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★ 教 師 の 生 活 ★


■■はじめに

 教師になって20年。中学10年、高校10年。「教員は世間を知らない」などの批判を受けながら、自分なりのペースを何とか保ちつつ日々生活を送って来ました。気が付いてみると、なるほど「学校」という限られた職場の中で、しかも「生徒」という他人の「子供」と接する仕事をして来て、「教師とはなんだろう?」「このまま教師をやっていていいのだろうか?」等々の疑問がふつふつと沸いてくる今日この頃です。他の仕事に就いたことがないせいか、冷静に比較できない「弱み」はありますが、私の経験してきた「限られた範囲」の中で、外部の人にはなかなか知る機会のない「教師の実際」をお話できたらと思い、つたない文章ではありますが書き綴ってみたいと思い立ちました。
同じ職業の方には「当たり前」のことでも、そうでない方には多少の参考になるのではないか?と考えたのです。

 この文章は、別に「暴露」文ではありません。単なる一人の「教員」が体験したこと・感じたことを「主観的に(個人的に)」素直にまとめたものなので、一般化されて「教師とはこういう人間なのか!」とか「だから今の教師は・・・」などと論じないでいただきたいのです。あとで出てくると思いますが、「すばらしい教師」の方が本当に多いのです。私の尊敬する方も実にたくさんいます。そういう中で仕事をしている「ごく普通の教師」の姿を少しでも感じ取っていただければ、嬉しく思います。

 なお、公立と私立の学校ではかなり様子が違っているようですから、ここでは、ごくありふれた「公立」の学校を基に書いていることをご承知ください。

■■教師のなり方

教員資格

 ご存知の方も多いでしょうが、「教員」には「資格」が必要です。いわゆる「教員免許」という「資格」を必要とします。これは、初等・中等・高校などの「学校」で教鞭をとるために必要なもので、「公立」「私立」を問わず必要になります。この資格は大学あるいは短大などで取得できますが、検定などで取得することもできます。

 これが、学校の「雰囲気」に独特の影響を与えていることは随時触れていきたいと思います。単純にいえば、「教員はほぼ全員が大学卒である」と言ってもいいのです。大学・短大などで「教員資格」を得るための科目を取り、無事「単位」を取り終えると、自動的に「教員免許」が都道府県から「発行」されます。ですから、国内にこの「教員免許」を持っておられる人は相当な数になるのではないでしょうか?ちなみに、このホームページの作者の佐々木一郎君も持っています(その上、彼は教員試験にも合格していて、交通事故がなければ、現在「教師」をやっているはずでした)。この「資格」はあくまでも「教員試験」を受けるための最低限の条件ですから、免許を持っているからと言って、即「教員」になれるわけではないのです。

 不思議なことに、日本の大学の「教員」にはこのような「資格」は必要ないので、いつのまにか「大学教師」になってしまっている人もいると、何かの本で読んだことがあります。大学は建前上「学問」をするところなので、「資格」なんていう「俗世間的な」ものは必要ないのかもしれません。やはり、学問的な「実績」が前提なのでしょう。

 私がもっている「教員免許」には「中一理」とか「高二理」というレベルのもので、どうも同じ免許にも「階級」があるようです。何でも聞くところによると、最近は「大学院」を出てから、教師になる人も増えているとかで、そういう人は「免許」もレベルが上のようです。多分、「大学出」より「大学院」の方がいっぱい勉強していそうなので、文部省もその辺を考慮したのかも知れません。私の同僚にもそういう方が何人かおられますが、私自身は別段たいした違いがあるとは感じないのですが…。教頭などがときどき朝の打ち合わせなどで話しているのを聞いたことがありますが、なんでも現場で20年近く教員をやっていると、県などに申請すれば「大学院卒」と同じレベルの免許に変えることができるようです。将来、管理職などをねらっている人が「こっそり」申請しているのを見たことがありますから、やはり免許って「効力」がありそうですね。

 教員免許は、小学校の場合は多分「全教科」なのでしょうが(実はよく知らないのです)、中学・高校の場合は「教科」ごとの発行ですから、該当する教科以外は教える資格はないことになっています(建前!)。実際は、なかなか教師の集まらない教科(たとえば中学の技術家庭科など)の場合、やむを得ず内容が多少似ている理科や数学(?)の教師が臨時的に教えることがあるのは事実です。こういうのは「モグリ」なのですが、教える教師がいないのでは「教科」は成り立ちませんから、「本音」優先でかなりの学校でやられています(現在は多少改善されているかも知れません)。高校ではこういう例はほとんど聞いたことがありません。

教員資格

 正式に「学校」の教師になるには「教員試験」に合格しなければなりません。公立・私立さらに採用された年代で多少の違いはあるのでしょうが、基本的には「筆記試験(1次試験)」と「面接・小論文(2次試験)」、さらに採用される学校の校長による「面接(3次試験)」というのが、一般的な形のようです。
一般論はいろいろな本に書いてあるので、実例ということでここでは「私個人」の場合の経験したことを順にお話していきます。私が「教員試験」を受けたのは、昭和52年ですから20年近くも前のことです。あれからずいぶん世の中も変わりましたから、おそらく「教員試験」の世界にも大きな変化があったことと思いますが、毎年新採用の人は減る一方で正確な情報がつかめません。残念ですが、自分の「体験談」でご勘弁願おうというわけです。

 私が受験した当時はまだ「試験日時」が都道府県・政令都市ごとにまちまちで、「教員」を目指す人は大抵2つか3つくらいは普通に受験していました。私は、出身県の福島・千葉・東京そして政令都市の「横浜市」を受験しました。横浜には市立高校もありますが、高校での募集はしていませんから、中学教員の試験を受けました。福島は高校を他のところは中学を受けたのです。その当時、横浜市(神奈川県も)は全国でも1番はやく試験がありましたから、それこそ日本中から受験に来たものです(模擬試験も兼ねて)。私はもともと「教員」志願ではありませんでしたが、景気も悪く民間への就職もままならない状態でしたので、いわゆる「デモシカ」教員のなれの果てというところでしょうか。

 さて、実際の「試験」ですが、7月の上旬に横浜市の「筆記試験」がありました。当日、会場は横浜市立大学で「理科」での採用は「約20名」とのことで、受験番号を張り出している楯看を見たら、800番台まであり「こりゃ、受かるわけがない」と実に気楽に受験したような記憶があります。試験は「一般教養・教職教養」と専門の「理科」に分かれていて、午前と午後に分けて実施されたように記憶しています。他の県・都も同じ形式だったと思います。もう、試験中は夢中ですからどんな問題がでたのか、今では思い出せませんが、どの会場でもとにかく全部解答するように努力したことは確かです。

 横浜市に始まり、10月の東京都で1次試験は終わりました。結果はどうだったかというと、横浜市だけが受かり、他は全滅でした。実家のある福島県に帰るのが「一応の目標」でしたから、不本意な結果に終わったわけです。でも、全く知り合いのいない「横浜市」でも、1次が通ったときにはやはり嬉しかったです。2次の試験の日程の書いた用紙が送られてきて、多分11月頃に2次試験がありました。今度は人数はだいぶ少なくなっていましたが、一緒に1次を合格した同じ大学の人の話では、5人に1人ぐらいの合格ということでした。1次を通ったのも実は「どうして通ったのか?」が今もってよくわかりません。何せ、教員試験の問題の解答は発表されませんから(これは今でも同じ)、本人もどれくらいできたのかは不明なのです。2次試験は午前中に「小論文」があり、何か「課題」を出されて、それについて自分の考えを書く問題だったと思います。午後には、面接があり、グループ面接と個人面接があったのでは(この辺は記憶が定かではありません)ないでしょうか。個人面接では「質問」の中に「山」のことが聞かれたので、面接官と長々と「山談義」になってしまいました。終わっ て「こんなので受かるわけはないよな」と早々と「不合格」を決め込んで、下宿に戻ると友人達と飲みまくったのでしょう(多分?)。

 卒業研究で忙しい2月頃に、な・なんと「2次合格!」の通知が届いたときには、全く信じられませんでした。この2次に通ると、「教員採用者名簿」に名前が載ることになります。後は該当の学校から「お呼び」がかかると「3次試験」になるのです。この「名簿」の有効期限は次年度の試験くらいまであり、それを過ぎると「もう一度最初から受け直し」になります。実際に「名簿」には載ったけれど「採用されない」ケースもけっこうあったとのことですから、「お呼び」のかかった私は「幸運」といってよいでしょう。しかも、全く知り合いのいないところなので、自信を持って「コネ」がなかったことは言えると思います。「お呼び」のかかった「中学校」は横浜市のはずれにある「こんなところが横浜にあったのか?」というような場所でした。その当時、いしだあゆみの「ブルーライト横浜」がTVやラジオで流れていて、そのイメージでいましたから、現実の「落差」にびっくりしたものです。校長との面接もおだやかな雰囲気の中で終わり、校長から「こちらにはいつ頃引越しされて来ますか?」と言われたときには、「採用だ!」と心底嬉しかったのを昨日のように覚えています。

 こうして、私は昭和53年の4月から「中学校」の「新米理科教師」として、教員の道を歩むことになったのです。

 現在では新採用教員の人数が極端に少なくなっていることは、新聞等でも何度も報じられ、みなさんよくご存知のことでしょう。「教員への道」はますます狭くなっていくのも時代の趨勢かもしれません。

「先生」と呼ばれる日

 昭和53年の4月1日に辞令交付式がありました。この「辞令」をもらって初めて正式な「教員」になるわけです。今もあるのか知りませんが、開港記念会館の脇にある大きなホールでその式がありました。小学・中学が合同だったと思います。一人一人の採用者の名前が呼ばれ起立していきます。そして、最後に代表者がまとめて壇上で辞令を受け取りました。式が終わり、自分の辞令を代表者から受け取り、それを今度は自分の行く「赴任校」に持っていくのです。

 私の赴任校は横浜の外れですから、「関内(横浜の中心部)」から電車を乗り継いで、さらに下車駅から徒歩で学校に向かいました。ここが横浜とは信じられないような田園地帯を歩いていくとき、教員に合格できて良かった!(田舎の父母には5年くらいで戻って来いよ、と言われてはいたが…)とにかく就職できて助かった!と思ったものです。このとき、同じ学校には新設校ということで4人の新採用者がいましたから、そろって学校に向かったと記憶しています。

 学校に着くと校長室に案内され、そこで辞令を校長に渡し改めて校長から辞令を一人ずつもらいました。このとき、「大竹先生!」とはじめて呼ばれたのです。もう「先生」なのです。これだけで…。つい、この間まで「学生」をしていた自分が…と考えると、実に変な気分でした。このあと、職員室にいる先輩の先生方に紹介されて、自分の席に案内されました。きれいな机の上には「教務手帳(俗にいうエンマ帳)」とガリ版に使う道具一式がきちんと並べて置いてありました。このとき、現在も親しくお付き合いをさせてもらっているY先生とも出会ったのです。もう、会話の中では「大竹先生」という言葉が普通に使われているのです。先輩の先生方は大変丁寧で、その後もこんな「新米」の私に対しても「一人前の先生」として扱ってくれたことは、今でも感謝しています。多分、民間の企業と違うところがこの辺なのかも知れません。

 私は「初任」なので、てっきり担任はないと思い込んでいたら、もうしっかり「1年3組」の担任ということになっていたのは本当に驚きました。「教員のいろは」も知らない初任者があと数日で始まる「新学期」には、担任として生徒40人近くの「担任」として、クラスを切り盛りしていかねばならないのです。出来るかどうかとは関係なくもう「クラス担任」なのです。不安もありましたが、もうやるしかありません。

 始業式の日、朝の打ち合せの時間に全員の先生方の前で一人ずつ挨拶をしました。緊張感で何を言ったのかは覚えていませんが、いよいよ「教師の仕事」が始まったのです。式では在校生(といっても新設校なので、生徒数はそんなにいなかったようですが…)の前で、しかも始めて「壇上」で紹介されたときには生徒の「視線」が突き刺さって来るようでどこを見ていればいいのかわかりませんでした。

 次の日はいよいよ「入学式」です。こちらは、前日に増して緊張しました。何と言っても「自分のクラス」の生徒が入ってくるからです。式が進み、「担任紹介」の番になってきました。壇上で「1組…先生」「2組…先生」次は私です。「3組…」生徒と父母の視線が一斉に私に集まるのを感じ、恥ずかしさと緊張感で何をしたのか思い出せません。式が終わると生徒・父母の待つ「1年3組」の教室に向かうのです。ここで、教室の教卓の前で、生徒と直に対面しました。生徒の名前を名簿に従い、顔を見ながら読み上げていきます。次は自分の紹介です。それまで、私は自分のことを「俺が…」とか「僕が…」などと言っていましたが、このとき初めて「私は大竹といいます」と言ったように思います。何とか「所信表明」も無事終わり、「校時(学校独特の時間)」が終わりを告げるチャイムがなったときにはほっとしました。すると、待っていたように何人かの生徒が寄ってきて「先生、歳いくつなの?」とか「初めて先生になったの?」などと声をかけてきたのです。もう、生徒にとっては「俺は先生なのだ」と、このとき実感させられました。

 こうして、私は「先生!」と呼ばれるようになってしまったのです。あの声をかけてきた生徒達ももうすでに30歳を越え、さまざまな人生を歩んでいます。不幸にして、すでに亡くなった生徒もいます。「結婚しました」とはがきを送ってくれる生徒もいます。今思うと、因果なこの職業もすべてこの「先生」が始まりでした。(97/12/26)

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