。特定の分野のことを学びたければ、そういうタイプの学校を選べばいい。普通高校などは名前のとおり「普(あまねく)通(つうじる)」ことを学ぶ学校であるから、いわゆる知識における基本的なことを学ぶのが目的だろう。ふつう「学力」と言っているものはこれに当たる。学力をつける場所に入るのに学力以外に何が必要なのか。私には学力以外に思いつかない。ある学校で学べるものなど、ほんの一部である。一つの学校に多くのものを期待するのは危険である。ふつうの学校では生徒にしっかりと学力をつけることがもっとも生徒のためになることだと思う。それらの学力をどう活用するかは生徒自身の問題である。人の人生にあまりに立ち入るべからず。

 入学に当たってどうしても選抜を必要とする(人的・施設的な制限などで)ならば、生徒を選抜するに際しては、むずかしいシステムを取る事はそれほど意味はない。ふつうに学校で必要となるのは、学力なのだから、学力をみればいい。それもその時点で見れる一番フレッシュなものがいい。1年も2年も前のものは、もう生物学的にも本人のものではない。古来、人間はこの問題に悩みに悩んできた。そして、長い変遷の末にたどり着いたのが、「入学試験(筆記)」である。お隣の国「中国」で”科挙”として誕生したものである。この制度にも良い面・悪い面はある。それでも、現在に至っても多くの国で、この制度を活用している。これで、人的に大きな取りこぼしをしているとは思えない。私は自分自身失敗もしているし、そのときの精神的なショックも経験しているので、喜んでというわけにはいかないが、入試は「入学試験一発」が一番シンプルでいいと考えている。「我が子だけにはあの苦しさは…」とは思わない。あの緊張した人生の場面をきちんと受け止めてほしい。無事1回では乗り切れないかもしれない。でも障害から逃げているより実際に壁を乗り越えるべく頑張ってみるのは人生の中で無駄にはならない。それが15歳だろうが18歳だろうが、大きな壁はいつでもやってくる。もし、入試が必要なら、私にはこれが最善だと考える。

 選抜の必要がなければ、希望者は全員入学させればいい。そして、学力をつける努力をしない生徒(学生)、または学力の一向につかない生徒(学生)は厳しく諭し、改善の見られない場合は潔く退学をさせるのが一番かと思う。ただし、温情に流されやすい現在の我が国において、この方法が毅然と取れるかは疑問だ。一旦入れたとなると、そのまま「トコロテン式」に学校を卒業させてあげるのが人情みたいに思われている風土で、これを厳しくやったら父母から苦情が殺到するだろう。そういう圧力にも頑として受けて立つ学校はそうは多くないはず。だから、入り口のところでチェックして(入試)、入った後はそれなりにやっていれば何とか卒業まで、というパタンが定着したものと思われる。でも、日本だって古来を訪ねればそんなに甘い国ではなかったはずなのに、どこでどうなったものやら。

 結論は簡単。「推薦はいらない。入試は試験一発」これだけ。

 2002/11/17(日) 13:30

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